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【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(6)


前回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(5)



 スクランブル交差点の信号が青に変わる。電子音で流れてくるのは、耳に覚えのあるメロディ。十五年前にとある映画で演奏され、一躍知名度を上げた曲だ。弾むテンポに足取りも軽くなるようだ。横断歩道を渡っていると、突然、前を歩いていた女が止まる。


 女は手を大きく広げ、頭の上で振ってみせた。踵でリズムを刻みながら、体の動きはだんだん大きくなっていく。つま先立ちで一回転。腰を軸に上半身を捻る。生きる喜びを全身で表現する。女がダンスを続けていると、触発されたように周りの人間が一人、二人と踊り出す。一糸乱れぬ挙動は、絵画を観ているようだ。


 どこからともなく、クラリネットが鳴り出した。フルートの抜けるような高音、チューバの地鳴りにも似た低音、トランペットの華のあるスウィングが続く。グロッケンが彩りを加え、スネアドラムが下支える。アルトサックスのソロが秋晴れの空に響く。交差点は、街は、たちまち音楽の一部となる。


 踊り出す人間は、両手では利かない数になっていた。手を取り合って、近づいては離れ、離れては近づき。ステップも完璧に揃っている。ダンスはますます勢いを増し、ツイストやバック宙も披露された。俺は目の前の光景を飲み込むことが出来ず、一人佇んでいた。


 いや、むしろ、見事なパフォーマンスを無料で観られることができ、僥倖すら感じている。


 演奏が一旦止まり、ダンサーの動きも止まった。ただ一人、初めに踊り始めた女を除いて。女は俺の元へと歩み寄ると、左膝を地面について、右手を差し出した。他のダンサーは早くしろと言わんばかりに、じっと俺のことを見ている。戸惑いながらも俺は左手を出して、女の右手を掴む。その瞬間、演奏は再開された。女は立ち上がる。俺は右手を大きく振り上げた。纏わりつくものを皆、吹き飛ばせんとする勢いで。



 宙に放ったはずの右手に、何かがぶつかった。目を開けると交差点にいたはずなのに、いつの間にか自分の部屋にいる。テーブルの上にはライターとアトマイザーが、置かれたままになっていた。デジタル時計は十二時を少し過ぎている。最後に時計を見たときには二時の少し前だったはずなのに。


 百円ショップで買ったおもちゃのサングラスを掛け、マスクをつける。ドアを開けると、開けっ放しになっていた廊下の窓から風が一筋吹いて俺を揺らした。背中を押してくれるようで心強く、微かな迷いも消える。俺は階段を下った。



 自転車を漕いで、二キロメートル離れた住宅街へと向かう。サングラス越しに入ってくる日差しはまだ夏の暑さを残していて、家々の白い壁に反射して光っていた。平日の昼過ぎということもあり、歩いている人間はほとんどいない。Tシャツ一枚の、軽装の男とすれ違ったが、俺はパーカーとスウェットをグレーで統一している。とにかく記憶に残らないように。自転車の防犯登録番号もガムテープで隠し、指紋がつかないように軍手もしている。存在を隠すのは昔から得意だった。


 曲がり角に差し掛かったとき、前を老齢の女性が横切った。年齢は還暦を過ぎているだろうか。髪に白髪染めの跡が見受けられる。黒のロングベストを羽織っていて、いかにも金を持っていますという風貌だ。黄土色のショルダーバッグは左肩に、つまり道路側にかけられている。さらに、耳にはイヤフォンをしていて、俺の前を通ったときも歌を口ずさんでいた。周囲を気にする様子が全く見られない。


 しかし、俺は動くことが出来なかった。息が荒くなる。だが、前を歩く老婆はどうだ。どうぞ取ってくださいと言わんばかりの格好だ。俺は目いっぱいの力を込めて、自転車を漕ぎ出した。立ち漕ぎで一気にスピードを上げ、老女に近づくと、左手をショルダーバッグの紐にかけて、一気に引き寄せる。老女は右手をブランとぶら下げていたので、ショルダーバッグは呆気ないほど簡単に抜き取ることができた。


 俺は、ショルダーバッグを自転車の籠に入れ、目の前の角を右に曲がる。老婆の追いかけてくる姿は見えない。「誰か捕まえてー」と貧弱な声が聞こえはしたものの、歩いている人間はいない。入り組んだ住宅街で、脚の弱った老婆を撒くことは、寒気がするほど容易かった。いつもは邪魔な向かい風も、不思議と心地よく感じる。クスリをやったときにも似た、舞い上がるような感動だった。


 住宅街から十分ほど、家とは反対側に自転車を漕いだところで、俺はコンビニの裏に自転車を止めた。誰も通りかからないことを確認してから、ショルダーバッグの中から財布を取り出す。牛革の長財布は体験したことのない光沢を持っていた。


 軍手ではペラペラの紙幣は掴み辛かったが、十五人の諭吉が俺の前に姿を出した。興奮を抑えきれずに、だけれど声は出さず、俺は拳を突き上げた。これで、また半月クスリをやることができる。砂漠でオアシスを見つけたような感慨深さ。ショルダーバッグは、近くにあったカゴ台車の後ろに捨てた。





 クスリの量は目視でも分かるくらいに増えている。使い捨ての注射器の残骸がゴミ袋を埋め尽くす。ひったくりはあれからさらに二回やった。だが、いずれも一回目ほどの成果は上げられなかった。昨日はコンビニエンスストアのATMで金を引き出そうとしたが、自動音声に拒否されてしまった。丁寧さが逆に煽っているようで、俺は衝動的にATMを蹴った。店員が駆け寄ってきたのを見て、俺は慌てて外に逃げた。


 もっとも、これはいい方だ。クスリをやって、効果が切れたらずっと寝る。クスリを買うときと、ひったくりをするときの他は、外出することはなくなった。食事は一日に一回取るか取らないか。買い貯めしておいたカップラーメンで済ます。机の上には無造作に破かれた封筒。朱色のカードが入っている。


 カードを手にするとき。カップラーメンをすするとき。鏡で自分の顔を見たとき。珍しくクスリをやらないで寝る前。そして、クスリの効果が切れてベッドに倒れる瞬間。クスリを止めようと思うことはしょっちゅうある。ふとした合間に恐怖を感じ、クスリを止めようと決意する。


 だが、その決意は紙よりも薄く、役に立ったことはない。一回だってクスリを捨てられたことはないし、寝て起きれば今日はいつクスリをやろうか、金はどうしようかと考えている。今の生活はクスリを中心に回っている。その軸が根こそぎ取られたら、俺は人間の形を保っていられないだろう。


 結局、分かっているのだ。クスリが違法であることも、ゆっくり自殺していっていることも。それでも、今の職も金もない状況、湧き出て止まらない不安を鎮めるためには、クスリしかない。たとえ、未来が破滅であっても、見えない未来よりは、リアルに体感している今をやり過ごすことの方が重要だ。クスリをやるのは今日が最後。そう言い聞かせながら、俺は今日も左腕の静脈にクスリを打つ。


 明日が、両手から砂のように零れ落ちていく。





 その日も俺は眠っていた。しかし、その眠りは浅い。起きて寝てを五回繰り返す。六回目はスマートフォンの着信音で目が覚めた。画面には「南渕先輩」と表示されていた。俺はスマートフォンを向かい側の壁に投げる。窓から差す黄金色の夕日が眩しくて、俺は枕に顔を沈めた。


 少しして起き出すと、スマートフォンに留守番電話一件の表示があった。俺は画面をタップして、メッセージを再生する。


「弓木君、久しぶり。元気?ってそんな訳ないか。今日もクスリをやって寝込んでいるんだろうな。今、小絵と一緒に警察署の前にいるよ。これから出頭しようと思う。初めてクスリをやったときのこと、覚えてる?俺はあのとき、『やった!』と思ったよ。これでマージンが貰えるってね。でも、弓木君はどんどんクスリにハマっていって、会社に来ないことも多くなった。週二回を続けている俺とは違って、きっと毎日やっているんだろうな。許されるとは思ってない。でも、謝らせてくれ。すまなかった。弓木君が会社に来れなくなったのは俺のせいだ。俺が、弓木君の人生を破壊したんだ。取り調べでは弓木君のことも話そうと思う。一週間もしないうちに弓木君のところにも警察が来ると思う。巻き込んだ俺が言えた義理じゃないけど、お互いクスリを止めて真っ当な人生を歩もう。じゃあ、そろそろ行ってくるよ。本当にごめん」


 しばらく立ち尽くした。スマートフォンからは何の音もしない。俺は強く握りしめると、壁に向けて、今度は思いっきり投げつけた。スマートフォンの画面は割れ、床には小さなガラスの破片が散らばる。


「クソがああああああああああああふざけんなああああああああああああああ」


 ベッドの脚を蹴る。木製でもダメージを受けるのは自分の脚だ。俺はベッドにうずくまる。布団を叩くと乾いた音がした。


「はあ?先に勧めてきたのはお前の方じゃねえかよ!あの時、お前の家に行かなかったらこんなことにはなってねぇんだよ!それが今さら怖気づきました、出頭しますだ?ふざけんなよ!このクソ野郎が!」


 何度も何度も叩く。


「なんで俺が逮捕されなきゃなんねぇんだよ!普通に暮らしてたのによ!ああムカつく!ムカつくムカつくムカつくムカつく!」


 俺はクスリの入っている衣装ケースをベッドの下から取り出そうとする。だが、なかなか出てこない。


「てめぇら、どんだけ俺をイラつかせれば気が済むんだよ!早く出てこいやアホが!」


 ポリ袋からクスリを取り出してカップに入れる。一気に三袋分入れた。水を入れて混ぜると、子供のころに遊んだスライム以上にどろっとした粘液になった。注射器になかなか入らず、俺は「クソがクソが」と繰り返す。小さいスプーンを駆使して、なんとか入れて、注射する。いつもは気持ちいいのだが、この日は却ってゾッとした。全身に悪寒が走る感覚。憤怒も意識も飛んでいき、視界は緞帳を下ろしたように真っ黒になった。


 何処から囁く声が聞こえる。「死んでしまえ」「生きている価値がない」。大半の責める言葉の中に、微かに「やめたい」「クスリのない人生を生きたい」という声もした。しかし、非難する言葉の、あまりの強さにすぐに埋もれていく。手を伸ばしてみる。開いた手は空を切るばかりで、何も触れることはできなかった。やがて非難の言葉も消え、暗闇は一点に収束した。電子顕微鏡でも見るすることができない、ごくごく小さな一点に。





「弓木峻さんですね。あなたに逮捕状が出ていますので読み上げます。『逮捕状。被疑者氏名、弓木峻。年齢、二十六歳。住居地、○○県○○市○○×丁目×―×、ハイツ○○三〇五。職業、派遣社員。罪名、覚醒剤所持及び使用。被疑事実の要旨、別紙逮捕状請求書記載の通り。引致すべき場所、○○中央警察署または逮捕地を管轄する警察署。有効期間、令和二年一〇月二十七日まで。以上、上記の被疑事実により、被疑者を逮捕することを許可する。令和二年一〇月二十日。○○簡易裁判所、裁判官○○○○』」


 日光も入らなければ、電気もついていない廊下は一二時にしては暗かった。警察官は俺より二回り背が高く、銀縁の眼鏡を掛けている。薄暗い空気と共に圧迫感があった。


「逮捕状の記載内容に相違はないですね」


 警察官が厳とした口調で尋ねる。


「はい、ありません。全てその通りです」


「では、逮捕状にのっとって、あなたを逮捕します」


 警察官が手錠を取り出す。銀色が光を全て吸い込んでしまうかのようだ。俺は両手を差し出す。手錠がかけられると、俺の体温は手錠に吸い取られていった。その冷たさは人生で初めて味わうものだった。普通とされる人間が一生味わうことのないものだった。


「十二時十三分。被疑者逮捕」


 警察官に連行されて、俺は階段を下る。しばらく戻ることはないであろう水色の階段を一歩一歩踏みしめて下る。警察官はワンボックスカーのドアを開けて、俺に入るように指示した。俺を後部座席に乗せて、護送車は走り出す。


 運転席と後部座席を仕切る金網を通過する言葉はない。車内は水を打ったように静まり返っている。音響式信号機のメロディが、どこかから聞こえた。



続く


次回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(7)

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