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詰め将棋を愛する者なら、死を鮮やかで美しいとすら思うのである。

もうどうにもならない状況に陥ったとき、人は呟く。
詰んだ。

まだまだ煮詰まっていない企画があるとき、人は呟く。
もっと詰めていこう。

敵の攻撃がいまいち急所に刺さらなかったとき、人は呟く。
詰めが甘い。

「詰み」という概念は、元来、将棋用語として使われていたにも関わらず、あっという間に世間に広まっていった。
なぜか。
それは、「詰み」が人の世と密接に関わっているからだ。
人生とは、詰むか詰まないかの狭間で悶えることをいう。

それだから「詰め将棋」とは、人生の本随を詰め込んだ教科書なのだ。
この教科書を読まずして世に繰り出そうなどと考える輩に明日はない。
現に、「詰め将棋」をやっていなかったばかりに受験に失敗したり、職場に馴染めなかったり、冤罪で捕まってしまったりする輩が後を絶たない。

詰め将棋さえやっていれば……。
老後、貧困にあえぎながらそう呟く人間にはなりたくないものだ。

幼き日のメッシは、詰め将棋をはじめたことで驚異的なサッカーの才能を開花させた。
ケイティペリーは、あの歌声と美貌を詰め将棋によって維持している。
トランプが米大統領選に出馬を決めたとき、氏が愛読していた書物こそ詰め将棋にまつわる本である。

詰め将棋の効能は素晴らしく、枚挙にいとまがない。
なぜこうも詰め将棋は人々の才能を導いていくのか。

それはつまり、こういうことだ。
詰め将棋とは、あらゆる可能的事態を網羅して考え、詰み筋を見極めるゲームであり、これにより人生の様々な局面を乗り越える力が養われる。

相手の王将の位置。
自身の駒の配置。
相手の駒と自身の駒の利き具合い。
自身の持ち駒。
初手に可能な王手の仕方。
王手に対する相手のいなし方。
派生するすべての局面の収束具合い。

あらゆる可能的事態を想定しつつ、最短最速の詰み筋を捉えるのだ。

言わずもがな、難儀である。
とても難儀だが、しかし有意義だ。
はじめは1手詰めからやってみればいい。
どうやったら相手の王将の逃げ場がなくなるか必死に考えてみるのだ。
そのうち3手詰めに挑戦しよう。
複雑になっていき、頭の中では盤面が構築できないだろう。
マグネットの将棋盤でいいから、実際に駒を並べてみるといい。
そうして、どんどん「詰める」という感覚を身につけていくのだ。

そして、詰め将棋をこなしていくと、仕事で不思議な事態に遭遇することになる。
上司に詰められているとき、こう思うようになるのだ。

「初手でそう指すと、後が続かないぞ」
「おいおい、その筋は手数が多過ぎる」
「それでは入玉されてしまう」

それもそのはず。
可能な駒の動かし方と派生する局面をイメージできていれば、詰み=ゴールが見えてくるのだから。

そのうち、逆に上司を詰めるようになる。
最短最速で、だ。
すると、どうだろう。
周囲の人間からの評価がみるみる変わっていく。
7手詰め、9手詰め、11手詰め……。
どんな手数でも詰ませまくればいい。
やがて会社のトップに上り詰め、競合他社を詰めていくことになる。
M&Aで持ち駒を増やしつつ、業界を越境して詰ませてもいい。
竜王戦や名人戦といったタイトル戦で、ビルゲイツなどと詰ませ合うことにもなるだろう。

詰めて、詰めて、詰めまくる。

そしていつか、問いにぶつかる。
自分はどうやって詰むのだろうか。

自分の終わり方、詰み方を考えるようになる。
結婚し、あたたかい家庭を築き、老衰するように詰ませるか。
独身を貫き、自由気ままに暮らし、孤独死するように詰ませるか。

詰め将棋のセオリー通り、あらゆる可能的事態を想定しつつ、詰み筋を捉えていく。
詰め将棋とは、人生の教科書なのだから。

しかしあるとき、病気が見つかる。
医者いわく、治療は難しく、余命数週間らしい。
全身が震え、思い通りに動かない。
これまで、思い通りに動かせなかった駒はないのに。
詰ませられなかった局面はないのに。

詰みは、突然やってきて、すべてを奪っていく。
詰みは、自身の手のひらにあったはずなのに。

いくら盤面を俯瞰し、駒を動かそうとしても、思い通りにいかない。
圧倒的な詰み。

死という圧倒的な詰みを前にして、思う。
「ああ、やっぱり詰め将棋、好きだな」

法則も論理も意志もおかまいなしの、圧倒的な詰み。
詰め将棋を愛する者なら、死を鮮やかで美しいとすら思うのである。

詰みを美しいと思う心。
これもまた、詰め将棋に教わる大切なこと。

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