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【小説】連れていく(1)


〝仕事終わったで。今日はいつもより残業多かったから疲れたわ〟


 門司佳織は、ビルを出るとすぐに、スマートフォンを手に取った。ラインを起動し、メッセージを打ち込む。宛先は、三年前から付き合っている伊藤光生。仕事終わりに伊藤へラインを送ることが、佳織の日課になっていた。アザラシのキャラクターのスタンプも添える。「既読」の文字は、まだついていない。


 幹線道路を駅に向かって、佳織は歩く。途中、ポケットに入ったスマートフォンが振動した。一刻も早く駅に着いて、確認しないと。歩くスピードは自然と上がる。バッグから緑色の電車をかたどった定期入れを取り出し、改札を通過した。駅員は飽きもせず微笑み、佳織は軽い会釈で答えた。


 人もまばらな一番ホーム。時計は九時を指していた。電車が来るまで、まだ一〇分もある。琥珀色のやや錆びた柱に佳織は寄りかかった。スマートフォンのロック画面は、海沿いを走る青と白の電車。その真ん中に通知が届いている。もちろん伊藤からのものだ。


〝お疲れさん。今日も頑張ったなぁ〟


 メッセージの下には、子供のペンギンが「えらい!」と、佳織を褒め称えていた。


〝今日な、お昼ごはんにオムライス食べてんけど、初めて入った喫茶店で、レトロな雰囲気が好きやったなぁ〟


〝オムライス、旨かったか?〟


 
〝ケチャップの味が優しゅうてめっちゃ旨かった。いーちゃんも気に入る思うで〟


〝また今度、機会があったらな〟


 佳織の指は、スワイプで素早くメッセージを打ち込む。会話が少し止まってから、佳織は一気に指を動かした。
 


〝なぁなぁ。こうやってラインで話しとったら、いーちゃんの声が聞きとうなるわ。これから電話してもええ?


〝うん、ええで〟


 無料通話を押すとすぐに、伊藤の声が聞こえてくる。あどけなさの残る声だ。電車は、まだ来る気配を見せない。


「ああ、いーちゃん。元気しとった?」


「まあ最近は、仕事が忙しゅうなっとるけど、なんとかやれてんで。こないラインや電話でしか話せんで、かんにんな」


「ううん、全然大丈夫。あたしもいーちゃんの声聞けて嬉しいしな。仕事忙しのうらしいけど、今度の日曜はちゃんと休めるん?」


「大丈夫やって。会社にも休む言うとるから。心配せんでええで」


「せやな。広島着いたらあたしなぁ、広電乗りたいねんけど」


「広電でええの?俺もたまに乗るけど、めっちゃ遅いで」


「だって、列車の窓から外を眺めるん楽しいやん。広島は、なんちゅうかカラッとした雰囲気があるよなぁ」


「そうかいな。俺はそない感じへんけど」


「そら、いーちゃんが慣れてもうたからやって。広島の街に」


 電話の向こうで、伊藤が微かに笑い声をこぼしていた。佳織も穏やかに笑う。三〇〇キロメートル離れた二人が、時差なしで結びつく。だが、そこにチャイムが二回割って入った。若い女性のアナウンス。


『皆様、まもなく一番線に、電車が到着いたします』
 


「すまん、いーちゃん。そろそろ列車来てまう。また電話するわ」


「ああ、ほな、またな」


 伊藤が電話を切ったのと同時に、ホームに列車が飛び込んできた。佳織は少しの間画面を見つめ、再び顔を上げる。目の前の列車は、黄色と青のツートンカラーに、住宅販売の広告が塗装されていた。毎日乗る路線にもかかわらず、佳織の心は弾んでいた。ローヒールのパンプスで、境界線をまたぐ。佳織はドアのすぐ横の茶色いシートに座った。


「発車します」とのアナウンスとともに列車は動き出す。目の前の車窓からは、両脇にビルが見え、信号待ちの車が追い抜かれていく。色褪せた壁が、積み重ねてきた歴史を感じさせる住宅地。自転車に乗りながら、踏切が開くのを待つ人々。駅前には、かつて佳織がアルバイトをしていたスーパーマーケットがある。十時に差し掛かろうというこの時間でも、煌々と明るい。


 佳織はスマートフォンでSNSを見ながら、度々車窓の風景に目をやった。佳織の胸は、安堵で満たされていた。自分は今日もお気に入りの電車で、家へと帰ることができている。毎日のちょっとしたご褒美である。列車に乗る人。列車を降りる人。その往来は、佳織の日々が健全に機能している証だった。


 列車は小さくない音を立てながら、線路を走っていく。家々からこぼれる明かりが、冬の星空のように輝いている。








 広いオフィスは、一番奥の人間が、ロウソクのように揺れて見える。天井が高く、白い壁に日光が反射する。開放感がコンセプトらしい。白山梨絵は、オフィスの入り口に立っていた。部署内の視線が彼女に集まっている。


「今までお世話になりました。皆さん、ありがとうございました」


 梨絵が頭を下げると、まばらな拍手が聞こえた。単に人間関係が辛いから、辞めるだけであるのに。同じ課の一谷が梨絵の元へと寄ってきて、いくつか声をかける。頑張ってねという励ましの言葉も、梨絵に届くことはない。


 確かに、上司の名取には、厳しい言葉をかけられたのかもしれない。「なんでこんなこともできないかな」と毎日のように言われた。だけれど、それは自分に期待してのことだと、梨絵は受け止めていた。実際、名取から厳しく指導されていた同期の穂積は、新規事業のメンバーに抜擢されて成功を収めている。穂積のようにはなれない自分を責める日々。ある日、梨絵は布団から起きることができなかった。


 一谷が言葉を詰まらせている最中、ふと梨絵は名取の方を見た。名取は拍手が終わると、すぐ自分の仕事に戻り、梨絵を見やることはなかった。キーボードが一つ一つ叩かれていくたびに、名取の中から梨絵の存在が消えていく。梨絵は一谷の手を掴んでから、足早に立ち去った。梨絵が新卒から三年間勤めた会社を辞めても、オフィスは何一つ変わることなく、稼働を続けていた。


 梨絵が俯いて歩いていても、街は何事もなかったかのように賑やかだ。居酒屋の看板が光り、笑い声があちらこちらで飛び交っている。梨絵は歩くスピードを上げた。


 ホームに止まっていた緑色の列車に、梨絵は走って飛び込んだ。息を切らした梨絵の肩に、ごつごつとした肘が乗りかかる。この満員電車にもしばらく乗ることはない。却ってせいせいする。梨絵はそう思うようにした。夏の空は十八時でも、まだ少し明るい。ドアの側に乗っていた梨絵は、次の駅で降車する人のために、いったん降りる。駆け込んで乗車する人は、一体どこへ向かうのだろう。発車のアナウンスが流れても、梨絵はホームから動けず、閉まるドアをただ眺めていた。


 家へ帰ると、誰もいない部屋が梨絵を迎えた。机の上に物はなく、床には埃一つ見当たらない。たまに友達が来たときには「梨絵の部屋って、新築みたい」と言われるほどだ。しかし、行き場をなくしたこの日に限って、真っ白な壁紙から棘が生えて梨絵を刺す。穏やかな天井照明に照らされると、我に返るようで、梨絵は自分が怖くなった。


 スーツから着替えてすぐに、梨絵は携帯ゲーム機を手に取る。二〇年以上前のゲームの復刻版。そのクライマックス。チャンピオンを倒して殿堂入りしても、エンドロールを眺めていても、梨絵には何の感慨も湧かなかった。手ごたえが、両手からこぼれ落ちていく。


 梨絵はゲーム機を置いて、よろよろと立ち上がった。ハンドバッグから一枚の紙を取り出し、照明にかざしてみる。コンビニエンスストアで発券した薄水色のチケットは、光を通さず、梨絵の顔に長方形の影を作った。この一枚の紙きれが、今の梨絵の細い命綱だ。


 短めに茹でたパスタに、レトルトの具材をかけて、簡単な夕食を済ませる。本棚からDVDを取り出して、レコーダーにセットする。テレビの電源を入れると、モノクロのアニメーションが映し出された。キャラクターデザインが時代を感じさせる。主人公の早口のナレーションが、矢継ぎ早に繰り出される様を見て、梨絵は少しだけ笑った。鏡のように、自分の今の心境を、映し出しているように思えた。


 だが、女子高生のキャラクターが突拍子もない自己紹介をした瞬間、アニメーションには色がつき、テレビの中の世界は彩られた。梨絵の頬には、涙が伝っていた。今まで何度も見たはずなのに、このシーンで泣いてしまうのは、初めてのことだった。


 懐かしい記憶が浮かんでいた。それは、梨絵が小学生のころ、友達に勧められて初めて見たアニメだった。当時はDVDなんてものはなく、VHS。勉強ばかりの日々を送っていた梨絵にとって、キャラクターが動き出すというのはそれだけで衝撃的で、自分の世界が一気に広げられたような感覚があった。それ以来、梨絵は近所のレンタルショップに通うようになった。親に隠れて小さな音量で見るアニメは、梨絵の密かな楽しみだった。


 テレビの中のキャラクターは荒唐無稽で、それでも賑やかな学園生活を送っている。今の梨絵とは対照的だったが、不快には感じなかった。腹の底から活力が、ほんの少しだけ湧いてくるような気がする。彼女たちに近づきたい。彼女たちと、同じ気分を味わってみたい。重たい頭で梨絵は、うっすらとそう考えていた。


 アニメの舞台となった場所は分かっている。兵庫県西宮市。検索すると、地元の観光協会や個人のブログといったサイトが数件ヒットした。梨絵はそれらのページを眺める。食器はシンクに放っておかれたままだ。


 塞ぎこんだ空に少しだけ、光明が差し込んできていた。



続く



次回:【小説】連れていく(2)

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