東京タワー

柘榴と二本の電波塔(4)



柘榴と二本の電波塔(3)





 開け放った窓から吹く風で、シーツが揺れている。テレビの音が空しく響き、こうしなさいと、私に告げているみたいだ。外では蝉がうるさく鳴いて、向日葵が咲き誇っているのだろう。私がそれをもう一度経験することは、おそらくない。この夏が私にとっての最後の夏だ。そう思うと自分で自分が、いたたまれなくなる。

 せめて、一瞬でも長く太陽の光を浴びていたい。ゆっくりと起き上がり、点滴を押しながらエレベーターへ向かう。すれ違う病室の窓から心拍計が波打っているのが見えた。私ももうすぐ胸に心拍計をつけられて寝たきりになるのだろうか。
 病魔は容赦なく私の体を蝕んでいく。

 エレベーターから降りて、多くの人が呼ばれるのを待っているホールを抜け、自動ドアから外に出る。出た瞬間に浴びる太陽の光は、曇っていた昨日とは違って、刺すように感じられた。病衣の隙間に、光が潜り込む。細胞に溶け出して、全身を巡るようだった。
 目の前には、男の子が一人立っている。Tシャツにジーンズという、飾らないシンプルな格好だ。

「行こう」

 彼はそれだけ告げて、私の手を引っ張った。点滴台の車輪が、カタカタと音を立てている。
 私は変わってしまったが、彼は初めて会った時と何も変わっていない。温かい笑顔を常に私に向けてくれる。それだけが私の生きる糧で、ケーブルにも何も縛られずに、どこまでも行くことのできる気分になるのだ。






「関、ちょっと来い」

 キーボードを叩く音が主役のオフィスに、編集長の声が響く。威厳のある低音は喧騒の下、地を這うようにして、私の机まで届いた。コンピューターから目と心を離し、窓を背にした編集長の机に向かう。編集長は、肘を机について両手を組み、手の中に口元を隠すようにして座っていた。

「何なんだ、これは。説明してみろ」

 編集長の机に転がっていたのは、十数枚の用紙。表紙には、『このまま二人で』と書かれている。三澤さんと何度も打ち合わせを重ねて完成した、十五ページしかないけれど、三澤諒渾身の作品だ。

「これは、三澤先生が再来月に出す文庫用の書き下ろしですが」

「そんなことは分かっている。これは誰が書いたんだ、と言っているんだ」

 想定していた質問なのに、編集長の迫力をいざ目の当たりにすると、言葉は出てこなかった。目だけを伏せて、唇を引っ込める。

「木立君が、こんな酷いものを書くわけがないだろう。これを書いたのは三澤。そうだな?」

「その通りです」

「認めるのか……」


 編集長は右手で頭を抱え、何度か首を横に振った。頭を数回掻いて、少し白みがかった髪の毛が落ちる。編集長のめったに見せない仕草に、室内もざわめき、私はその興味を一身に受けていた。

「いいか、今“三澤諒”についている読者は、木立君の小説についている読者だ。三澤から入っても、結局は木立君に魅せられている。読者は木立君が書いた小説を、待ち望んでいるんだ。わかるな?」

「それは、はい」

「木立君の高品質の小説を期待している読者に、三澤が書いたこの低品質の駄文を読ませてみろ。失望されるのは、火を見るより明らかだ。お前がやっているのは、読者に対する裏切り行為なんだぞ」

 編集長の眉間は狭まっていて、獲物を発見した肉食獣のような目で、こちらを睨みつけていた。

「お前も少しは分かってくれよ。“三澤諒”は『柘榴』の看板作家なんだぞ。“三澤先生”の看板に、傷がついたらどうするんだ。見捨てられて、見放されて。雑誌や本が売れなくなって困るのは、俺たちなんだからな。それに、三澤に書かせたお前の責任問題もある。売れなくなって、仕事が回ってこなくなる覚悟はできているんだよな」

 他を寄せ付けない目力に言葉が押し戻される。強固な結界を張っているかのようだ。それでも、今言わなければならない。いま、イマ、今。今が私を急かす。

「なんでそんなこと言うんですか!三澤先生が書いたって、いいじゃないですか!」

「いい加減にしろ!これは、お前と三澤だけの問題じゃないんだよ!何度言えば分かるんだ!」

「三澤先生は木立さんの陰に隠れて、今までずっと書いてこなかったけど、人生を懸けて、また書きだしたんですよ!素晴らしいことじゃないですか!作家を応援しなくて、何が編集ですか!」

「読者が欲しているのは三澤よりも木立なんだよ!読者にとっては、木立こそが”三澤諒”の本物なんだ!読者を裏切るのは出版社として、最大の不義理だ!偽者の三澤が書くことは、お前と三澤以外、誰も望んでないんだよ!」

 偽者。一生懸命な姿を私に見せてくれた三澤さんが、偽者。

「なんですか、その言い方!確かに木立さんを本物とするなら、三澤さんは偽者かもしれません。だけど、偽者にだって、書く権利はあるはずです!偽者だって書きたいんです!書いて本物になりたいんです!編集長は見たくないんですか!偽者が本物に昇華される瞬間を!!」

 

 オフィスが水を打ったように静かになった。口論が止まった途端に、周囲はこれだけ沈黙していたのだと気づく。

「本当に、それが望みなんだな?どうしても、三澤に書かせたいんだな?」

 黙ってうなずく。

「分かった。お前を“三澤諒”の担当から外す」

 編集長の態度はとても非情なものだった。覚悟はしていたけれど、現実のものになるとやはり辛い。体の底から悲観が込み上げてくる。

「おい、福原」

 編集長はそんな私をよそに、近くの福原を呼びつけた。中美先輩と入れ替わりでやってきた福原は、眼鏡の奥で不審な目をしている。

「これ、萌芽賞に回しとけ」
 
 そう言うと、道岡は福原に原稿を手渡した。一ページも余すことなく。福原が、萌芽賞に応募された原稿が収納されている棚に向かう。丸まった背中が、大きく見えた。

「編集長……」

「思い上がるなよ。俺の主観だけでは判断に足りないから、より多くの意見を聞こうと考えただけだ。まあ、お前が望むような結果には、ならないと思うけどな」

「ありがとうございます……」

 いつの間にかオフィスには、普段と変わらない喧騒が取り戻されている。電話は鳴り、人が盛んに行き来する。
 私はしばらくその場を動くことができなかった。頬を伝う感覚で初めて自分が泣いているのだと分かった。悲しいのか嬉しいのか、もうよく分からなかった。でも、それでいいと思った。
 福原が肩を叩く。私は振り返り、自らの椅子へと戻るべく歩き始めた。






 ビルの八階。二つのオフィスを抜けた先にある部屋。広い室内の中央に、木目模様の長机が備え付けられている。その長机を取り囲むようにして、椅子が六脚。椅子の後ろには広大なスペースが残されていて、高い天井と相まって空間をより、開け広げに感じさせる。毎月二十日に行われる萌芽賞選考会議には、陽月社が出版している三部の文芸誌、その編集長と副編集長が招集されていた。

「では、荒川泰樹『グレープフルーツ』 は、残念ながら今回は、選外ということでよろしいでしょうか」

『柘榴』の副編集長である吉越が言った。入り口から見て手前の三番目に座る吉越は、一八三センチメートルもある長身で、青い縁をした眼鏡をかけている。室内の全員が黙って頷く。今回の萌芽賞はやや不作で、ここまで八本の最終候補のうち、佳作は一本のみだった。


「では、次が最後の応募作になります。三澤諒『このまま二人で』。こちらについて、まずは道岡から説明がございます」

「皆さん、どうして作家の”三澤諒”が、このような新人賞に応募したのか、不思議に思うかもしれません。これは“三澤諒”の本物、木立巧実が書いたものではなく、一般的に”三澤諒“と思われている、彼自身が書いたものであります。
 今回、編集部の関から、どうしてもこれを文庫用の書き下ろしとして、収録したいと。そう申し出がありました。私個人としては、これが”三澤諒“に求められる水準に達しているとは、到底思っておりません。しかし、私一人では判断出来かねると考え、この度の萌芽賞に回させていただきました。
 選考に当たって皆さんの忌憚なき意見を、どうぞよろしくお願いします」

 奥の三列目に席を構える道岡が、再び席に座る。押し殺したかのような沈黙が流れる。その沈黙を破ったのは、奥の二列目に座る馬場だった。上げた右手に視線が一気に集まる。

「私としては、あまり評価はできないですね。文体も幼稚ですし、話の組み立て方も下手です。雑さも随所に見受けられる。萌芽賞の選考基準からすれば、他の作品と同じく選外にすべきだと考えます」

 『天秤』の編集長である馬場の意見は辛辣だったが、一人が堰を切ったことで、室内の空気は少し軽くなった。続いて口を開いたのは、多田川だった。髪を七三に分けており、糊の効いたワイシャツとともに、すこぶる真面目な印象を与える。

「私も馬場と同じです。三澤諒はかつて萌芽賞に応募したこともありますが、当時と比べ、何も進歩していない。いや、むしろ長いブランクのせいで、退化した印象さえ受けます。私も選外にして、公表すべきではないと考えます」

「確かに、三澤諒がかつて応募してきたのは、七年前でしたか。“三澤諒”がデビューしたのが五年半前なので、もっと長い期間書いていないのは、間違いないでしょう。毎回送ってくる応募者も多い中で、これは失礼ですよ」

 多田川に続いて、二山も机の上の冊子に厳しい意見を述べた。道岡を含めて四人が反対派に回ったことで、ムードは『このまま二人で』を選外にする方向に、傾きつつあった。


「私は、そうは思いません」

 その言葉は、手前の一列目、一番入り口に近い席に座る、麻績から発せられた。短く切り揃えられた前髪が、引き締まった印象を与える。

「三澤諒は、かつて萌芽賞の他にも、様々な出版社の新人賞に応募していたといいます。その意味では、今回の応募者と何ら変わりはなく、同じ視点で評価すべきだと考えます。また、私は彼の作品が、クオリティでも劣っているとは考えておりません。木立巧実と比べれば、至らない部分は多々ありますが、新人ならではの勢い、感性が感じられます。このような作家を育てていくことこそが、出版社としての義務ではないでしょうか」

 『珊瑚』の副編集長である、麻績の口調ははっきりとしていた。だが、四対一では戦況が覆るはずもなく、

「何回応募しているか。かつて応募していたが、夢を諦めきれずに、長いブランクを経ての再挑戦。そういった要素は、選考に一切関係ないはずです。作品に対する評価を最優先すべきでしょう」

 と、馬場からもっともな指摘を浴びせられていた。麻績は口ごもる。

「本当にそうでしょうか」

 吉越だった。

「小説は人間が書いている以上、作者のパーソナリティが表出するのは、当然です。作者の属性と作品を切り離して考えることが、誰にできるでしょうか。私は作家・三澤諒の挑戦を応援したい」

「一時の下らない感情で、評価するのは間違っています。作品に対する絶対的な評価が出来なければ、私たちがいる意味がないでしょう」

 二山が異議を唱える。が、味方を得たことで勇気づけられたのか、麻績がさらに反論する。

「三澤諒は何度も高い壁に跳ね返され続けた。もうダメかと思い諦めかけたが、今一度ペンを取って、再び挑もうとしている。これを応援したいと考えるのは、当然のことです。それに、きっと三澤諒のような人間は多くいることでしょう。彼らに希望を与え、再びペンを取らせる。書き手の人口を増やすためには、三澤諒という新たなモデルが必要だと考えます」

「麻績さん、理想を述べるのは結構です。しかし、読者が求めているのは三澤諒ではなく、木立巧実。読者の失望を買って、部数が減ってしまったら、あなたの部署だって困る。あなたはそれを考慮していない。もっと現実を見てください」

「編集長、それは違うと思います。読者の前に、まず作家を考えるべきではないでしょうか。作家がいなければ、読者は存在し得ません。会社と作家が対立したら、作家側につけ。私はかつて、あなたにそう教わりました。誰を尊重すべきか、今一度原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか」


 室内は再び静まり返った。誰の声もなく、時計の秒針の音だけが聞こえる。

「おい、吉越。決を採れ」

 道岡が、吉越に小さく語りかける。吉越は椅子を引いて、立ち上がった。

「それでは、決を採りたいと思います。三澤諒『このまま二人で』を、萌芽賞に選出すべきだという方は、挙手をお願いします」







 会議が終わって、最初にオフィスに姿を見せたのは、副編集長だった。その後に続いて編集長が戻ってくる。いつもより小さい歩幅に動揺と迷いが感じられた。
 副編集長が私のところに来て、編集長のもとに行くように言う。窓の前で、椅子に深々と寄りかかり、ミネラルウォーターを飲む編集長の姿が見えた。私が前に立つと、編集長が静かに口を開いた。

「関、三澤の書いた小説のことなんだがな、再来月刊行される文庫に、収録されることが決まった」

 想定外の言葉に心拍数が跳ね上がる。両手を上げて狂喜したい気分に駆られたが、ぐっと堪えて、編集長に見えないように小さく拳を握る。

「それと、担当交代の件だが、とりあえずは年度末までお前が担当を続けろ。文庫が刊行される忙しい時期に、不要の担当交代で作家に混乱を与えてはならないからな」

「了解しました。編集長、ありがとうございます。でも、どうして…」

「編集は誰のためにいるのか。それを思い出しただけだ」

 そう答える編集長の顔は、憑き物が落ちたかのように、晴れやかだった。突発的に編集長の手を握り、力を込める。ごつごつした手には、皴が浮かんでいて、体温が皮膚を通して伝わってきた。数秒経ってから自分のしていることに気づいて、慌てて手を離す。
 顔を上げると、編集長は今まで見たことのない、包容力のある穏やかな笑顔を私に向けていた。







「三澤諒の新刊の書き下ろし、マジつまんねー。これで金取るとか凄いわ」

「典型的な余命もので、ここまでスベってるの見たことない」

「今までの小説も別の人が書いてたなんてがっかり。もう三澤の本は読みたくない」

「全ての作家に土下座して謝るべき」

「古本屋に三澤の本売りに行ったら、本棚にめっちゃ三澤の本あったわ。皆考えることは同じなんだな」



 画面には、想像のない文字列がズラリと並んでいる。どれもこれも喉に容赦なくナイフを突き立てるような酷評だ。ポジティブな感想は、一〇〇件に一件もない。このまま見続けていると、精神が粉々になってしまう。
スマートフォンを布団に放り投げ、炬燵に入って顔を伏せる。歯を食いしばる気力さえなく、口は情けなく半分だけ開いていた。


 文庫本発売の日の午前〇時三〇分には、もう「三澤諒、偽りの人気作家。ゴーストライターを使っていたことを新刊で告白」といったネットニュースが数件あった。ニュースはSNSで瞬く間に拡散され、一時はトレンドにまで上っていた。
 朝、テレビをつけるとワイドショーでも、モニターに新聞が映っていて、コメンテーター、その日は運悪く有名作家だった、が激しく糾弾していた。チャンネルを切り替えても、複数の番組が同じニュースを扱っていて、気分が悪くなり、トイレに駆け込んで、吐いた。

 布団で横になって、再び寝ようとしたが、脳が考えることを放棄せず、眠ることはできなかった。重い頭と体を何とか起こして、着替えを済ませ、外に出る。今にも降り出しそうな空模様で、サングラス越しの雲は自重で、瞬きした後にでも落ちてきそうだった。
 フラフラとした足取りで、近所の書店に向かう。三澤諒の文庫は、店に入って二番目の机に、平積みされていた。三〇分ほど雑誌を立ち読みしながら、横目で積み重なった本を見ていたけれど、本が手に取られる様子はない。少し前に、女子高生の二人組が来て、そのうち一人が買おうとはしたが、もう一人が「やめときなよ」と止めて、結局買われずじまいだった。

 電車で二駅離れたカフェで昼食を済ませ、二時間ほど時間を潰してから、再び書店に戻る。売れていることを期待したが、三冊ほどしか減っていなかった。購入者が相次いで、補充された可能性もあるが、先程の様子を見るに、本当に売れていないと考える方が妥当だろう。“三澤諒”だった頃は、もう既に完売御礼のポップが、踊っていたというのに。
 “三澤諒”を手放したツケが鮮明に払わされていて、自分が行ったことの重大さがようやく身に染みた。コートの袖を掴みながら帰る。頬に当たる風が、切ないくらい冷たかった。




 着信音で目が覚める。長座布団に突っ伏し続けて、気がついたら、寝てしまっていた。のそのそと起き上がり、スマートフォンを手に取る。この一週間、関さん以外からの連絡は全て絶っていたし、今回も通話拒否するつもりだった。ただ、画面に映った名前を見て、思わず通話に切り替えてしまう。電話をかけてきたのは、木立さんだった。


「よう、三澤。元気か?って元気なわけないよな。今ごろ家で、凹んでるんだろ」

「木立さん、どうしてかけてきたんですか、嫌がらせですか」

「その通り。お前に文句を言ってやろうと思ってな。SNS見たぞ。お前のアカウント宛に、目も当てられないようなメッセージが、たくさん寄せられてるな。『もう二度と書くな』だの、『感動を返して』だの。『消えろ』『死ね』みたいな直球もあるな。お前、どう思う?」

「どう思う?って、消えたいし、死にたいですよ。作家として否定されるならまだしも、存在まで否定されるなんて」

「そうだな、まぁざまあみろだ。俺はこうした罵詈雑言を、今まで何度となく受けてきた。お前の分までな。表現する以上は、批判されて当然なんだよ。どうだ。書く身になってみて、少しは俺の辛さが分かったか」

「木立さんはこんな大変な思いをしていたんですね。そうとは知らず、今まですみませんでした」

「今まで?今もだろ。今朝からマンションの受付に、記者やらリポーターやらが押しかけてきて、ピンポンピンポンうるさいんだよ。外に出ようと思ったら、それ来たとばかりに、マイクを向けられて。鬱陶しいったらねぇぜ。おかげでろくに外出もできやしねぇ。他の入居者にも、迷惑かかってるしよ。お前、これどうしてくれんだよ」

「僕が、今から木立さんのマンションに向かって、取材に応じます。そうすれば報道陣も、いくらか気が晴れるでしょうし」

「お前、何も分かってねぇんだな。俺が言いたいのは、そういうことじゃねぇんだよ。第一、お前がマンションまで来たら、もっと報道陣が集まっちまうじゃねぇか。キリがねぇよ。頼むからこっち来んな。」

 何も言えずに、黙ってしまう。スマートフォンを持つ手と、ちっぽけな脳みそだけが存在していて、後は自壊してしまったかのようだ。

「まぁいいや。いやよくねぇんだけどな。こうなることは分かってたからな。一週間は家から出なくても平気なように、準備はしてある。で、お前どうすんだ、これから」

「今は何も考えたくないし、何もする気になれません」

「そうか。まあそうだろうな。お前はそのまま家で、屍のようにくたばってろ。アヤカちゃんのせっかくの思いを、ゴミ箱に捨てながらな」

「関さんがどうかしたんですか?」

「何、お前知らないの?俺も中美さんから聞いた話だけどさ、アヤカちゃん、お前の小説を世に出すために、色々頑張ったらしいぞ。毎日、誰かに頭を下げてたみたいだし。最後には自分が担当を外れるのと引き換えに、編集長を納得させたんだってな。普通、作家のためにそこまでするかね」

「え、関さん担当を外れるんですか?」

「ああ、今年度までって話だぞ」

 関さんが、担当を外れる。その事実は、世界のどんな事象よりも深刻で、頭の片隅で砕ける音がした。俺は一体何をしているのか。今すべきことは、長座布団に突っ伏すことじゃないはずだ。

「木立さん、もう切っていいですか」

「ああ、分かった。まぁ元気でやろうぜ。俺もお前も」

「木立さん、今まで本当に、本当にありがとうございました」

「ああ」

 木立さんからの返答があると、すぐに電話を切った。
 スマートフォンをポケットに入れ、財布と鍵だけを持って、使い古したスニーカーを履く。勢いよくドアを開けて、脇目も振らずに駅へ急ぐ。
二月の風はいつもより強く、氷柱のように体を刺すが、今は大して気にならなかった。身体の発熱が、苦しくなる呼吸を凌駕する。とにかく一刻も早く、辿り着かなければならない。会って、伝えなければならない。心臓の中心で、質量を増す存在の正体を。脳髄を打ち抜く衝動を。
 駅の看板が見えたのをきっかけに、俺はさらにスピードを上げた。







 会社へのクレームの電話は、止むことがなかった。むしろ五時を過ぎて、仕事を終えた人が出始めた分、コールがよりけたたましく響いている。電話を取って、申し訳ございませんと謝ることの繰り返しに嫌気が差して、天井を見つめる。いくつもの四角がこちらを見返してきて、却って気分を悪くした。

「関さん、大丈夫ですか。ここ数日、ずっと残業してるじゃないですか」

 隣の席の福原が心配そうに話しかけてきた。大丈夫と、無理やり笑顔を作って返す。その時、ポケットの中のスマートフォンが振動した。画面を見ると、三澤さんからメッセージが届いている。


「これから少し会えませんか。今、会社の前にいます」


 スマートフォンを見つめて、束の間動かなかった私に、福原が「どうしたんですか」と心配してくる。私は「ごめん」とだけ言って、編集長の机の前に向かった。
 編集長も同じように苦情の対応に追われている。申し訳なく思いつつも、電話が終わったタイミングを狙って、話しかけた。

 「編集長、たった今、三澤先生から連絡が入って、『これから会えないか』とのことなんですが」

「それは今じゃなきゃいけないのか」

 三澤さんからのメッセージを思い出す。無味乾燥な文面だったけれど、切羽詰まったものを感じた。

「はい、どうしても今でなければいけないと考えます」

「理由は」

「直感です」

 私と編集長は目を合わせていた。編集長の瞳に気圧されそうになるが、目を反らすわけにはいかなかった。しばらくすると、編集長は呆れたように、笑う。

「分かった。でも、すぐ戻って来いよ」

「はい」

 編集部内に「少し抜けます」と聞こえるように報告し、鞄も持たずにオフィスを出る。革靴が廊下を蹴る音が速くなり、人にぶつかりそうになりながらも、エレベーターホールに急いだ。エレベーターは、一階まで一度下がってから上がってくるので、時間がかかる。
 私は横のドアを開けて、非常階段を下った。体は焦っていたが、心の奥はなぜか、波もなく落ち着いていた。







 会社のドアを開けると、ひんやりとした風が、私を刺激した。辺りはもう暗くなっており、街頭の灯りがほのかに道を照らしている。会社の前の広場の真ん中に、三澤さんは立っていた。肩が揺れていて、吐き出される息は白い。手袋をしていない手はかじかんでいて、とても冷たそうだ。

「どうしたんですか、急に。大丈夫ですか」

 震えている三澤さんの近くにまで行って尋ねる。三澤さんはこちらを真っすぐ見ていて、その瞳の中には私の姿があった。三澤さんは私を見て、かすかにほほ笑んだように見えた。

「関さん、行きましょう」

 三澤さんはそれだけ言うと、踵を返して歩き出し始めた。その後ろ姿には迷いがなく、とても凛々しかった。
 三澤さんの姿が遠くなっていく。私は三澤さんを離してしまわぬよう、後について歩いて行った。乾いたアスファルトの頼りない感触が、私をかろうじて地表に押しとどめている。




 歩いている間、三澤さんは何も言わなかった。私からも何を話しかければいいのかわからず、黙っていた。二人の距離は縮まらない。信号待ちでも隣にいるのが憚られ、一定の距離を取る。
三澤さんは振り返ることもせず、ずっと何かを見ていた。そして、私も同じものを見ている。
 三澤さんがどこに行こうとしているか、私には何となく分かった。


 私達は上り坂を歩く。角を曲がって、また上る。三澤さんは上り終わったところで立ち止まった。
 小高い丘の頂上にあったのは、頼りなくも雄々しい、自立した電波塔だった。赤く塗られた金属の筋がいくつも集まって、一つの体を作り上げている。その姿がとても象徴的で、私は息を飲む。下から巨大なライトに照らされていて、今まで何度も見たはずなのに、新鮮さと懐かしさを覚えた。
 私には電波塔自身が光を放っているかのように見える。暖かな光が訪れた者たちを、優しく肯定してくれる。




 私は初めてこの街に来たときのことを思い出していた。
 今の会社に入社するにあたって、私は二十二年過ごした親元を遠く離れて、一人暮らしを始めた。四畳半の部屋は今まで住んでいた家よりもずっと狭くて、どこを見てもすぐ壁に囲まれていて、心細かったのを覚えている。
 引っ越しの段ボールを片付けるのも嫌になって、部屋から出た。駅へと向かう道は、右を見ても左を見ても見られない景色で、私を歓迎してくれてはいなかった。


 下を向いて歩いて、駅に着いた。交通系カードはまだ持っていなかったから、律義に切符を買って電車に乗った。電車は勝手に私を運んでいき、見知らぬ駅へと辿り着く。
 階段を上って地上に出ると、それはいきなり私の目に飛び込んできた。まだ日本一高い建造物だったそれは、私にはどこまでも伸びる植物のように感じられた。


 上り坂を息を切らしながら歩いて、真ん前に立ってみる。精一杯見上げなければ、全容を視界に捉えることのできないそれは、今にも倒れてきそうで怖かったが、一度目を閉じて開けると、ちゃんと真っすぐ、背筋を伸ばして立っていた。私もこんな風に、世界に根を張ることが出来たら、と思った。
 その時からこの電波塔は、この街で暮らす私の、心の拠り所だ。より高い塔が立ち、電波塔としての役目を終えた今も変わらない。変わらずに象徴として私の心に君臨し続けている。




 私の足は勝手に前へと動き、気がついた時には、彼の隣に立っていた。電波塔を見る彼を私は見ている。彼の情念のこもった横顔を通して、かつての自分を見ている。そして、これからの彼も、私がいない将来も、ぼんやりとだが見える気がした。
 彼がこちらを向いた。吸い込まれるような瞳の大きさに、不意に顔を反らしてしまう。

「三澤さん、ごめんなさい」

「ごめんなさいって何がですか」

「担当が変わることを黙っていたこともそうですし、辛い思いをさせてしまってすみません」

「関さんは辛かったですか」

「私は……毎日遅くまで残業していましたけど、辛かったかと言われると…」

 困惑して、視線を下げる。電波塔から発せられる光が足元にまで届いていた。私が立っているという事実を認め、再び顔を上げる。彼は変わらずに私を見ていた。

「僕もそうですよ。第一、これは自分が選んだことだから、辛いことも苦しいことも、全て受け入れなければいけない。言われているうちが、花ですからね」

「三澤さんは、自分で書いたことを後悔は」

「さっきまではしていましたけど、今はしていないです。むしろ、早く次が書きたいとさえ思います。どうしてですかね」

 そう言うと彼は小さく笑った。その笑顔が琴線に触れて、私もさりげなく笑顔を見せる。一本の蝋燭のように立つ電波塔も、また微笑んでいるかのようだった。


 私がだらしなくぶら下げていた左手を、彼は右手で掴んだ。急な接触に動揺したが、すぐに落ち着いた。
 繋がれた手は二人の間に置かれている。私の左の手のひらが彼の右の手のひらに合わさって、ほとぼりを交換しているようだった。指は交互に絡められてはおらず、私の人差し指と中指の間に、彼の中指と薬指が入っている。隙間から体熱が逃げてしまいそうだったが、感情で蓋をして逃がさない。
 彼の一回り大きな手に、私は、私のこれまでを、全力で委ねる。


 手を繋いだまま、二人で電波塔を見ていると、鼻の先に当たるものがあった。感触でそれが雪だと分かる。一片降ったら二片、二片降ったら三片と、雪は少しずつ降る間隔を狭めていた。夜も深さを増し、寒さは厳しさを増す。私の体は。熱を生み出すために振動する。唇は震え、身体は縮こまる。体に力が入っていく。


 震える私の右腕に、柔らかな感触が伝わる。彼は繋いでいた手を解いたかと思うと、右手を、私の右腕に回して掴んだ。彼が力を込めると、私は引力にひかれて、彼のもとへと落ちていく。私の左腕が、今度は彼の右脇腹に触れた。二人の間に距離はなくなっていて、私の体の震えも止まる。全身の力が抜けていくのを感じて、彼の肩に頭を載せる。顔は斜めになっていたのに、目の前の電波塔は恥ずかしげもなく、ひたすら真っすぐに立っていた。
 降る雪が光に溶け出して、見えなくなる。私は、彼のこれからに私がいなくても、今この瞬間だけは本物だと強く信じていた。





 雪が降って、彼女はとても寒そうにしていた。足が小刻みに震え、左手をコートのポケットに入れている。繋いだ手からも、循環する血液が冷やされていくのを、直に感じた。このままだと彼女が、砂糖菓子のように儚く壊れてしまいそうで、俺は右手で、彼女の右腕を掴んで自分の方に寄せた。彼女の体は思っていたよりも軽かったけど、細胞が強固に結びついていて、鉱石のように自分から壊れることはないのだと知る。


 身体を接触させると、服の上からでも、彼女の体温が伝わってくる。俺の体温を差し出して、二つが混ざり合い、三六度の熱が、二人を包み込む。彼女は俺の方に首を載せて、目を閉じた。その穏やかな顔に、俺は自分のこれからを想像する。狭い部屋で書き続ける人生。書き始めては絶望し、書き上げては安堵し、ときには少し立ち止まって振り返る。そこにいる人間を、また前を向かせてくれる存在を、俺は信じて疑わない。
 夜の暗い空に、白い雪の結晶が映えていて、思わず「綺麗」と呟いた。







 電気をつける。白熱灯は少し瞬いて、天井から部屋を明るく照らし、テレビを、本棚を、生活を浮き彫りにする。部屋の中は、外と変わらないくらい寒くて、エアコンのリモコンを手に取り、電源を入れる。早く部屋を暖めるために、温度は普段より二度高く設定する。機械的な温風が頬に当たって、寒気がした。
 窓の外はまだ雪が降り続いている。見るからに大粒になっていて、夜が明けたら積もっているかもしれない。今年に入って初めての雪かきを想像し、少し気分が滅入った。


 脳内を巡るのは今日の出来事。信じられないほどの、ささやかな瞬間。それだけで動機には十分だった。
 まだ書かれていないこと。そんなものがあるのかどうかは分からない。でも今は盲目的に信じてみたい気もする。何かができるはずだと。何かを変えられるはずだと。信じることでしか、始まらないことだってある。

「よし」

そう呟くと、コンピューターの画面を立ち上げ、電源を入れた。コンピューターはジーッという音を立てて、時間をかけて起動し、パスワードの入力画面を表示する。間髪入れずにパスワードを入力する。何百回としてきた行為が、羽化のような特別な瞬間に感じられた。


 コンピューターが、スタート画面を表示する。まだ何もない真っさらな白紙。これからどんな文字に染まるのか。不安もあるが期待の方が大きい。

 キーボードを叩いて、最初の文字を入力する。

 新たな始まりを告げる鐘の音が、鼓膜の奥で鳴り響いた。






 ドアが開いて、入ってきた人物は背が低かった。入念に磨かれた眼鏡の奥に、不安げな表情が覗く。耳元にまでかかった髪が、その童顔に不釣り合いで、初めて訪れるであろう、広さの割に物が少ない部屋に、瞼を忙しく動かしていた。俺が上がってと伝えると、動揺した様子を見せて、動きが不自然になる。でも、ちゃんと脱いだ革靴を丁寧に揃えていた。

 リビングの入り口で立ち止まっている彼に、ソファに座るように言う。彼はすり足で歩き、遠慮がちにソファに腰を下ろした。ソファのあまりの柔らかさに、驚いて振り返っている。その姿に可愛気を感じ、微かに口元が緩んだ。


「飲み物、何飲みたい?俺と同じコーヒーでいい?」

「はい、僕もコーヒーでお願いします」

「砂糖やミルクはいる?」

「僕は大丈夫です」

「大人だね」

 コーヒーパックで淹れたコーヒーを、テーブルに持っていく。彼は緊張しているのか、なかなかコーヒーカップに、手を付けようとしない。俺が飲むように勧めると、俺とコーヒーカップを交互に見て、ようやく口に運んだ。思っていた以上に苦かったようで、顔に皴が寄っていた。

 コーヒーカップを置くと、彼は何やら鞄の中に手を入れ、ごそごそとかき回し始めた。取り出した小さなケースから名刺を一枚抜き取り、ぎこちなく立ち上がる。

「私、この度木立先生の担当をさせていただきます、福原宏正と申します。よ、よろしくお願いいたします」

「うん、よろしく」

 福原君から名刺を受け取り、名前をじっと見る。二年前の出来事が、ふと脳裏に浮かんだ。俺は、それをかき消さない。記憶を名刺の上に載せて、一緒に机に置く。目の前の福原君は、笑ってしまうほど背筋が伸びていた。

「まあ、そんなに緊張せずに、気楽にやろうよ。俺も初めてだしさ、一緒に頑張ってこうぜ」

「は、はい」

 福原君の背筋は伸びたままだ。そのいじらしい姿に、俺はある面影を見た。後ろ姿が、脳裏に蘇る。無理やり開けられたドアが戸惑っていた。
 あれからコーヒーメーカーは、一度も使っていない。今では、キッチンの棚の奥深くにしまわれて、もう出番が来ることはないだろう。

「福原君さ、好きな本ってある?」 

 福原君は返答に困った様子で、手をモジモジと動かしていた。答えが返ってくるのには少し時間がかかりそうなので、俺の視線は横に向く。

 窓の外では、二本の電波塔が、互いを気にする素振りも見せずに、純然と聳えていた。





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