見出し画像

【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(5)


前回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(4)



 SNSを開くと、プロフィール画面で風船が舞っていた。起きて仕事に行って、帰ってたまにクスリをやって寝る毎日にささやかな彩りが加えられたようで、意味はないと知っていても少しだけ嬉しくなる。


 スマートフォンを鞄にしまうと、滝尾が話しかけてきた。朝礼まではまだ五分以上ある。滝尾の話はかいつまんで言うと𠮟咤だった。昨日俺が報告した数値が間違っていたらしく、困るんだけど、と詰められた。俺のミスであることは分かっていたが、納得はできない。エンターキーを強く叩く。隣の上野が驚いてこちらを見たが、気にしなかった。


 居所の悪い虫を治めるために、クスリのことを考える。今日は南渕先輩の家に行く日ではない。だけれど、一応は特別な日だ。ファミリーレストランでステーキでも食べて、家に帰ったら炙ろう。そう考えると、苛立ちは期待に置き換わっていき、気分は持ち直される。


 だが、それもそう長くは続かなかった。昼休みに休憩スペースで話す輩の声が、相変わらず鬱陶しい。慌ててイヤフォンをつけて、音楽を流す。曲が終わると数秒ばかりのインターバルがあり、狂おしい雑音がまた入り込んできて、机を叩きたくなる。曲の世界に没入することを妨げる雑音を、俺は本気で憎悪した。音量を上げる。突っ伏したまま、昼休憩は終わっていく。




 電気を点ける。いつものようにジーッという音がうるさい。耳元で蚊が飛び交っているようだ。俺は、テレビを点けた。鞄を床に無造作に置く。スーツを脱いでジャージに着替えてから、クスリが置いてあるベッドの下を覗く。長方形の衣装ケースの一番奥に突っ込んであるクスリとライターに手を伸ばして取り出そうとすると、テレビは七時のニュースを流し始めた。


 トップで扱われていたのは、有名歌手が覚せい剤取締法違反で逮捕されたというニュースだった。数年前から毎日のようにやっていたらしい。俺は週二回しかできないというのに。貧富の差をまざまざと見せつけられた格好だ。インサートで白い粉と注射器の写真が随所に挟まれる。未経験者に恐怖を植え付けるために挿入している写真も、俺みたいに使っている奴からすれば逆効果だ。


 テレビでは街角のインタビューの様子が流されている。ファンはショックですと顔を覆い、仕事帰りらしいサラリーマンは、なんでクスリになんか手を出しちゃったのかねぇと訝しんでいた。そんなことは簡単だ。クスリを売ってくる人がいて、買えるだけの財力があった。需要と供給が一致しただけの話なのに、なぜわざわざ複雑にしようとするのだろうか。


 クスリの入ったポリ袋とライターを取り出して、衣装ケースを再びベッドの下にしまう。コメンテーターは知ったような顔をして、クスリは違法行為だという小学生でもわかる事実を、強い言葉を並べて語っていた。特に彼は人気があるのだから社会的影響を鑑みると、これは許されることではないと言う。実に暴力的な正論だ。


 だが、正直反感しか湧かない。お前はアイツによって傷つけられたのかよ。アイツ自身は誰も傷つけてないだろ。自分を傷つけているだけなんだから、どうしようと本人の勝手だろうが。


 それに社会的影響というのも引っかかる。あのコメンテーターは、一般人を親鳥の後について真似をする雛鳥程度にしか考えていないのではないか。有名人がやったからやる?それがまかり通っていたら日本は今ごろ薬物大国だ。皆やって良いことといけないことぐらいの分別はつく。お前らメディアが両者の分断を、恣意的な報道で深めてんだろ。滔々とどの口が言ってんだ。


 俺はテレビのスイッチを切った。イヤフォンを耳につけると、コードの擦れる音以外は何もしなくなる。俺はいつものようにアトマイザーの蓋を開け、クスリを入れる。サラサラという音が耳に心地いい。下からライターで炙ると、高揚を約束してくれる煙が立ち上り、俺は新しく買ったガラスのストローでそれを吸った。



 会社で叱られたことも、コメンテーターのしたり顔も、全てがどこか彼方へと飛んでいき、頭の中は水風船をぶちまけたような快楽で満杯になる。


 だが、三時間もしないうちに峠を越えて下り坂に突入する。頭は真鍮が含まれたかのように重くなった。トイレをするにも五分とかかる有様だ。俺はだらけんとする手を動かし、辛うじてコンタクトレンズを外してベッドに横になる。自分で自分を傷つけているだけだから別にいいだろ。お前には関係ないくせに。そう呟く。”お前”の具体像もイメージできずに、何度も呟く。

 シーツが灰色に変わっていくのを視界の端で捉える。ひどく落ちぶれた二十六歳の誕生日。新しい朝が来ないことを願った。




 会社には二日に一日遅刻するようになった。いつもの事と特に反応を返す人もいない。残りのもう一日はベッドから起き上がれず、欠勤している。おかげで、先月の給与明細には四万円としか書かれていなかった。クスリを一回買ってしまえばすぐに飛んでしまう。家賃も先月は払っていない。


 ここ最近は月曜と水曜には自分の家で、火曜と金曜には南渕先輩の家でクスリをやっている。クスリを買うのは毎週日曜日。場所は駅前のトイレだったり、人気のない路地だったり、ビルの地下駐車場だったりさまざまだった。売人とは何度も会っているが、未だにサングラスの奥の瞳を見たことはない。


 行く間も帰る間も考えるのはクスリの事ばかりだ。今度はいつクスリを打とうかと。毎週買った後は明日やるのだからと我慢しようとするが、頭の中はクスリが支配していて、誘惑に負けて買ってからすぐやってしまう。背徳感もクスリによって消える。


 近頃は炙るクスリの量が増えてきた。嵩む費用に危険を感じ、ネットショッピングで注射器を買って、静脈注射も以前試してみた。クスリを溶かすと、水は少しドロドロして粘性を持つようになった。溶液を注射器に入れる。深緑色の静脈に狙いを定め、注射針を刺す。二ミリメートルの針先が皮膚に刺さった瞬間、鋭い痛みが腕から全身に行き渡った。少し鳥肌も立っている。


 俺は注射針を、その先にある肌色を凝視する。一回目は失敗し、血だけが流れる結果に終わってしまったが、二回目は上手くいった。アブリと比べると効き始めるのに少し時間がかかったが、もたらされる快楽は何一つ変わることがない。


 量が少なくて済むので、最近は家にいるときは静注でやることが多くなっていた。


 会社で机に向かっている間も、考えることはクスリの事だけ。早く帰ってやりたい、今カフスから伸びている、この手で打ちたいとばかり願っている。夏は終わりに向かっているというのに、冷房の風がどんどん冷たく感じるのは、俺が痩せていっているからだろうか。以前、シャワーを浴びて、鏡に映った自分を見ると、両の脇腹で肋骨が浮き出ていた。


 食べる量が少なくなって、脳が働かないのか、仕事でのミスも増えた。入力する箇所を間違えるのはもちろん、酷いときには書類と入力内容が一つもあっていないこともあった。そのたびに滝尾からは釘を刺され、ストレスを感じ、解消するためにクスリをやりたいと考える。完全なる悪循環だ。このままでは、今の仕事も長くは続かないだろう。退社という結末から、逃げることはできない。




 九月も中盤に差し掛かったある日、俺はもう何度目か覚えていない遅刻をした。昼休憩も終わった頃になってようやく会社に顔を出し、覇気のない挨拶をして、机に向かう。机に腰を下ろそうとすると、佐竹信光が俺の机へと歩いてくるのが見えた。部長の佐竹は、普段俺とはめったに話さない。俺は椅子の背もたれに手をかけたまま、座ろうとしない。佐竹は俺のところまでやってきて、背筋を伸ばして


「弓木君、ちょっといいかな」


 と言った。口調は穏やかだが、厳しい現実が彼の口に充満しているのを感じた。俺は「はい」とだけ言って頷く。俺たちはオフィスの隣の会議室へと向かう。会議室は椅子と長机以外のものは無く、いたって簡素だ。佐竹の「座って」という言葉に促され、腰を下ろす。


「弓木君、最近どう?」


「そうですね……。前までは少し夏バテ気味だったんですけど、最近は調子も少しずつ良くなってきたと思います」


「そうか……」


 佐竹は少し俯いて、首を横に振った。明らかに困惑した顔で、俺を見ている。


「弓木君さ、ここのところ仕事でミス多いよね。どうかしたの?」


「はい、すみません」


「謝るんじゃなくてさ、俺は理由を聞きたいの」


 今度は俺が口を結ぶ。俯いて反省している姿は、大根役者だ。


「滝尾が言うには、いつも上の空で仕事に集中していないように見えるって。一年前はしないようなミスを多発しているんだってね」


 俺は何も言わない。


「正直、困るんだよね。あまり出せていないとはいえ、最低限給料分の働きをしてくれないと。遅刻はする、欠勤はする。仕事に出てきてもミスばかり。そんな人間が自分と同じだけの給料をもらっていたらどう思うかな。部内の士気が下がるんだよね」


 佐竹は続ける。


「それに、弓木君がミスをすると、誰かがそれをカバーしないといけなくなるよね。カバーに一杯一杯で、本筋の仕事が進まなくなるのは分かるよね。言ってないけど、弓木君の課の業績、ここ二ヶ月でだいぶ落ちているから。別に弓木君を責めようとして言っているんじゃないよ。ただ、そういう事態になっているという認識をしてほしいだけ」


 その口ぶりは、課の成績が落ちているのは俺のせいだと言いたげだった。事実、今の俺は、邪魔なお荷物以外の何物でもない。


「それで、滝尾とも相談したんだけど、弓木君には一先ず医者に行ってもらって、診察を受けて、診断書を提出してもらいたいんだよね。別に病名がつかなくても、現状の把握になるし。その間は会社は休みにしておくから。とりあえず、今日はこれで帰ってしばらく休養を取った方がいいと思うよ。いや、取ってください」


 突きつけられた現実は、想像よりも厳しくなかった。いよいよクビかと思っていたら、想定外の甘い処分に拍子抜けしたくらいだ。


「それは、つまり命令ということですか」


 一応確認してみる。


「そう、命令。分からないなら、はっきり言おうか。状態が回復するまでは会社に来ないでください。仮に明日出社してきたとしても、帰らせます。仕事はさせません。今は回復に努めてください」


 佐竹は丁寧に言っていたが、それはつまり拒絶ということで、お荷物を捨ててしまいたいということに他ならなかった。それでも、まだ温厚な方だとも思う。俺は「分かりました」とだけ言って会議室を後にする。出しかけたメモ帳や筆箱、コーヒーのペットボトルを鞄にしまう。ジッパーの閉まる音が、今の俺にはとても由々しく聞こえる。


「お先に失礼します。皆さんありがとうございました」


 反応をしてくれたのは、滝尾と上野だけだった。





 胃には、十四時間何も入れていない。四時間前にクスリをキメたときは、何も食べなくても向こう三日は平気な気がしたが、幻想だった。喉の渇きがどうしようもなく、コンビニエンスストアで買った一リットルの緑茶は、もう飲み干してしまった。痩せ方は、水太りでは誤魔化せないほどだった。


 ベッドのそばには空になったペットボトルとティッシュペーパーが散らばっていた。ティッシュペーパーは広げようとするとパキパキと音がしそうだ。クスリをキメてから三回自慰をした。射出される精子の量に比例するように、徐々にオーガズムを感じなくなっていった。四回目を行う気力はない。だからこうしてベッドに仰向けになっている。


 シーツから臭いが立ち昇る。近しいのは皮蛋だろうか。かつて黄身だったものを掬うと、粘性の高い黒い液体が箸から落ちていき、着地した瞬間にまた強烈な臭いが立ち込めるのだ。しばらく嗅覚を働かせていると気づく。自分の至る所からその臭いが昇っていることに。廃棄寸前の生ゴミにも似た気分だった。


 どこからともなく声が聞こえてくる。それは頭の中からであり、壁を隔てた向こう側でもあった。声変わり前の子供のようであり、酒でかすれた中高年のようでもある。


「クスリを使っているお前は死ねばいいんだ」


「そのまま目を閉じて、もう二度と開けるな」


「お前が消えた方が、周りは助かるんだぞ」


 強い命令口調と、静かに諭すような声色が繰り返される。共通しているのは、弓木峻の死亡を願っているということ。耳を塞いでも、声は止むことはない。思わず体を起こして照明をつけた。息を荒げていても、誰かに聞こえることはない。


 とうとう俺も依存症になってしまったのだろうか。いや、違う。本物のジャンキーは毎日やってるが、俺は週に四、五度しかやってない。それに、小学校の掲示板に貼ってあった薬物乱用防止のポスター。そこには、今にも落ちそうなほど目玉が飛び出し、骨の形が見えるほど痩せ細り、鼠色の肌をした薬物依存者がいた。彼は注射器を子供たちに向けて、子供たちは必死にポスターの外へと脱出しようとしている。クスリの怖さを思い知らせるには、刺激が強い方が適しているのだろう。


 だったら、今の俺は?


 ゆっくりとした足取りでバスルームに向かう。鏡の中の俺は目の下にクマはできていたが、瞳孔は開いておらず、肌も漂白されていない。まだ、俺は依存症ではないと安心する。と同時に、かさつき皮がめくれて唇から言葉が漏れ出た。


「俺、何やってんだろ……」


 クスリを始めたときには自分が嫌いだった。今はより憎悪している。クスリから逃れられない自分を。会社に戻ることはもうないだろう。バスルームのドアを開けると、キッチンの蛇口から水が一滴、零れ落ちていた。俺はシンクの下を見つめて一人、躊躇っていた。




 外に出ることが出来たのは五日が経った後だった。ベッドからもぞもぞと起き上がり、チェックのシャツを羽織る。窓に叩きつける雨音の大きさはギターを掻き鳴らしたようで、テレビによると、台風が近づいてきているらしい。だが、クスリのストックが無くなってきたので、行く外はない。


 駅前の裏通り。今はもう何のテナントも入っていない寂れたビルの下で、待っていた売人からクスリを手に入れる。値段は少しずつ上昇してきていて、足元を見られているのは確実だった。しかし、快楽が頭から離れず、どうしても購入してしまう俺がいた。雨は出かけたときから弱まってきていて、クスリを手に入れたときには、晴れ間さえ覗くようになっていた。水たまりに日差しが跳ね返って、俺を無邪気に照らす。


 俺はクスリをバッグに詰め込み、自転車に乗って家へと戻る。表通りに出ると、雨が止んだのを機に、人が外に出てきている。前を行く禿げた男も、その前を行く太った女も、道を行く全員が私服警官のように思えた。今にも手に持ったスマートフォンで通報されるのではないか。せめて顔を見られないようにと、自転車を漕ぐスピードを上げる。


 帰る途中にまた雨が降り出す。ぽつぽつなどという段階を経ずに、一気に降り出したその雨は、俺に罰を与えているかのようだった。

 合羽の下のシャツもすぐにびしょ濡れになり、ひりつくような寒気がする。すぐに玄関に駆け込もうとした瞬間、俺は駐車場にある車が停まっているのを発見した。ナンバープレートには何千回と見た数字の並び。俺は合羽を脱ぎ捨て、階段を足早に駆け上がっていった。



 鍵は開いていた。今までにない勢いでドアを開けると、正面のベッドに両親が腰かけていた。二人とも俺が入ってきたのを見て、目尻を下げて口を結んでいる。


「なんで勝手に入ってくんの?家族だからって連絡もなしに入ってくるのは違うでしょ?プライバシーの侵害だよ!」


 俺は声高に二人を怒鳴る。二人は少し黙って互いの顔を見合わせる。口を開いたのは、父親だった。


「お前、仕事休むように言われたんだってな。会社から連絡があったぞ。お子さんの直近の働きぶりは、当社の求める水準に残念ながら達しておりません。本人には一度通院をするよう勧めましたって」


「だから何?別に俺の問題なんだからいいじゃんかよ!」


 拳を握り締めて冷蔵庫を叩いた。厚いプラスチックは衝撃をそのまま跳ね返してくる。


「ここ一週間電話をしてもろくに出なかっただろ。もう待っていられなくてな。まあとりあえずはお前の姿を見れてよかったよ。どうだ、元気か?」


「はぁ?何その質問?見て分かんないの?元気だよ!少なくともこうやって怒鳴れるくらいには!」


「そうか、でもお前ちょっと痩せたな。ちゃんと三食食べてるか」


「何が言いたいの?無駄話するなら帰ってよ!安否は確認できたんだからいいでしょ!」


 口調は激しさを増す。脳裏にはいくらでも罵倒が浮かび、喉元まで出かかっていた。


「なあ、お前そのバッグ」


「ああこれ。去年買ったの」


「中には何が入ってる?」


「勝手に人ん家上がりこんどいて、今度はバッグの中まで確かめようとする気?どんだけ人のプライベートにズケズケ踏め込めば気が済むの?」


「分かった。じゃあ中を見ることはしない。ただ、何が入っているかちょっとだけ教えてくれ」


「財布と音楽プレイヤー、あとスマホの充電器と手帳だよ」


「お前、メモなんてつける人間だったか」


「うっさいな」


 外は雨が降り続いていて、雷も鳴り出している。窓の外が光って二秒後に特大の雷鳴が鳴り響き、俺は少し身を縮めた。が、二人は動じなかった。下を向いて、次の言葉を探している。父親が母親に「おい」と告げた。母親はポーチの中に手を伸ばす。


「これは何だ」


 父親が一オクターブ下がった声で俺に言う。きっと今の俺は目が泳いでいるのだろうと思った。口の中は乾き、背中に汗が滲む。


「さ、砂糖だよ。グラニュー糖。最近、料理を始めたから」


「そうか。じゃあ、これは」


 父親がポケットから取り出したのはアトマイザーとライターだった。


「お前、煙草吸わないだろ。それに母さんが言うには、こっちは香水を入れるためのものなんだってな。お前、香水つけるような人間じゃないだろ」


「別に煙草は前から吸ってたよ。それに、最近彼女ができてさ、つけといたほうがいいよって言われてるの」


「なぁお前、やってんのか」


「何を」


「そこまで言わなきゃ駄目か?」


「いや。いやいやいやいや。俺はやってないから。やってるのは会社の先輩で、家に置いとくとマズいから、預かっておくように言われてるだけだから」


 二人は何も言わない。天井の照明のジーッという音だけが鳴る空間に、俺は耐えられそうもなかった。


「ねぇ。本当にやってないから。信じてよ。息子を疑うの?お願いだから信じて。マジで頼むから。ホントやってないんだってば」


 文法も言い回しも支離滅裂。今の俺が言っていることを辞書で引けば「うわ言」と出てくるだろう。とにかく俺は必死で、喚き続けた。


 どれくらい経っただろうか。十秒にも感じるし、一時間にも感じる。


「分かった。じゃあ俺たちはもう帰るから」


 父親がそう言って立ち上がると、母親も続いて立ち上がり、ドアの方に向かって歩いていった。後ろ姿に黒々しく重い物を俺は見る。


「元気でやれよ。体にだけは気をつけてな」


 ドアが閉まって、二つの足音が階段を下っていく。一人残された俺は、力が抜けたように膝から崩れ落ちた。ねぇ信じてよ。俺はやってないんだってば。向ける相手もいないまま、繰り返す。激しく降る雨が、俺のか細い声を打ち消している。



続く


次回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(6)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?