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【小説】連れていく(2)


前回:【小説】連れていく(1)



 西宮北口駅。阪急電鉄神戸本線と、今津線が接続するこの駅は、西宮市内でも随一の乗客数を誇っている。大型のショックピングモールも近隣にあり、他交通機関との接続もよく、その利便性は目を引く。郊外は緑にあふれ、「関西の住みたい街第一位」の名を、何年もほしいままにしている。


 その西宮北口駅の出口を、一歩出たところで、門司佳織は立っていた。「にしきた公園」と名づけられた広場を、行き交う人はあまり多くない。平日の午前中ということもある。公園といっても遊具があるわけではなく、高木が二本ほど生え、その奥に先端が尖った緑色の時計台があるのみだ。


 それでも、佳織は落胆することはなかった。高木の下のベンチで、祖母とその孫と思しき子供の二人組が座っている。子供はソフトクリームを舐めていて、「美味しいなぁ」と、祖母に満面の笑みを向けていた。その光景は、佳織にこれからの旅について、好感を予期させるには十分すぎる。


 西宮北口駅なら列車であれば、一時間に六本は来る。佳織は、少し駅前を散策することにした。にしきた公園に入り、祖母と子供に優しく微笑む。子供のほうは、手を振って返してくれた。


「すみません。写真を撮ってもらえませんか」


 時計台のそばを通りかかろうとしたとき、佳織は声をかけられた。若い女性の声だった。佳織よりは一〇センチメートルほど身長が低い黒髪の女性が、申し訳なさそうにスマートフォンを差し出している。目ははっきりとした二重で、鼻梁がスッと通っている。柔らかそうな唇は、多くの人間を引き付けるだろう。目の前の小柄な女性から、ほのかな色香を、佳織は感じた。思わず、黙ってしまう。


「あの、写真大丈夫ですか」


 佳織は少し呆気にとられながらも、「大丈夫ですよ」と、スマートフォンを受け取っていた。適切な距離を取り、写真を撮ろうとすると、彼女は「ちょっと待ってください」と、時計台の側面に移動した。誰に見られているわけでもないのに、身をかがめて移動する彼女。時計台にはめ込まれたプレートの横に立ち、「お願いします」と佳織に告げる。写真の中の彼女は、惜しみない日光に照らされ、いっそう輝いているように見えた。


「ありがとうございます」


 何回も会釈をする彼女。なかなか離れようとはせず、とっさに佳織の方から声をかける。


「いえいえ、大したことないですよ。ここへは旅行かなんかで、来られたんですか」


「まぁ、そのようなものです。もしかして、こちらの方ですか」


「いえ、あたしもただの観光客です。会社に有休をとって、平日やのにやってきちゃいました」


「それは良いですね」


 彼女の表情に、少し影が差したように佳織には見えた。


「あの、私そろそろ行きますんで、この度は、本当にありがとうございました」


「いえいえ、こちらこそ」


 さらに三回頭を下げてから、彼女は斜め前の路地へと去っていった。高木にセミがしがみついて鳴いている。ジリジリという鳴き声は、どこにいっても同じだ。佳織は、彼女が去った路地とは、違う方向へと歩き始めた。背後に電車が訪れる音を感じながら。





 歩いている途中、今朝、コンビニエンスストアのおにぎりを食べた以外は、何も食べていないことを、佳織は急に思い出した。スマートフォンを見ると、もう十一時をとうに越している。佳織が辺りを見回していると、茶色に白文字で、「自家焙煎珈琲豆」と書かれた幕が目に入った。


 一歩店内に足を踏み入れると、心地よい冷房の風が、佳織を迎えた。竹林のようなちょうどいい涼しさ。横にある麻袋から、コーヒー豆の匂いが、優しく鼻腔を撫でる。店内を見渡すと、茶色の椅子が安心感を、木目調の机が懐かしさを、真っ白な壁が清潔感を与えてくる。暑苦しい外とは、別世界のように佳織には思えた。


 店員に「お好きな席をどうぞ」と言われて、佳織は机を挟んだ二人席、その壁際に座った。より冷房が当たる場所を選んだ結果である。ランチメニューを眺め、少し悩んだ末、七百五十円のミックスサンドイッチセットを、佳織は注文した。セットのドリンクは、アイスエスプレッソ。サイフォンの鳴る音が、寄せては返す波のように聞こえる。


 運ばれてきたアイスエスプレッソは、丸みを帯びた円錐形のグラスに、水滴がぽつりと滴っていた。一口飲むと、ほろ苦さの奥に、香ばしい風味が広がる。火照った体に浸透する涼気を、佳織は口を結んで、噛みしめていた。


 すると、鐘の音とともにドアが開く。目をやると、そこには先刻、佳織に写真を撮ってほしいと頼んだ彼女が立っていた。フリルのついたブラウスが、冷房の風に揺れている。


 彼女は、辺りをぐるりと見渡したかと思うと、佳織の方へと歩いてきて、佳織と面と向かって座った。ショートボブに切り揃えられた黒髪が、喫茶店の中で際立って見える。おそらく慣れていないのだろう。店員がやってきても返答はしどろもどろだ。だが、佳織の方をちらりと見ると、小さい声で「このアイスエスプレッソ?をお願いします」と注文する。さては、あたしを見て決めたな。佳織は訝しみながらも、またアイスエスプレッソを口に運んだ。


 店内に十二時のチャイムが鳴り響く。


「自分、さっきあたしに写真を撮ってくれいうて、頼んできたやんな」


 彼女は、少しびくっとしたような挙動を見せた。佳織は、二度も自分の半径一メートル内に入ってきた人間を、おいそれと無視できる性分ではなかった。


「はい、先ほどはありがとうございました……」


 彼女の語尾は、今にも消え入りそうだった。


「なんで隣に座るん。いや、純粋な疑問なんやけど、こんだけ席が空いとったら、座るとこなんて選び放題やん。せやのに、一回写真を撮ってもらって、ちょいと話しただけの、見ず知らずの女ん隣に座るなんてなぁ。なかなかけったいなことや思う」


「それはあの……。私、こういうところ初めてなので……。どことなく心細くて、知っている人の隣だったら、落ち着くかなって……。気分を悪くされたらごめんなさい。今、どきますね」


「別にどかんでええよ。ここにおってええて」


 淡いピンク色のハンドバッグを持ちながら、逃げようとする彼女を佳織はとっさに宥めた。実際、彼女が隣にいると悪い気はしなかった。アロマのような柔らかなオーラを感じる。やがて、店員が二人のもとにやってきて、アイスエスプレッソとサンドイッチを置いた。彼女のアイスエスプレッソの方が、先に置かれたことが、佳織には少し気になったが、喫茶店の長閑な時間の中では些細なことだった。


 彼女がアイスエスプレッソを口に運ぶ。すると、口を萎めて、目を閉じて、苦さを顔全体で表現した。


「自分、ニシキタに来んのは初めてなん?あたしは、なんべんか来とるんやけど」


 佳織は、サンドイッチを食べながら聞いた。レタスのシャキシャキとした食感が気持ち良い。


 
「はい、初めてです」


「なんでニシキタなん?」


「それは、あれです」


 彼女が手で差したのは、入り口の少し先にあるスペース。アニメと思しきキャラクターのポスターに、フィギュアやらグッズやらが整然と並べられている。レジの前にはスタンプも見える。この喫茶店には、いささか不釣り合いなように、佳織には思えた。


「なにあれ?アニメ?」


「はい。『涼宮ハルヒの憂鬱』って知ってますか?」


 彼女の声が、これまでにないほどみなぎるように感じる。それでも、それも佳織が「いや、知らんなぁ」と言うとたちまち萎んでいき、元に戻った。


「あの『涼宮ハルヒの憂鬱』、略して『ハルヒ』っていうアニメがありまして……。この喫茶店は『ハルヒ』の中で登場したお店なんですよ……」


 佳織には「そうなんや」としか言いようがない。その平坦なリアクションに、彼女のテンションはより下降していった。


「あのそれで、この西宮市には『ハルヒ』の舞台になった場所がたくさんありまして……。さっきの時計台もそうだったんですけど……。それが見たくて、やってきたみたいな感じです……」


「そう。まあええんちゃう。そらそれで。旅の目的は人それぞれやしな」


「あの、これからどこ行くとかありますか」


 佳織がサンドイッチをようやく食べ終わり、彼女もアイスエスプレッソを、半分ほど飲み終えた頃だった。いい区切りとでも思ったのだろうか。


「あたしはこんから阪急に乗うて、ブラブラするつもりやけど」


「もしかして、甲陽線とかって乗ったりします……?」


「よう知っとんなぁ、そないマイナー路線」


「『ハルヒ』の舞台になった高校が、甲陽園駅の近くにあって、行きたいなあと思ってるんです。それで、もしよかったら、一緒に行かせていただいてもよろしいでしょうか……?」


 彼女の突然の提案に、佳織は少し面食らった。ストローでわずかに残っていたアイスエスプレッソをかきまぜ、飲み干す。迷っている暇はなかった。


「ええよ。あたしも甲陽線には乗うたことないし。こない機会やないと乗れんもんなぁ。一緒に行ったる」


「あ、ありがとうございます!」


 彼女は手を握りしめて喜んでいる。予定にない二人旅。だが、伊藤と会うまでならそれもいいだろう。佳織は自らの心が、弾み始めたのを感じた。そういえば。


「なぁ、自分、名前なんていうん?」


「私は白山梨絵といいます。梨の絵と書いて梨絵です」


「あたしは門司佳織。佳う織ると書いて佳織。よろしゅうな」


 
「こちらこそよろしくお願いします」


 梨絵は、慇懃に頭を下げた。旅をするにあたっての第一条件、性格が悪くないことは満たしている。梨絵は顔を上げて佳織に微笑む。店内には客が増えてきて、店員が忙しなく動き回っている。コーヒーのかぐわしい匂いが、あちらこちらから立ち上ってくる。冷房の風は、二人を漂うように滑っていった。



続く



次回:【小説】連れていく(3)

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