高浜海水浴場

柘榴と二本の電波塔(2)



柘榴と二本の電波塔(1)




 もうすぐ到着することを知らせるように、汽笛が二回鳴る。船内から甲板に出ると、水面に日光が反射して、波がパステルカラーにはためいていた。
 出発してから飛行機で二時間、空港からバスで四十分、港から島へは三時間かかったので、合計で六時間ほどかけての長旅だ。空港から直行便も出ていたけど、「ドラマがない」という木立さんの発言で、却下となった。フェリーの半分の時間で行くことができる高速船に乗らなかったのも、同じ理由だ。

 タラップを一段一段ゆっくり降りて、フェリーターミナルに入っていく。中でチケットを見せて改札を通り、建物の外に出ると、海岸線に沿って家々が並んでいるのが見えた。もっと潮風で、塗装の落ちかかった木造の家を想像していたけど、目の前に並んでいるのはモルタルやサイディングの家が殆どだ。正面の土産屋が辛うじて歴史を感じるぐらいで、これでは都市部と大差ない。
 それでも、木立さんは愛用している一眼レフで、次々と写真を撮っていた。私も一応、スマートフォンを取り出す。三澤さんは特に何も取りださず、辺りをキョロキョロと見回していた。

 ターミナル近くでレンタカーを借り、しばらく道路を走らせることにした。高層ビルに押しつぶされそうになる都市部とは違って、ここには、目の眩むような高い建物はない。
 左手を山々が通り過ぎていく。見慣れた人工の緑色ではなく、総天然色の黄緑だ。葉の一枚一枚が日光を浴びる喜びに打ち震えて輝いているように見えた。

 右手には海が広がっている。コバルトブルーの海面に、水平線が溶け出していて、空との境目を曖昧にしている。寄せる波も穏やかで、オルゴールを聞いているかのように心地よい。窓を開けて手を伸ばすと、潮騒が柔らかく撫で、私を迎え入れてくれる。



 三〇分ほど車を走らせると、砂浜に水着の人々が、点在しているのが見えた。並び立つビビッドなパラソル。真っ白な日差しを浴びて、海に向かって飛び出す子供の姿が眩しかった。
 木立さんはすぐさま運転している三澤さんに車を停めるように指示する。駐車場はほとんど埋まっていたが、幸運なことに砂浜へと向かう階段から二列目に空きを見つけることができた。

 車のドアを開けると、それまで顔にばかり当たっていた海辺の空気が、待ちきれないといった様子で、私の全身を優しく包み込んだ。濃厚な潮の香りは鼻を突き抜けて、神経をあっという間に伝い、私の脳を力強く揺さぶった。寄せては返す波の音が、その一定のリズムが、早まっていた心臓の鼓動をフッと緩やかにしてくれる。
 波打ち際はコバルトブルーよりももう少し淡い浅葱色だ。空まで所有してしまいそうな海岸線へと、青色がグラデーションのように移り変わっている。その透明度が何もかも肯定してくれるようで、どうしようもなく自信が出てくる。

 砂浜は太陽の光を吸い込んで、熱気を帯びる。海というステージに連なるサンドカーペット。間近で見てみると、一粒一粒が本当にきめ細かく、星屑のようだ。
 テンションが上がってしまい、無意識のうちにスニーカーと靴下を脱いでいた。恐れることを知らずに踏み出した右足を、即効性のある熱さがひっぱたく。瞬間、右足を引っ込める。想像以上の熱さにびっくりしたけど、三澤さんも木立さんも私を見て、堪えきれずに笑いを漏らしていた。私も釣られて、はにかんでしまう。

 三人で少し砂浜を歩いて、腰を下ろす。スキニー越しだと砂浜の熱は床暖房みたいで、とても暖かいけれど、三〇度を超えたこの日では、ただただ暑さが増すだけだ。
 辺りを見回してみる。波打ち際ではしゃぐ親子。板状の浮き輪に寝転がって、日差しを浴びている十歳ぐらいの男の子。海を背景にスマートフォンで自撮りをするカップル。薄いうろこ雲。岬に栄える緑。空と海の境界線。昨日のことさえも、忘れてしまうような景色。明日を持っている横顔。

「こういうところを、舞台にしたいよな」

 木立さんが言った。

「主人公とその友達、ヒロインが海ではしゃいだり、しっとりしたりしてんの。ティーンエイジャーだよな」

「木立さん、構想、浮かんできました?」

 三澤さんの“木立さん”という呼び方は、相変わらずよそよそしいけど、懐っこさも感じるから不思議だ。

「ああ。おぼろげだった輪郭が、少しは濃くなってきたかな」

「来て正解でしたね」

「まだ分からないけどな。これからの取材次第だ」

 一〇分ぐらいは誰も何も言わなかった。圧倒的な情景にただ身を委ねていたのだ。時間がギュッと濃縮されたように、高い密度で過ぎていく。


「そろそろ何か食べたくないですか」

思えば朝おにぎりを二個口にしたぐらいで、ここまで何にも食べていない。空腹になるにはもう十分すぎるほどの時間が経っている。

「そうだな。腹も空いてきたことだし、近くで飯にするか」

 木立さんが立ち上がって、車に向かって歩いていくと、三澤さんが次に立ち上がり、最後に私がその後をついていく。
 振り返ると、景色は私たちが来た時と何も変わっておらず、白波が砂浜をさめざめと濡らしていた。カメラに頼らなくても、一瞬を目に焼き付ける。
 エンジンのかかる音が聞こえ、私は階段を駆け上がった。






 車を走らせて、見つけた定食屋に入ったときには、一四時を過ぎていた。
店内に入ると真正面に調理場で手ぬぐいを頭に巻いた初老の男が一人、鍋を振っていた。入り口のすぐ横に、ローカル番組で訪れたアナウンサーらしき人のサインが飾られている。木製のテーブルの上にメニューはなく、黄色い紙に黒い字で書かれたメニューが壁にいくつも貼りついているだけだ。
 私達の他には常連客らしき白髪の男が一人いて、店員と思しきエプロンを着た女性と、仲良く話し込んでいた。どうやら夫婦で経営している定食屋らしい。

 壁に書かれているメニューを見上げる。手書きのようだが、毛筆体のフォントが使用されており、麺類や定食、一品ものなど種類は意外と豊富だ。
木立さんは席に着いてすぐ、とんかつ定食にすると言った。プラス一〇〇円でご飯の大盛もつけるらしい。私はしばらく迷って焼き魚定食を選んだ。島に来たからには海のものを食べねばならないという使命感が働いたからだ。
三澤さんは私以上に迷った挙句、結局どこでも食べられそうなきつねうどんにしていた。

 木立さんが手を上げても、女性はこちらに背を向けて、常連客と他愛のない話を続けている。漏れ聞こえてくる内容は、三丁目の大野さんがどうのとか、よそ者にとってはどうでもいい話ばかりだ。木立さんが「すいません」と声を上げると、ようやく気付いたようで、給仕口に伝票を取りに戻ってから、私達の席に注文を取りに来た。
 それぞれ自分の頼んだものを注文する。女性が伝票を置いて行ったが、文字は達筆すぎて、あまり読むことができなかった。

 注文を終えたはずなのに、女性はまたすぐに給仕口を離れて、私たちのところにやってきた。常連客の「ちょっ、タエコちゃん」という声を気にも留めていない。よほど暇を持て余しているのか、それともかなりの話好きなのか。

「わっだ、どっから来たと?」

「東京から来ました」

 こういう時に私たちを代表して答えるのはいつも木立さんだ。

「東京さ!?そいは遠いか。どっして来たと?」

「飛行機で本土の空港まで行って、そこからバスとフェリーですね。六時間くらいかかりました」

「そんげんかけて。まっと早く来らるっとに、わっだも好いとうね」

「いやいや、フェリーから見る海も綺麗でしたよ。ウミネコも飛んでましたしね。それにフェリーのエンジン音を聞いていると、なんかワクワクするんですよ」

「そいはよかと。とこんで、そっちのジャケットを着たアガ。どっかで見たことあんような……。気のせっかいな」

 タエコさんが、ジャケットを着た三澤さんを見て、首を傾げる。三澤さんは、恥ずかし気に笑って見せる。

「あ、思い出った。アガ、作家の“三澤諒”ね。こん前、雑誌で見たとよ。誌面で見んよりイケメンやね。かっこよか」

「お気づきになりましたか、お母さん。こちら作家の三澤先生です」

「あっぱよ!あん三澤先生が来てくれっなんて!あんがたいね。え、じゃあこけへは取材かなんかか」

「まぁ、そんなところです」

 三澤先生の言葉に、熱はこもっていなかったけど、タエコさんは十分上気している。

「やー嬉しか。ウチのよかってこ、バンバン書いてくれんねー。で、アガは?」

「私ですか。私は三澤先生の担当編集の、木立といいます。こちらは同じ担当の関です」

「こ、こんにちは」

「あっぱよー、こん子もみじょかー。お人形さんのがっちゃー」

 今まで生きてきて、お人形さんなんて、言われたこともなかった。そんなに悪くはない容姿だと自分でも思うが、正面から褒めてもらえると、存外に嬉しい。

「ありがとうございます」

「よかー、よかとよ。こがん若か子たっに会うん、久しぶりだけん、嬉しかよー。ゆっくりしとっとねー」

「あの、ちょっと聞いていいですか」

「なん?」

「この島でお勧めのスポットって、どこかありますかね?僕ら、あまり下調べをしないで、来てしまったものですから、どこに行ったらいいのか、分からなくて」

「そっね、やっぱいここん来たら、教会ば行っておった方がよかよ。建物は厳かだし、中に入っと、ステンドグラスば神秘的ばい。そいに、こん土地は場所柄、もともとキッシタンば多して、江戸時代って禁教令でキッシタンの人たちんば、弾圧ば受けとったじゃなか。そん歴史ば知っためにも、教会へは来るべきよ」

 想像通りというか、それは私たちが、これから行こうとしている場所だった。先程の道を車で十五分ほど戻れば、教会に着くはずだ。

「教えてくれて有難うございます。教会ですか。食べ終わったら行ってみます」

「こっちこそ。で、三澤先生。オイ、あん読んだとよ。『パイド・パイパー』。あん最高だったと。なんがよかったかとね……」

「もーしー、料理ばできとるぞー。運んでくれんー」

 給仕口から細い声がした。振り向くと、木立さんのとんかつ定食が用意されている。タエコさんは「んじゃ、きばってね」といって戻っていき、とんかつ定食をテーブルに運んで来てくれた。
 間もなく焼き魚定食ときつねうどんも提供されて、私達は七時間ぶりの食事にありつくことができた。鯖の表面に茶色い焦げ目がついていて、箸を入れるとひどく簡単に身がほぐれる。一口食べると鯖の油が私の舌を軽やかに刺激して、非常に美味だった。顔を上げると三澤さんが出汁の染み込んだお揚げを頬張っている。
 気がつくと、目を奪われている自分がいた。私もきつねうどんにすればよかったと、結構真剣に考えながら。






 勾配の急な石段を登りきると、白亜の教会が目に飛び込んできた。一目見ただけで圧倒され、背筋が伸びる。高貴な白い壁に、格子状の模様が刻まれている。尖塔の頂点に掲げられた十字架が太陽の陰になっていて、鈍い灰色に見えた。奥行きがあり、威風堂々を地で行く有様だったが、悲愴も色濃く残っている。入り口は三つあり、そのどれもから、威厳のある内装が認められた。

 周囲をぐるりと回ってみる。どの角度から見ても教会はこの上なく象徴的で、禁教令が解かれた後の殉教者の万感が、強く感じられる。
 横を向くと高台に、椿の木が双立していた。常緑樹ということで青々とはしているが、実を落としてしまっていて、こちらを見る様子もない。


 堂内に一歩足を踏み入れると、新雪のごとき真白なイメージが、私たちの体にスッと入り込んできた。一段と茶色が濃い祭壇の頭上に、十字架に磔にされたキリスト像。その両脇の長円形の窓から柔らかな光が降り注ぐ。祭壇へと続く身廊は年季の入った赤いカーペットに彩られ、背もたれに空洞がある長椅子たちが、膝をつくように並んでいた。
 天井にはコウモリが羽を広げたような曲線がいくつにも連なっていて、視線を左右にやるとクローバーの模様が見える。幾何学模様のステンドグラスからは日光が彩度を持って差していて、感情を手に入れたみたいだった。柱の中ごろには、薔薇や白百合、椿や柘榴など様々な意匠が施されている。

 まさに息をのむほど美しく、普段感じえない神秘に包まれる。天井が高く、屋内なのに閉じこめられるような感覚は一切ない。長椅子の間でオレンジ色の羽の扇風機が回っているのでさえ、神からの啓示のように思えてしまう。
 堂内には私達しかいないのに人の気配がするのは、きっと朝にミサがあったからだろう。ミサの厳かな空気はまだ堂内を巡っていて、息を吸い込むと映画で観た祈りのシーンが思い浮かんでくる。
 中央右のパイプオルガンから、穏やかな熱が微かに放出されていた。

 観光協会のホームページによると、堂内での写真撮影は禁じられている。ということは、教会の光景はこの目に刻むしかないのだ。瞳の奥のフィルムに構成している要素を焼き付ける。
 気づくと、私たち三人は別々に動いている。三澤さんはステンドグラスをじっと見つめており、木立さんは天井を見上げてばかりいる。

 私はというと、壁の聖画を凝視していた。聖画は全部で一四枚あり、キリストの捕縛から磔刑、埋墓までを描いている。復活の一五留は、祭壇に祈るためにないそうだ。
 聖画の中では白い服を着たキリストと思しき人物が、青い服に白いベールをまとった女性に慰められていた。その姿が市井の人々と何も変わらないように見えて、一息つく。


 聖画は左手前から奥に七枚。右手前に戻り、奥へともう七枚があった。最後の聖画を見終えた私は、祭壇の前まで歩いて、長椅子に腰かける。身廊に近い端に座り、斜め前の祭壇に思いを馳せていると、三澤さんが、身廊を挟んで反対側にある長椅子に座った。二人を隔てる身廊は、深い峡谷のように感じられる。

「関さん。どうですか、この教会」

「そうですね。とても厳かで、綺麗で素晴らしいと思います。非日常という感じですけど、教徒の方は、ここへ来ることが日常なんですよね」

「そうですか。僕は弾圧されてきたキリシタンの歴史を感じて、身が引き締まる思いがします」

「あ、それは私も感じました。背筋が伸びますよね」

 私が背筋をすくっと伸ばすと、三澤さんも追って背筋を伸ばした。その様子が可笑しくて、自然に笑顔がこぼれた。

「ところで、木立さんはどうしたんですか」

「木立さんなら外に煙草を吸いに行きましたよ。堂内は禁煙ですからね。苦そうな顔してましたよ」

 木立さんが煙草を吸う姿を想像する。長く太い指に挟まれた煙草はとても窮屈そうだ。口元に持っていって分厚い唇で吸う。吐き出す煙は、島を流れる潮風に溶けていくのだろう。表情は?満足そう?それとも、寂しげ?

「三澤さんって、木立さんと知り合ってから、何年ぐらいになるんですか」

 突拍子のない質問にも、三澤さんは笑顔で答えてくれる。でも、その表情にはやりきれなさのスパイスが、振りかけられていた。

「もう六年か七年くらいになりますね。大学の文芸サークルで知り合ったのが、最初です。その頃から、木立さんの書く小説は面白くて。サークル内でも、ダントツでしたね。下の下を彷徨う僕とは違って」

「三澤さんは、自分で小説をお書きになったことは」

 奇妙な間があった。しじまが教会の持つ厳格さによって増幅される。

「壁なんですよね」

「え?」

「大きく分厚い壁なんですよ。叩いても叩いても、手応えがない。あるはずの向こうが、想像できないんです」

 天井が下がってくる気がした。

「もちろんありますよ。文芸サークルは、何かが胸に突っかかっていて、それを書くことで、消化する人間の集まりですからね。僕も何作か書いていました。でも、僕の書く小説って、人気ないんですよ。学祭で展示しても、読まれるのは主に木立さんで、他の部員にも少しはいるんですけど、僕のところにはゼロ。負のオーラみたいなものが、出ているんでしょうね」

「いや、そんなことは……」

「僕もね、あちこちの新人賞に応募していた時期があったんですよ。何を勘違いしてか。関さんのところの萌芽賞にも、応募したことあります。でも、結果は全て落選。担当さんさえつくことはなかった。ある人は『今まで壁を九九回叩いて壊せなかったとしても、次の百回目で壊れるかもしれない。だから叩くのを止めるな』って言っていましたけど、そんなの絵空事ですよ」

 暗澹とした長椅子。磔のキリスト。励ましの言葉が見つからない。

「三澤さんは、今も小説をお書きになっているんですか」

「僕なんかがいくら書いても同じですよ。駄作に駄作を重ねるだけです。自分でも読んでいられないものが、人様に読んでもらえるわけがない。最後に書いたのはいつだったか、もう忘れてしまいました」

 探し出して、ようやく見つけた言葉もあっさりと斬り捨てられてしまう。無力感に苛まれて立ち去りたかったが、それで三澤さんには何が残るのだろう。
 私にできることなんて、ただ傍にいることぐらいだ。
 何も言わずに、全てを吸収するつもりで。

「リョウー、アヤカちゃんー。もう行こうや。そろそろ旅館の、チェックインの時間だぞー」

 木立さんのあけすけな声がこの時ばかりは頼もしく聞こえた。
 三澤さんは立ち上がり、出口に向かって歩いていく。私も立ってそれを追う。三澤さんは出口の前で立ち止まり、バッグから財布を取り出して、千円札を献金箱にそっと落とした。その後ろ姿が猫のように小さくて、胸の奥が締め付けられる。私も同じように千円札を献金箱に入れた。
 外に出ると、西に傾いた太陽が、感情のない光が、私を猛然と照らしていた。





 空は少しずつ藍色が深くなっていく。日も落ちたというのに、ジリジリと鳴る蝉の声が喧しかった。ターミナル前とは違って、この一帯の家は、木造であることがありありと分かるぐらい、外壁が潮風によって艶を失っていた。
 灰色が目立つ家の上部に提灯が飾られていて、白熱灯が恥ずかしげに瞬く。今ここでしか見られない光景に、思わず頬が緩んでしまう。年に一度でも、毎年繰り返していれば、日常になる。私達とは異なる日常に触れられることは、とても幸甚なことだ。

 辺りの民家の軒先に、即席の店が出ている。焼きそばやら焼き鳥やらを販売していて、住民が集まっていた。木立さんはその間に割って入り、三五〇ミリリットルの缶ビールを、三本買ってくる。三澤さんは運転係だから飲めない。ということは、木立さんは一人で二本は開ける算段らしい。


 提灯の間を抜けると、港に出た。終着点ということもあり、人がより集まっていて、浴衣が夜光虫のように飛び回っている。スマートフォンであちこち写真を撮っているのは、私たちと同じ旅行者だろうか。対抗意識を感じて、私もスマートフォンを取り出す。
 その前を子供が走って横切っていく。茶目っ気に溢れた一瞬に目を丸くしたが、両隣の二人はにこやかに笑っていた。熱帯夜を吹き飛ばすような、爽やかさだった。

 穏やかに波を立てる海をバックに、簡易テントやステージが設置されている。ステージの後ろには紅白の幕が張られており、その上では演歌歌手が、こぶしを効かせた歌唱を披露していた。地名や施設名がふんだんに盛り込まれた、いわばご当地ソングというやつだ。きっと毎年来ているのだろう。最前列では白髪の老人が一緒に朗らかに歌っていた。
 木立さんも既にビールの缶を開けていて、一緒に手拍子をしている。一応、取材旅行なのに。


 一通りテントを見て、地元の方に話を聞いていると、あっという間に、空から青はなくなって、完全な夜になった。メモを取る手が、甲高い鉦の音に止まる。その音はステージの方からしていて、見るとパイプ椅子が並ぶ後ろで、なにやら円ができていた。

 近づくと、黒のインナーの上に白襦袢を着た人が、円形に並んで歩いている。肩から桶胴太鼓をぶら下げていて、頭に紫の布を被っていた。布の上に紙でできた花や吹きおろしがあり、笹と思しき植物が頂点で栄えている。また、腰から下には細長い草がロングスカートのように垂れ下がっていて、祭壇にも似た奇妙さが感じられる。
 三拍子で鳴る鉦に合わせて、バチで桶胴太鼓を叩きながら歩く。動きは平坦だったが、祈りを捧げるような、奇怪な空気を放っていた。

 その動きが珍しく、一人で写真や動画を撮っていると、頬に冷たいものを感じた。横を見ると木立さんが立っていて、私に缶ビールを突きつけてきている。ラベルを見ると先程の物とは銘柄が違う。

「よっ、アヤカちゃん。一人で何ボーっと見てるの」

「別に、ボーっとなんかしていません。小説の参考になればと思って、記録に残してたんです」

「そ、ありがと」

 そんなことより、と木立さんに勧められるまま、缶ビールの蓋を開ける。そのまま口に運ぶと、乾いた喉や胃をビールが潤してくれるので、気持ちがよかった。

「三澤さんはどちらにいるんですか」

「ああ、リョウなら、あっちで見てるよ」

 木立さんが指差したのは反対から少し左に逸れた方。そこには三澤さんが一人でポツンと立っていた。暑さに押されて、背が少し屈んでいる。踊り手の合間に途切れ途切れに見える三澤さんの顔は、遠かったけど目元が心許なく、視線が合うことはない。

「木立さんって、三澤さんとは大学時代からの、付き合いなんですよね」

「俺がリョウの二個上。出会った時からアイツ、いつも俺を頼ってきて大変だったよ」

 踊り手が自らも回転し始めた。鉦のテンポが上がるにつれて、桶胴太鼓を叩く音にも力強さが宿り、回転の反動で腰元の草が重力に逆らって浮かんでいく。円の中央にある胴型の提灯が彼らを照らしていて、仄かながら、見る者を離さない力強さがある。

「自分の名前で書かないんですか?」

 あまねく運動が静止したように感じられた。時間を規定する難しい名前の原子が、私たちを凝視している。木立さんもビールを飲む手を止めて、視線をまっすぐ前に向けていた。

「木立さんほどの力があれば、自分の名前でも売れると思うんですけど」

「本でさ」

 木立さんの声がスイッチになり、世界は再び起動された。

「本で帯ってあるじゃん。あれってコメントよりも、そのコメントを出した人の名前の方が、大きく書かれてるんだよな。読む人もまず名前を確認してから、コメントを見るようになってる」

「確かに……」

「映画のホームページにあるようなコメントも、時間がない時は、名前だけを追っていって。『あの人がコメントを出しているから、この映画面白そう』って。それで満足してさ。みんな何が書かれているかより、誰が書いたかの方が、大事なんじゃねぇか」

「そうですかね……」

「そうなんだよ。俺が自分の名前で書いても、多分デビューは、できてると思う。でも、今ほどは売れていない。間違いなくな。今、“三澤諒”が人気作家でいられるのは、三澤のルックスのおかげなんだよ。アイツがテレビや雑誌で顔出しすることで、ファンができてるんだ。“三澤諒”というアイコンへのファンがな」

 木立さんの断定する口調に返す言葉もない。私が“三澤諒”を知ったのも、三澤さんがファッション雑誌に載っていたことがきっかけだ。雑誌の中の三澤さんはサマーカーディガンをすらりと着こなしていた。
 私が最初に興味を持ったのは“三澤諒”ではなく、三澤さんだ。

「“三澤諒”としていた方が、結局売れるんだよな。やっぱり売れなきゃ、やっていけねぇし。俺は文才を、アイツは恵まれた容姿を、それぞれ最大限に生かしてる。それだけだよ」

 目の前の踊り手は、祈りにも似た念仏を、闇夜に捧げている。踊りは激しくなっていき、迸る気力が、彼らを包んでいた。肌に触れる熱風は、収まることを知らない。じっとりと汗ばんでいき、乾いた裾で額を拭った。

 見上げると、花火が文字通り、夜空に満開の花を咲かせている。そんな映画みたいなことはなかった。そこにあるのは、黒く塗りつぶされた空。雲に覆われていて、星々を眺めることはできない。現実が、私の首を絞めつける。開けたビールももう飲む気にはならず、ぶらんと垂れ下げた腕に汗がまた一筋、滴り落ちていった。



続く


柘榴と二本の電波塔(3)


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