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【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(18)


前回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(17)





 床に、丸められたアルミホイルが、力なく転がっている。


 私は天井を見つめた。真っ白で、くすんでおらず、このアパートが新しく建てられたことを示している。照明の光が波紋のように広がっていて、中心では小さい粒さえ目立って見えた。


 体に力が入らない。腕も足もまるで自分のものではないみたいだ。脳の中で意識が右往左往していて、落ち着ける場所なんてない。なのに、私の頭はずっと上を向いていて、動こうとはしなかった。昔の歌謡曲が頭の中を流れて、私は思わず口ずさむ。一人ぽっちの夜に、私は打ち捨てられていた。


 スマープでもNAでも、今日一日ということは教えられていた。使いたくなっても今日一日は我慢して、明日使おうという考え。その最低限さえ、私は守ることができなかった。今日も我慢することができなかった。自分が馬鹿らしく思えてくる。世の中の薬物を使わないで生きている多くの人に、顔向けができない。私は生きることを許されないだろう。薬物に頼っている私は、誰からも承認されるべきではない存在だ。


 どうせこのまま生きていても薬物から完全に手を切ることなど不可能だろう。私に明るい未来なんて訪れない。誰が何と言おうと、全身が私にそう確信させる。止めることができないと分かっているのなら。この先の人生も苦しみしか待っていないのなら。


 顔を下げて、部屋をぼんやりと眺めた。家具も家電も必要最低限のものしかない。床は毎週掃除しているから常に綺麗で、ゴミ箱の蓋はちゃんと閉められている。実に生活感に乏しい部屋だった。荷物をまとめて引っ越しをするのはとても簡単そうだ。今までの私がそうしてきたように。


 私は立ち上がって、クローゼットから長袖のオーバーシャツを取り出した。丁寧にアイロンがかけられていて皴一つついていない。自分の事ながらその几帳面さに呆れてしまう。けれど、皴はこれからたくさんつくのだから別にいい。私はカーテンを閉めて、オーバーシャツの袖を、カーテンレールに括り付けた。解けないように袖口を固く、固く結ぶ。格好なんてどうだっていい。


 私は部屋の隅から椅子を持ってきて、カーテンのそばに置いた。そして、椅子の上に立ち、輪に首を掛ける。一つ大きく息を吸った。最期の深呼吸にするつもりだった。目を閉じると人生の出来事が浮かんできたが、そのどれもが取るに足らないものだった。私は、椅子を蹴り飛ばした。息が苦しく、体が生を求めてもがいている。


 だが、これ以上生きて一体どうしろというのだ。最期くらい自分の人生は、自分で決める。私は必死で宙に浮かんだままとどまった。永遠とも思える長い時間の後に、意識は霞んでいき、深い暗闇の中に放り出されたことを感じたが、その感覚もしばらくしてなくなった。






 スマープの最終回の日は、雪は降っていなかったが風が冷たく、手袋越しでもかじかむような寒さだった。俺は自転車を停めると駆け込むようにして、会場に入った。薄い暖房の風が俺を迎える。もうこの建物にはもう二度と来ることはないだろう。そう考えると、どこかうら寂しさを覚えたが、まだ寒かったので、俺はいつもの部屋に急いで向かった。


 ドアを開けると、熊谷と六角、それに深津がもう来ていて座っていた。以前よりかは少し喋ることができるようになった深津の席のそばには、松葉杖が立てかけられている。深津が無事に退院できたことに俺は安堵する。しかし、すぐに高咲さんがいないことに気がついた。普段だったら俺よりも早く来て、六角と喋っているというのに。俺は懐疑しながらも、ひとまずは自分の席に向かうことにした。


 席に着くと、三人は談笑していたが、心の底から笑っている人間は誰もいないように感じられた。高咲さんがいないと、室内の空気は澱みに澱む。俺は、そんな空気から避けるようにして頭を下げ、カレンダーにシールを貼った。一枚の赤いシールが青いシールたちの中で、場違いに目立つ。


 することもなくなり、澱んだ空気の中で、苦し紛れに深津に話しかける。


「退院おめでとう。もう体の方は平気なのか?」


「ありがとうございます。あれから特に何事もなく、予定通りに退院できてよかったです」


「そうか、よかったな」


 会話はそこで途切れてしまう。この空気をさらに重くさせる言葉ばかりが思いつく。だが、言わずにはいられなかった。


「ところで、高咲さんどうしたか、お前知ってる?」


「いや、分からないですね。いつもだったらとっくに来ているはずなのに、どうしたんでしょうか」


「弓木さんも、深津さんも、何も聞いてないんですか?」


「はい、何も。あの、六角さんは何か聞いているんですか?」


「私も何も聞いていないです。何かあったんでしょうか。心配です」


「あの高咲に限って寝坊とかは考えられねぇしな。本当どうしちゃったんだろうな。乃坂さん、あんた何か聞いてるか?」


「私も、特に何の連絡も受けていないですね。先程、高咲さんの携帯に電話してみましたけど、応答なかったですし」


「そっか……。いや、こうして待っていればそのうち顔を出すだろ。何の心配もいらねぇよ」


「そうですね……。たぶんこちらに急いでいる途中で、電話も出られなかったんですよ」


「だと思います。もう少し、高咲さんが来るのを待ってから始めましょう。前のクールも皆勤でしたし、きっと今日も来るはずです」


 けれど、そのまま三〇分経っても高咲さんは現れることはなかった。待っている間は誰も何も話すことがなく、スマートフォンを見ることすら許されない、重苦しい空気が蔓延していた。暖房が稼働する音のみが聞こえ、俺は早くこのつまらない時間が終わってくれることを願う。


「来ないですね……。高咲さんも心配ですけど、そろそろ今回のスマープを始めましょうか」


 乃坂がそう言って、高咲さんの到来を俺たちが諦めようとしたそのときだった。ドアがノックもなしに勢いよく開いた。そこには見慣れない女性が立っていた。背が低く、コートの裾は膝まで達している。外は寒いのに、走ってきたのか、その顔はじっとりと汗ばんでいた。こめかみから頬を通って落ちる汗。口元の黒子を、俺はどこかで見たような気がする。


「あの、どちら様でしょうか」


「お姉ちゃんが……。お姉ちゃんが……」


 彼女は息を切らしながら机のそばまで歩み寄ってきた。顔は歪んでいて、今にも泣きそうだ。「お姉ちゃん」と彼女が発した瞬間に、全員が、彼女が何者であるかを察したようだ。それでも乃坂は尋ねる。


「お姉ちゃんとは、どなたのことでしょうか。そもそもあなたは……」


「お姉ちゃんが、昨日首を吊ってました。昨夜、私がたまたまお姉ちゃんの元を訪ねて行ったら、カーテン越しに影があって。急いで部屋に向かったらお姉ちゃんが倒れていて、意識が無くて、そのそばにはオーバーシャツが破けて落ちていて。幸い一命はとりとめたんですが、今は入院しているような状況で……」


 高咲さんの妹が、憔悴しきった様子で絞り出した言葉を、俺は一言一句、聞き漏らさなかった。高咲さんが自殺未遂……?にわかには信じられなかったが、彼女の涙をみるに事実らしい。高咲さんがまさか……。


 次の瞬間、自分でも意識しないうちに立ち上がり、ドアに向かって走っていた。「ちょっと、弓木さん!」という乃坂の声が遠くに聞こえていた。


 外に出て、俺は自転車を漕ぎ出した。立ち漕ぎで受ける風は、より一層冷たかったが、怯んではいられない。俺は手袋もせずに一番近い病院へと向かう。そこに高咲さんがいるかどうかは分からない。それでもいるはずだと強く信じたかった。会ってどうなるというわけでもない。ただ、話がしたい。俺は自転車を漕ぎ続ける。信号は察するかのごとく、全て青だった。風の音は不思議と聞こえなかった。





 駐輪場に自転車を停めて、鍵もしないで駆け出す。受付係に息を切らしながら聞くと、高咲さんはこの病院に入院しているとのことだった。俺は階段を駆け上がり、三階の病室に向かう。息が上がって胸が苦しかったが、こんなもの高咲さんの苦しみに比べればどうということはない。


 病室のドアを開けたとき、一目見ただけでは高咲さんの姿は見えなかった。ただ、奥にややオレンジがかった白いカーテンがかかっているのが見えた。俺は、一直線にカーテンのかかったベッドへと足を運ぶ。中を覗くと、やはりというべきか、良かったというべきか、高咲さんがベッドに腰かけていた。深津と同じ水色の病衣を着ていて、右腕には点滴が差されている。テレビはついておらず、カーテンの揺れもすぐに収まった。


 高咲さんは呆然と窓の外を眺めていたが、俺に気づくとにこやかに笑ってみせた。


「あっ、弓木さん、こんにちは」


 予想だにしなかったその反応に、俺は少したじろいでしまう。


「今日はまた一段と寒いですよね。さっき外に出てみたんですけど、こんな薄着じゃもう一分も出ていられなくて」


「高咲さん」


「弓木さんも風邪ひいてはないですか?まだまだ寒さは続きますし、暖かくして用心しないとですよ。私も毎日生姜湯飲んでますもん」


「高咲さん」


「そうそうそれより昨日のボクシングの試合見ました?橋岡選手が三ラウンドKO勝ちしてチャンピォンになった試合ですよ。最後のストレートは痺れましたよね」


「高咲さん!」


 高咲さんはわざと気丈に振る舞っているように、俺には見えた。そんな彼女の仮面を剥がしたくて、俺の語気は強くなる。


「どうしたんですか、弓木さん。そんな深刻そうな顔をして」


「高咲さん、どうして死のうとしたんですか」


 わずかな沈黙が流れ、
  


「私のことなんて、何も知らないくせに」


 と、高咲さんがぼそりと呟いた。声がオクターブ一つ下がったようだった。


「弓木さんには私が死ぬ必要はないように見えても、私には私が死ぬ必要があるんですよ」


「そんなことないですって!」


「何言っているんですか。私じゃないくせに。私は昨日薬物を再使用してしまいました。これからも薬物を止めることができそうにもない自分に嫌気が差して、首を吊りました。これが理由です。別によくあることですよ」


「別に薬物を止められないからって、イコール死んだほうがいいってことにはならないじゃないですか!薬物を使いながらでも、生きていればそれでいいじゃないですか!」


「じゃあ聞きますけど、弓木さんは再使用をしたことがないんですか」


「二回目の出所以降は、昨日初めてしました」


「そのとき、どう思いました?」


「薬が効いている間は気分が良かったんですけど、効果が切れてからはもう何もする気がなくなって。使ったことをもの凄く後悔しました」


「ほら、やっぱり再使用してるじゃないですか」


 高咲さんの口調には怒気が含まれている。こんなに頑なな高咲さんを見るのは、初めてだった。


「私は、それを何回も味わっているんですよ。もうこんなことしないと痛感したのに、気づくとまた使っている。そりゃ嫌になりますよ」


「あの、何回もというのは……」


「言葉通りの意味ですよ。私は何回も薬物を使っている。それだけのことです」


「でも、高咲さんのカレンダーはいつだって青いシールで占められていたじゃないですか」


「ああ、あれですか。別にあんなところで正直に言ったところで、何になるんですか?最後に使うか使わないか決めるのは、自分自身なのに。結局一人なのに。他人の干渉なんてどうにもならないですよ。だったら、使っていないことにして周りから褒められた方が得じゃないですか?褒められた方がスマープを続けられて、結果として回復に向かっていくんじゃないですか?」


「そんなことして、高咲さんの良心は痛まないんですか?」


「不思議とそれほど痛みませんね。だって皆さんもきっとそうしてるんでしょうし。騙し騙し。弓木さんもそうやっているんじゃないですか?」


 俺は違う。正直に黄色や赤のシールを貼っていた。熊谷も六角も深津もそうしていた。青いシールの連続は高咲さんの本心だと思っていたのに。模範だと信じていたのに。


「高咲さんってそんな人間だったんですね」


「そうですよ。私は元々こういう人間ですよ。弓木さんが思うような、いい人間じゃないですよ、私なんて。どうですか?今こいつ死んだほうがいいなって、思ってません?これでも私が生きていていいなんて言えますか?こんな最低の人間である私が」


「言えますよ!高咲さんには自ら死ぬような真似をしてほしくない!俺や六角、熊谷や深津と一緒に生きて、回復の道を歩んでほしいです!」


「さっきから、生きろ生きろうるさいですね。そんなこと言って、本当に死にたいのは弓木さんの方じゃないですか?」


「俺はそんなこと思ってないですよ」


「嘘つかないでください!弓木さんだって、手首を切ってるじゃないですか!」


 辺りが一瞬静まり返った。病室中の視線が俺たちに向けられているように感じた。だが、高咲さんはそんなこともお構いなしに、俺の服の袖をめくった。するとそこには、いくつもの傷が現れた。皮膚がめくれて、色素の薄い窪みがあった。剃刀で、カッターナイフで、包丁で、様々な道具を使ってつけてきた傷だ。一直線になっている傷もあれば、少し曲がっているものもある。消えかかっていたり、くっきりとしていたり、長さも太さも千差万別な苦闘の跡が俺の腕に刻まれていた。


 高咲さんはいったい、いつ俺の自傷痕に気づいたのだろう。自分で見るには安心するが、他人に見られるとこんなにも癪に障るものなのか。俺は高咲さんの手を振り払い、袖を元に戻した。自傷痕は姿を隠したが、高咲さんの脳裏には十分に刻まれたようだった。


「ほら、弓木さんは手首を切ってる。これって死ぬためにやっていることですよね。弓木さんもずっと死にたいという気持ちを隠していたんじゃないんですか?」


「違います」


「何が違うんですか!私の首つりと、弓木さんのリストカット。どちらも死ぬための行動なんじゃないんですか!死にたい死にたいって思ってる弓木さんの『生きろ』なんて何にも響かないですよ!」


「違うんです!絶対に違う!俺は確かに死にたいと思っています。ただ、このリストカットは死ぬためのものじゃない。手首を切って、流れる血を見て、自分は生きている、死んでいないって実感するための行為なんです!死んでるか死んでないか分からない暗闇から逃げ出したくて、抗いたくて。それでも抜け出すことはできなくて。このリストカットは、俺の『死にたい』を、痛みを持って『生きたい』に変える願いなんです!希望なんです!」


 高咲さんに言っているのか、それとも自分に言い聞かせているのかは、もう良く分からなかった。ただ「生きたい」「生きてほしい」という祈りだけが、俺の心身を満たしている。


「だからといって、高咲さんにもリストカットをしてほしいなんて、俺は言いません。するもしないも高咲さんの自由です。本当は止めてほしいですが、薬物を使うならそれもいいでしょう。ただ生きてさえいれば。俺は高咲さんにも生きてほしいです。生きてさえいればいいことがあるなんて、とてもじゃないけど言えません。それでも日々を生き続けてほしいんです」


「そんなこと言ったって、私の人生ずっとめちゃくちゃだったんですよ。薬物のせいで。父親も母親も、結婚相手さえも失って。それでも薬物を止められない。私は、自分自身が憎くて憎くて、たまりません」


「高咲さん。そんなこと言わないでください。過去にこだわってもしょうがないじゃないですか。いくら昔の自分が憎いからって、今の自分や未来の自分まで憎むことはないでしょう。また、一緒にスマープに行きましょうよ。俺は高咲さんと一緒に、映画にでも物産展にでも行きたいです」


「どうしたんですか、弓木さん。急にそんな話しだして。薬物依存症からの回復で大事なこと忘れたんですか。『今日一日』ですよ。『今日一日』も叶えられない私に、未来があるわけないじゃないですか」


「高咲さん、『今日一日』を続けていけば、それが積み重なっていつか未来に行けるとは考えられませんか。今日は未来へとつながる第一歩目なんです。『今日一日』を続けて、気づいたら未来にいる。それってとても励まされることだと思いませんか?」


 高咲さんは目を伏せた。


「高咲さん。死なないでください。少なくとも自分からは。僕は高咲さんが死んだら悲しいですし、スマープの仲間たちもそう思うはずです。どうか僕たちと一緒に生きて、クリーンを続けて未来を迎えましょうよ」


「私なんかが生きていて、本当にいいんでしょうか」


「生きていていいと思いますよ。誰だって」


 高咲さんは顔に手を当てた。肩が打ち震えている。俺はその姿を何も言わずに見守る。外からいくつもの足音が聞こえた。ドアの方を見ると、乃坂を先頭にして、高咲さんの妹、熊谷、六角、深津が入ってきた。高咲さんに駆け寄る五人。俺は数歩身を引いて、その様子を眺めていた。乃坂が高咲さんの震える方に手を当てて、優しく話しかけている。高咲さんの妹が、高咲さんを柔らかく抱きしめている。熊谷も、六角も、深津も、思い思いの言葉を高咲さんに語り掛けている。そのどれもが優しさに満ちた言葉で、俺は誰にも分からないように、一つ微笑んだ。


 高咲さんは、皆に認められている。生きていることを認められている。





 俺たちは病院から戻り、最後のスマープを終えた。最後だからといって、特別しんみりすることもなく、つつがなくプログラムは終了した。俺は尿検査で陽性を出してしまったが、誰も責めることなく、励ましてくれたことはありがたかった。それでも、高咲さんの不在は俺の中で埋まることのない空洞として、口を開けて待っていた。笑っていても、心はどこか落ち着かなかった。


 家に帰っても、所在なさは解消されることはなかった。照明をつけると、部屋がいつもより広く感じてしまう。だが、それも束の間のことだった。俺は少し寝て、腹が空いたと感じたらカップラーメンを食べて、テレビを点けて笑おうとした。だが、空洞は俺を引き寄せようとする。


 俺は、どうしてこんなに嫌悪感を抱いているのだろう。高咲さんが死ななくてよかった。だが、同時に自分でも理解できない劣等感が渦巻いているのも事実だった。俺は高咲さんに嫉妬しているのだろうか。隣の部屋からは、談笑する声が聞こえる。話し相手もいない俺は、いつだって一人だ。


俺の視線はクローゼットに向いていた。いっそこのまま何もかも放り投げて、気持ち良くなることができたのなら。クスリは残り一回分しかない。そうだ、今日で使うのは最後にして明日からは、きっぱりと止めることにしよう。神様だって一回ぐらいは見逃してくれるはずだ。


 俺は、クローゼットに向かおうとした。だが、立ち上がる際に右手をカバンにぶつけてしまい、俺の視線はクローゼットから外れた。痛む右手の先で、鞄の口は空いていて、ワークブックの背表紙が見えた。この半年間で一番読んだ本。俺の手は自然とワークブックに伸びていた。もしかしたら、神様がそうさせたのかもしれない。


 ワークブックの表紙を眺める。白い背景にカラフルな線が雨粒のように引かれているのは変わりなかったが、ややくすんだ色合いが時間の経過を思わせる。前はこのガイドブックを見ても何も感じなかったが、今はこの半年間の様々な光景が思い浮かぶようだった。


 緊張して自己紹介をしたこと。
 熊谷が泣きながら再使用を告白したこと。
 六角や高咲さんらと一緒に紅葉を見に行ったこと。
 深津を聖堂で見つけたこと。
 高咲さんと初めて気兼ねなく話ができたこと。
 止めようと誓ったのに、再使用をしてしまったこと。


 ワークブックを開いた。整った文面の中に、俺の汚い字が浮かんでいる。少しページを捲り、手を止めた。そこには、初めてスマープに参加したときに書いたコメントが載っていた。読むのにも苦労するほど、小さく分かりづらい字だが、確かにこう書いてある。


「薬物・アルコールを使うメリット:

 気持ちよくなれる。
 嫌なことを束の間でも忘れられる。
 クスリの仲間ができる。

 薬物・アルコールをやめるデメリット:

 嫌なことを忘れることができない。
 クスリでできた仲間と繋がれなくなる。」


 半年前の俺はこんなことを考えていたのか。読み返してみると、言葉足らずで恥ずかしい。なんという浅はかさ。だが、今の俺が考えていることも大して変わらない。クスリでできた南渕先輩や小絵さんとの繋がりは、逮捕と同時に絶たれてしまった。そのときの俺は、また一人に戻るのかと絶望し、手首を切っていた。流れる血を見て、ゾッとするのではなく落ち着いたことを今でも覚えている。


 もう一生、誰かと繋がることはないのだと感じていた。このまま孤独に死んでいくのだとばかり思っていた。だが、それは違った。クスリは今も止められていないが、止めようとスマープに通ったおかげで、高咲さんや熊谷、六角や深津と繋がることができた。俺が死んだら少なくともこの四人は悲しんでくれるはずだと、今では確信できる。一人で家にこもっていては、決して手に入れることのできない贈り物だった。


 俺は、ワークブックを机に置いて立ち上がった。そして、クローゼットへ歩み寄る。使うためではなく、止めるために俺はクローゼットの扉を開けた。クスリを取り出し、可燃ごみの袋に入れて、口を固く結んだ。そして、窓からベランダに投げ捨てる。外の風が凍えるほどに冷たくて、俺はすぐ窓を閉め、そして鍵をかけた。振り返ると照明が一際眩しく見えた。


 座ってワークブックを読み直す。下手な字に少し嫌気が差しながらも、最後まで読み進めていく頃には、日付が変わってしまっていた。最終回の最後のコラム。「今日一日」というテーマ。明日はどうなっているか分からない。もしかしたら、ゴミ袋を破って使っているかもしれない。それでも、今日はこのまま使わずにいられそうだ。今の俺にはそれしかいらない。ひたすら「今日一日」を積み重ねていけばいい。


 さらに、ページを捲る。支援機関のリストを流し読みしていた俺の手は、あるページで止まった。


「神様、私にお与えください。
 自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを、
 変えられるものは変えてゆく勇気を、
 そして二つのものを見分ける賢さを。」


 NAの最後に、毎回唱和するこの言葉。確か「平安の祈り」といったはずだ。NAで唱和するときは、正直、ただの呪文でしかなかったが、今では一字一句が胸に沁みこんでくるようだった。俺は、息を深く吸った。生暖かい暖房が支配する空気は、新鮮とはいえない。それでも長い時間をかけて吐き出すと、気休め程度だが、心は安定していく。


 俺は、ふと横を向いた。棚の二段目の引き出しにはカッターナイフがしまわれている。このカッターナイフを手首に当てることは簡単だ。赤い血を流すことで、悪感情は消え、生きているという実感を、容易く手にすることができる。


 確かに悪感情はある。消えてしまいたいと思うこともある。ただ、それは俺がどうにかして変えることができる類のものではないのだろう。世の中、上手くいかないのは当然だ。そこで受ける劣等感はどうしようもない。だが、そんな劣等感も含めて俺なのだ。弓木峻という一人の人間なのだ。そして、自分の選択する行動は変えることができる。俺は未来を選択したい。クスリにもリストカットにも依存しない未来を。


 そのために、今俺が取れる行動は眠ることだろう。とりあえず眠って、明日のことは明日考えればいい。俺は明日の自分に期待しない。だが、諦観もしていない。俺は、歯を磨いてベッドに寝転んだ。布団は冷たかったが、俺の体温でじわじわと暖められていく。俺は目を閉じた。瞼の裏の暗闇にも、なぜだか不安は感じなかった。







 空には雲一つなく、降り注ぐ日差しも柔らかさを取り戻していた。俺は、リュックとキャリーバッグを持ってアパートの前に立っていた。中には日用品と、一週間分の衣服が詰め込まれている。リュックの方は少し重かったが、頬をなでる風が友和的で、気分を軽くしてくれた。しばらくすると、俺の前に一台の車が停まった。変わらない水色の車体。


「峻、久しぶり。元気だった?」


「うん、まあ何とかね。ここ最近は薬もあまりやらずにできてるし」


「でも、その言い方だとゼロってわけじゃないんでしょ……?」


「うん、だから行くんだよ。完全な断薬のためにさ」


「そうね。また離ればなれになっちゃうけど、峻なら大丈夫よね」


 顔の皴が増えた母親が、穏やかな表情を俺に向ける。俺も一つ頷いて、リュックとキャリーバッグをトランクに入れた。ドアを閉めて後部座席に座る。父親がこちらを振り向いた。白髪染めはしていないようだった。


「じゃあ、行くか」


「うん、今日は送っていってくれてありがとね」


「別に大丈夫だ。俺たちも仕事辞めて暇だし。何かあったらいつでも電話してきていいからな」


 エンジン音を上げて、車は走り出す。何を喋るでもない。ただ三人でいる時間を味わうだけでいい。アパート付近の道は入り組んでいたが、何とか抜け出し、車は踏切を渡った。その直後に踏切が閉まる音がして、俺は驚き、振り返る。電車はまだ入ってきていなかった。一度閉まると、この踏切は長いだけに、幸運に思った。


 目的地までは三〇分経っても辿り着かなかった。高速道路を走れば、もう付近まで来ているはずなのに、どうして父親が下道を行っているのか俺には不思議だった。共にいる時間を名残り惜しんでいるのだろうか。それでも父親はかつてそうしたように体を細かく揺すりながら運転していた。


「ねぇ、なんで下道行ってんの?」


「まぁ、そう言うなよ。もうすぐだから」


「もうすぐって何が」。そう言おうとした瞬間、車は坂を上って堤防道路へと出た。川が洋々と流れているのが見える。そして、その反対側には、桜並木があった。昨日開花宣言があったばかりなのに、既に満開の桜が、堂々と咲き誇っていた。走っても走っても桜並木は続き、飛び切り上質な長大なカーテンみたいだった。


 俺は思わず、窓を開けて顔を出した。触れる風が程よく暖かくて、こそばゆく感じた。すぐに顔を引っ込めると、母親も桜並木に見とれているのが分かった。ただ、母親も俺が観ていることに気づいたようで、俺たちは顔を見合わせて、照れくさそうに笑った。桜並木の真ん中に市境の看板が見える。目的地は近い。




 国道から脇道に入って、斜面を少し登ったところで車は止まった。フロントガラスからは、二階建ての建物が見える。一階は白、二階は濃いクリーム色とくっきり分かれている。二階に窓はいくつもあったが、その全てに黒い布が掛けられていた。一階の窓に刻まれた小さな四文字。住宅街の中にあったその建物は、俺がこれから何年もお世話になるであろう建物に違いなかった。車のドアを開ける手がかすかに震えている。


「着いたぞ。ここで合ってるか」


「うん、ここで大丈夫。いつまでもこうしていても仕方ないからそろそろ行くね。今日はありがと」


「辛くなったらいつでも電話してきていいからね。私もお父さんも、峻のことをいつも思ってるから。それだけは覚えていてね」


「分かってるよ。じゃ、なかなか会えなくなるけど、またね」


「うん、またね。元気でいてね」


 俺はトランクからリュックとキャリーバッグを取り出し、玄関まで歩いて二人に手を振った。恥ずかしげもなく、大げさな身振りで。車は走り出してしまった。もう後戻りはできない。目の前の茶色のドアが、とてつもなく巨大に感じたが、ここで背を向けてしまったら、多くの人の思いを無駄にしてしまう。二本の足で立って、ドアを見つめる。


 意を決してインターフォンを押した。ドアの向こうで足音が鳴っている。



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