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【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(14)


前回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(13)



 外に出ている月は、真円の形をした満月だった。私は、ベランダにいた。降り注ぐ光は歪みなく、全ての屋根を、人をほのかに照らしていた。それでもその光は、とてもしっかりしていて、狼男が変身するのも頷ける。私も唆されてしまい、スマートフォンを手に取った。連絡帳の画面を表示する。一番上にある番号に電話をかけてみる。かつては毎日のようにかけていた番号。だけれど、今はかけることのなくなった番号。消去することはできない。


 聞き慣れた呼び出し音が聞こえる。一回、二回、三回。一向に呼び出し音は終わることはなかった。話していないのに喉が渇く。何を話そうかが浮かんでこない。やがて、呼び出し音は鳴り終わり、


「おかけになった電話番号への通話は、お客様の希望によりお繋ぎできません」


 というアナウンス。私はスマートフォンを耳から離す。ぶら下がった腕に夜風が当たる。雨が降りそうな風だ。もう一度、月を見る。欠けていればいいのにと思ったのに、丸々とした満月に変わりはなかった。窓を開けてベランダから出る。私の悪あがきは、今日も実を結ばなかった。






 部屋には暖房が入り始めて、気怠い温風が俺の顔を撫でた。熊谷が着てきたカーディガンが、椅子の背もたれに被せられている。俺は尿の採取を終えて、結果を待っているところだった。今週からホットになったコーヒーは、少し酸味が強く、俺の好みではない。だけれど、高咲さんは美味しそうに飲んでいた。マグカップから立ち上る湯気が、顔の前で揺れていた。


 その高咲さんは、今は六角と話している。二人はこのプログラムに参加しているただ二人の女性同士ということもあり、あっという間に仲良くなっていた。二週目には、二人で映画を観に行った話をしていて、他の全員が驚いたほどだ。おそらく二〇歳くらい年は離れていると思うが、二人が話している姿を見ると、まるで姉妹のように思える。


 俺はスマートフォンで、SNSを見ている。すると、磐城が話しかけてきた。俺が向くと、マメが潰れた手を振っていた。足が長く、単純な身長は熊谷よりも低いのに、存在感では引けを取っていない。それでも、座っている俺の目線まで腰を曲げて、目を合わせてくれた。


「どうですか、弓木さん。もう一か月以上経ちますし、だいぶ慣れてきたんじゃないですか」


「まぁ、そこそこって感じです」


「でも、最近は正直に薬物を使いたくなった日があった、ということができているじゃないですか。いい傾向ですよ」


「そうですかね……。使いたいと思わないことの方が、いいんじゃないですか」


「弓木さん、依存症からの回復の過程で、使いたいと思うことは必ずあります。大事なのはその悩みを打ち明けることができるかです。人に話すことによって、悩みを共有できて互いに 励ましあうことができますからね。依存症からの回復ではそれが何より大切なんです」


「そうですか。ありがとうございます」


 まだ、検査結果は出ない。熊谷がクッキーに手を伸ばして食べていた。


「あの、今回のプログラムって『一人で引きこもっている時間が危険』という話だったじゃないですか」


「一人で何もしないとつい薬物のことを考えてしまいますもんね」


「僕、一人暮らしなんですけど大丈夫ですかね……」


「あ、俺もそれ聞きたかった。同じ一人暮らしだし。磐城はどうしてんの」


「私はダルクで回復途上の方たちと一緒に暮らしていますよ。皆さんいい人たちです」


「ダルクって俺も東京にいたとき、聞いたことあるけどさ、実際何してんの?」


 クッキーを食べながら熊谷が尋ねる。俺も頷いて、磐城の返答を待つ。高咲さんと六角は、俺たちをよそにまだ楽しげに喋っている。


「ダルクは、主に就労移行支援事業所で日中は働き、午前と午後と夜間の三回のミーティングを通して、薬物依存症からの回復を目指す場所ですね」


「あの、ミーティングというのは何を話すんでしょうか」


「主に自分の薬物体験を話して、それを全員で認めて、そこからどうするかを考えるような感じです」


「ミーティング以外は何をやってんだ?」


「主には農作業ですね。毎年お米を作っているんですけど、今年は特に豊作で。いいお米ができそうです」


 磐城は淀みなく話す。きっと今まで何度も同じ質問を受けているのだろう。


「興味があればいつでも相談に乗りますよ。ちょうど、来月の二十七日に紅葉狩りがあるので、よろしければ」


「まぁ考えとくわ」


 と熊谷が言ったところで、乃坂が俺を呼んだ。尿検査の結果が出たらしい。検査結果は陰性だった。俺は乃坂に「ありがとうございます」と言い、リュックの紐に手をかけた。帰ろうとして、顔を上げると高咲さんと六角が近くにいる熊谷に話しかけていたのが見えた。


「熊谷さん明日の夜、空いてますか?」


 高咲さんの呼びかけに、熊谷が首を横に振っている。何かを言い渋るような表情だ。それでも、二人は続けて熊谷に話しかける。「NA」というどこかで聞いたようなアルファベットが飛び交う。俺は話の内容が気になり、机を回って、三人の話に割り入った。


「どうしたんですか?何の話ですか?」


「いや、この二人が一緒にNAに行こうって誘ってくるんだよ」


「あの、NAとは?」


「弓木さん、覚えてないんですか。先月にスマープで話が出たじゃないですか。『ナルコティクス・アノニマス』。薬物依存症の方々の自助グループですよ」


「高咲さん、前々からNAに参加しているみたいで。それで私もNAに行ったらどうかって誘われたんです。人数が多いほど私たちも安心ですし」


「そんなこと言われてもな、いきなり明日っていうのは急すぎるだろ。俺もうバイト入れちまったし」


 熊谷は、コーヒーを飲んだ。マグカップから口を離して、大きなため息をつく。高咲さんが、心配そうに熊谷を説得しようと試みていたが、熊谷は「シフトはもう変えられない」と申し訳なさそうに語っていた。


「なんならよ、お前ら三人でNAに行けばいいんじゃねぇか?弓木、明日の夜、暇だろ?」


「そんな決めつけられても……。まあ暇ですけど……」


「じゃあ、弓木さん一緒に行きましょうよ。きっと回復の役に立ちますよ」


「それなら、はい。せっかくですし、行ってみようかなと思います」


 高咲さんは、「ありがとうございます!」と大げさに喜んでいた。六角はほっと胸をなでおろしていた。一息つこうと、菓子に手を伸ばそうとした瞬間、深津と目があったように感じた。


「深津さんも誘って、四人で行きましょうよ」


 高咲さんに提案する。


「そうですね。深津さんもNAに行きませんか?ここみたいに落ち着いた雰囲気で話せますよ」


と誘った。しかし、深津はスマートフォンに視線を落として、


「僕はそういうのいいです」


 とぼそりと呟き、茶色のバックを持って席を立った。見えない壁がテーブルの上に、立ちはだかっているようだ。


「深津さん。いい機会ですし、一緒に行きましょうよ」


 そう高咲さんが再度声をかけても、


「大学のレポートやらないといけないんで。僕、皆さんみたいに暇じゃないんで」


 と、こちらを見ることなく素っ気なく返し、ドアへ向かって歩いていった。


「せっかく高咲が回復のために誘ってくれてんのに、深津、お前本当に大丈夫なのか」


 熊谷の声に、深津は答えることはなかった。ドアの閉まる音が部屋に響く。その音は逮捕されて、アパートを離れるときのドアが閉まる音とともに、俺の頭の中で谺していた。


「なんだよ、アイツ。せっかく善意で声かけてやってるっつうのに」


「まあ、深津さんも大学生ですし、色々あるんですよ」


 憤る熊谷を高咲さんが慰める。熊谷は残りのコーヒーを一気に飲んだ。怒りも一緒に飲み込んだようだ。肩が少し下がっていることに、俺たちは安心した。


「じゃあ、六角さん、弓木さん、NAは明日の十九時からなので。緊張しないで大丈夫ですからね。でも、時間厳守で。よろしくお願いします」


 そう言って、高咲さんも灰色のトートバッグを、肩にかけて帰っていった。俺はやることもないので、個包装のチョコレートに手を伸ばした。口の中で溶かしていると、六角と目が合った。まだ、すんなりと言葉が出てくるような関係ではなかった。


 乃坂の「弓木さん、検査結果出ましたよ」という声が聞こえる。俺は六角に軽くお辞儀をして、声の方へ向かう。六角は、軽くお辞儀をした後、天井の照明を見つめていた。検査結果は、陰性だった。





 頬に当たる冷風に、そろそろアウターが必要な季節であることを知る。県道脇の道路を一本入ってすぐ、住宅地の中に会場となる教会はあった。真っ白な壁も夜の中に浮かぶと、グレーに染まってしまう。煙突の先にある十字架は闇に紛れてほとんど見えなかった。正面から橙の照明が覗く。


 三〇分前に来たはずなのに、もう高咲さんと六角は辿り着いていて、入り口の前で俺を待っていた。


「あ、弓木さんこんばんは。迷わず来られました?」


「結構分かりやすいところにあるので大丈夫でした。お二人とも早いですね」


「初めてなので緊張してしまって。私は一〇分ほど前に来たんですけど、もう高咲さんがいて。びっくりしました」


「経験者である私が一番先に来ないと、二人も不安だろうなと思ったんです。でも、お二人ともきっちり時間前に来てくれて安心しました。少し早すぎるくらいですけど」


「それは、すみませんでした」


「別に謝らなくていいですよ。もう会場は開いてますし、行きましょうか」


 格子扉を開けて、教会内に入る。礼拝堂、というよりは公民館と言った方が適切だろうか。玄関から廊下がまっすぐ伸びていて、いくつか部屋があるのが見えた。一番奥には体育館のような床が見える。俺たちは下履きからスリッパに履き替えて、受付を済ませる。高咲さんは受付の人とも知り合いのようで、少し談笑をしていた。


 案内された第三会議室は、テーブルの真ん中に薄緑の造花が挿され、その周りにパイプ椅子が置かれていて、スマープの会場をさらに狭くしたような部屋だった。ホワイトボードは入り口脇に置かれており、右奥の棚の上にはミニチュアの聖母マリア像が飾られている。部屋には俺たちの他にはまだ誰もいなかった。


「高咲さん、NAってどんなことをやるんですか?」


「そうですね。最初に一二ステップを朗読して、その後はテーマに沿って話をするって感じですかね」


「一二ステップってどういうものですか」


「それは冊子が配られるので分かると思いますよ」


「テーマとはどのような種類のものでしょうか」


 俺の次には、六角が聞いてきた。同じ不安を抱いているらしい。


「それは色々としか言えないですね。私が薬物を止め続けるためにしていることや、使いたくなったらこうするみたいな薬物に関するときもあれば、『過去の思い出』だったり『大切な人』だったり、漠然としたテーマのときもあります」


「ちゃんと話せますかね……」


「別に最初は皆、話せないですよ。聞くだけでも大丈夫です。あと初めての方はここに来るまでに、どんな経験をして来たのか話す方が多いかもしれません」


「そうですか……。頑張ってみようと思います」



 時間があったので、二階の聖堂に行きながら、ミーティングは定刻通り始まった。司会者と思しき男が、「では、ナルコティクス・アノニマスのミーティングを始めます」と言うと、俺と六角以外の三人は、「よろしくお願いします」と一斉に答えて、小さく礼をした。俺は六角と目線を交わして、同じように頭を下げる。顔を上げると、迷路の入り口に立った気がした。


「最初に今日は嬉しいお知らせがあります。今回、新たに二人の仲間がナルコティクス・アノニマスに繋がってくれました。どうぞ皆さん、温かい拍手でお迎えください」


 無精髭の男がそう言うと、三人の小さな拍手が俺たちに向けられた。俺には、その拍手がどうも不協和音のように聞こえてしまう。それは、俺がまだ警戒している証拠に違いなかった。六角が立ち上がろうとするのを、隣の高咲さんが制する。


「ここでは名乗らなくても、大丈夫なんですよ」


 六角がまた座る。ほっと一息ついた様子だ。そして、俺たちは司会者の男から、白い本を渡された。表紙には「ナルコティクス・アノニマス」としか書かれていない。書店で手に取るフリーペーパーを、少し厚くした感じだろうか。「これ、ホワイトブックっていうんですよ」と高咲さんが教えてくれた。見た通りの名前だなと少し苦笑する。


「では、テーマについて話す前に一二ステップの朗読を行います。初めての方はホワイトブックの四ページを開いてください」


 手に持ったホワイトブックは想像以上に軽かった。これで回復できるのか心許ない。


「ナルコティクス・アノニマスの一二ステップ、一」


『私たちは、アディクションに対し無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた』


 俺と六角以外の三人は流暢に十二ステップを唱えている。俺も小さな声で音読してみる。自分より偉大な力だの、神だの、やたらスピリチュアルな単語が並んでいる。まるで聖書を朗読しているかのよう。そのあまりのスピリチュアルさに、ここがカルト教団ではないかと疑われるほどだ。そう考えると十二ステップやらの内容はあまり頭に入ってこなかった。


 今回のミーティングのテーマは、「薬物を使いたいという思考をどうストップするか」というものだった。まず、高咲さんが指名されて答えた。買い物や食べ歩きをする計画を立てるなど、他の楽しいことを考えるというものだった。高咲さんには、未来が当たり前のように約束されている。六角は頷いていたけれど、緊張からか顔は笑っていなかった。


 背が高くボーダーのシャツを着た男は、使いたくなったらとりあえず音楽を聴きながら走って、シャワーを浴びてみると提案し、眼鏡の上の太い眉が印象的な女は、親や友達に電話をして気を紛らわすと、か細い声で絞り出していた。


 前者はともかく、俺には友達もいないし、親からは拒絶されているので、できそうにもないなと心の中で呟く。それはとても悲しいことで、心は泣いていたけれど、それはただ構ってほしいだけのポーズだろう。


「では、続いてそちらの女性の方、お願いします」


 指名されたのは六角だった。六角は他の人がしていたように立ち上がり、言葉を紡ぎ始めた。


「先ほどの方は、親や友達に電話すると言っていましたが、私は親をとうに亡くしてしまいました。電話できるような友達も差し当たっては思い浮かびません。私は五年前、元夫と離婚しました。私の薬物使用が原因です」


 六角の突然の告白に、会議室が水を打ったかのように静まり返った。いるだけで神経が削られそうな空気だ。俺は耐えきれず、自分でも知らないうちに声を出していた。「ちょっ……」とまで言ったところで、俺のカーディガンの袖を誰かが引っ張った。見ると高咲さんが、唇に人差し指を当てている。ここはスマープと同じく人の話に口を挟んではいけない場所。肩をすくめ、六角の話を聞くことに集中する。


「私が薬物を使い始めたのは、一〇年ほど前です。当時、家事と子育ての両立に疲れていた私は、元気になれると聞き、薬物を初めて使用しました。体の底から力が湧いてきて、はっと目が覚めた時のことを、今でも鮮明に覚えています。それから私は薬物を使用して、騙し騙し日々を過ごしていましたが、きっといつか崩壊するだろうことは確信していました。それでも、一度あの高揚感を経験してしまうと、やめられない魔力が薬物にはありました。夫に薬物の使用が発覚したのは、同じく五年前のことです。夫は私が薬物を使用しているのを知ると、すぐに役所から離婚届を持ってきて、判を押させ、まだ七歳だった娘と一緒に出ていきました。一人になった私はこれ以降きっぱりと、薬物を止めようとそう誓いました。しかし、気づいたら薬局で抗不安薬を買い込み、一度に服用する目安の二倍三倍の量を飲んでいる自分がいました。薬物からはどうやっても逃れられないのだと、私は深く沈み、自分が嫌になりました。それでも、何とかしたいという思いは常にあり、とあるきっかけでこちらの女性と繋がることができ、そしてここに辿り着いたという次第です」


 そこまで、一気に言い終えると「すみません、こんな話して」と六角は申し訳なく頭を下げていた。拍手はなかった。この場にいる全員が六角の話を自分のこととして受け止めた証拠だろうと、俺は思った。少しの沈黙の後、司会者が口を開く。


「ありがとうございます。よくぞ言ってくださいました。ナルコティクス・アノニマスの一二ステップの一番目は、まず自分が薬物に対して無力であることを認めることです。あなたはそれができている。どうぞ、安心してミーティングに参加してください。ここでは同じ悩みを持ったアディクトが、きっとあなたの力になってくれます」


 拍手が起こった。ここはカルト教団ではないことが徐々に分かり始める。こう受容してくれるなら通い続けるのも悪くないと、心の片隅で感じる。


「では、最後、そちらの男性の方お願いします」


 そう言われて、立ち上がる。見渡してみると、全員が俺を見ている。俺もここに来るまでどんなことがあったのか話そうと思ったけれど、上手く言葉になる気がしなかった。代替手段も「自慰です」なんて言えるわけがない。結局、「カラオケに行って、思いっきり歌って発散しています」ということにして誤魔化した。本当のことを言えない罪悪感が、俺の胸を押し潰そうとのしかかる。


 六角以外が代替手段を述べると、ミーティングは他にも方法がないか、自分にも取り入れられる部分がないか検討する段階に入った。慣れた三人が盛んに意見を交わしている。六角も、気まずそうだったが、一言二言参加していた。一方で、俺は自分の番が終わると全く喋らなくなった。罪悪感は俺の中でどんどん膨らんでいく。だけれど、破裂する前にミーティングは終わり、何とか命拾いをした。



 
「どうでしたか。初めてのNAは」


 教会から出た俺に、高咲さんが聞く。


 
「緊張しました」


 俺はそれだけしか言えなかった。だけれど、


 
「よかったら来週も来てくださいね」


 そう高咲さんに言われたら、行く以外の選択肢は存在しない。もしかしたら、来週は緊張が解けて、少しは喋ることができるようになるかもしれない。そう自分に言い聞かせる。二人で駅の方へ帰っていく六角と高咲さんの後ろ姿は、角を曲がって見えなくなった。


 俺は自転車をまた漕ぎ出す。夕飯を食べていないことを思い出し、ラーメン屋に寄ってから帰った。



続く


次回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(15)

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