見出し画像

【小説】30-2(1)

 

 目の前を流れる川は、何一つよどみなく滔々と水を海へと送っている。近くの橋の上では、車が断続的に行き交い、傾き始めた太陽が二人の影を長く伸ばし始める。大小の石がゴロゴロと転がる川べりは、とても座り心地がいいとは言えない。

 だけれど、原川恭志(はらかわやすし)は黙って座り、川の流れを聴いていた。いつ来ても変わらない風景が、勉強で疲れた脳と心を癒やしてくれる。

「お前、本当に東京の大学受けんの?」

 原川は隣から発せられた声を、流れる水に混ぜ合わせた。横で座る大庭康太(だいばこうた)の制服の裾が、風に揺られてかすかにはためいている。

「本当だよ。いつまでもこんなとこで燻ってるわけにはいかねぇからな」

 隣に座る大庭とはもう長い付き合いだから、ごまかす必要はない。川の上を名も知らない水鳥が二羽、飛び去っていく。

「そんな、大学なんてどこでもいいだろ。俺たち小中高とずっと一緒だったじゃねぇか。大学も近くんとこ行こうぜ」

「大庭はさ、現状に満足してんの?」

口をつぐんでしまった大庭は、まるでほつれた人形みたいだった。ひどくつまらなく感じて、原川は手元にあった石を無造作に川に投げる。

一回も跳ねずに、小さな音を立てて沈んでいった石。何年もかけて小さくなって、やがて海に辿り着くのだろうと、原川はぼんやりと思った。

「俺は、お前がもっと貪欲な人間だと思ってたよ。こんな田舎に骨を埋めるような生き方、俺はしたくねぇ」

言葉の悪さは分かっていた。だけれど、飾らない本心なのだから仕方がないと、原川は自分に言い聞かせる。

二人の他には誰もいない川べり。ゆっくりと沈む太陽。

しばしの沈黙の後、大庭がおもむろに口を開いた。

「でも、たとえ東京に行かなくても……」



*   *   *



 30までに死ぬ。それが学生時代の私の口癖だった。

 部活にまったくついていけず、友達も一人もできなかった。勉強は少しだけできたものの、それは何の慰めにもならず、私は悲惨な学生生活を送っていた。

 転校しても退学しても、自分は自分で変わらない限り、事態が好転するとも思えず、私は毎日「自分はダメだ、死んだ方がいい」と自分を責めた。

 こんな人生が何十年も続いていくのが本当に嫌で、私は三〇歳を人生の期限に定めた。三〇歳を超えたらもう若くはないし、できないことも増えてくる。それが恐ろしくて、私は三〇歳より先の未来を思い描かないようにしていた。

 思考停止がゴミみたいな現実、そしてそれを作っている自分から、唯一心を守る方法だった。

 地方の私鉄。急行も通り過ぎるような無人駅の近くに、私の住むアパートはあった。

 三〇五号室はワンルーム。床にはペットボトルや衣類が散乱し、ベッドは読み終わった週刊誌や本の置き場になって久しい。二週間前の生ごみが、袋越しでも異臭を放つ。

 今年に入ってから掃除は一回もしていない。とても人を呼べるような部屋ではなかったが、私の部屋に来る物好きなんて一人もいない。だから何の問題もなかった。

 スマートフォンを見ながら時間を潰していた。SNSは読みこみすぎて、もう最新の投稿を表示してはくれない。

 こたつ机の上でちかちかと瞬くパソコン。画面は動画投稿サイトを表示している。

 予約時間は午前〇時。日付が変わったと同時に、私の最新動画が投稿される。家族の些細な営みを描いたホームビデオ風の五分間の映像だ。

 撮ったときには手ごたえがあったし、編集していて思わず涙ぐみそうになったほどの自信作だ。

 酒は飲まない。別におめでたいことでもない。それでも、時を刻むデジタル時計を見ていると、否応なく心臓は早鐘を打ち始める。

 再生回数は普段二桁台で、一回も三桁に上ったことがなかったが、それでも今回だけは違うと、期待を持たずにはいられなかった。

 デジタル時計は六月四日の午前〇時を指した。とうとう来てしまった。私の二八回目の誕生日が。

 子供の頃は諸手を挙げて喜んでいたのに、最近はプレゼントも貰えていないせいか、さっぱりテンションが上がらない。

 何者にもなれず、一つ年を重ねたごとに死に近づいているという実感だけがある。

 学生時代の基準から言えば、私の命はもってあと二年だ。もちろん、それ以前に死ぬという可能性もありえるけれど。

 さて、動画だ。投稿したばかりだから、すぐに再生回数が伸びるはずがない。

 それでも、何度も読みこみ直しても一向に〇回のままなのは、さすがに傷つく。きっとまだ時間が必要なのだろう。

 私はいったんシャワーを浴びることにした。立ち上がる前にふと通知が来ていないかとSNSを覗く。

 だけれど、一件も来ていなかった。私の誕生日を祝うメッセージは皆無で、唯一変わったことと言えば、ホーム画面に風船が飛ぶようになったことだった。陽気さと色鮮やかさに反吐が出る。

 シャワーを浴び終わって、時刻は午前〇時三〇分になった。昨日から怪しかった空はとうとう耐えきれず雨を降らしていて、ベランダに雨粒が跳ねる音がうるさい。

 パソコンを立ち上げて、更新ボタンを押す。すると、再生回数は三回に増えていた。〇と一の違いは大きいが、私にとってはどちらでも同じだ。

 何万回も再生される人気投稿者からすれば、そんなの屁ほどの違いもない。

 だから、たとえ「面白かったです! 次回作も楽しみにしています!」とコメントが来ていても、私は何も感じない。

 このEightというハンドルネームは、私の叔母だからだ。親戚だから見てくれているだけだし、こんな毎回コメントを残されると、ストーカーにすら感じてしまう。

 お前のコメントなんていらねぇんだよと言いたくもなるが、見てもらっているありがたさが弱みに変わって、会ってもいつも言えずにいた。たとえ、そのEightがいつもSNSで、左寄りの政治主張を繰り返していたとしても。

 一時間経ってみても、再生回数は三回から増えることはなく、私は管理画面を開いていた。

 自分で自分の動画の再生回数を増やすほど惨めなことはない。管理画面ならそんなこと気にせずに、いくらでも見ていられる。十数個ある動画の中から、最新動画をクリックして再生する。

『今度の休日、みんなで水族館に遊びに行こうか』

『やったー! パパ、なかなか休めてなかったもんね』

『よかったね、美咲(みさき)。パパのお仕事が一段落ついて。私としてもやっとかって感じだよ』

『ハハハ。そりゃすまなかったな。でも、その分次の休日は思いっきり楽しもうな』

『うん!』

『ねぇ、美咲はどのお魚が好き?』

『えーっとね、イクラ!』

『それは魚じゃなくてお寿司だろ』

 画面の中で家族三人は笑い合っていたけれど、私の顔は石膏で塗り固められたように、びくともしなかった。

 なんだこれは。つまらなさすぎる。

 編集しているときは嬉々としていたのに、いざ客観的に見てみると、こんなにも惨たらしいものなのか。

 作った本人ですら最後まで見られないのだから、何の思い入れもない視聴者の味わう苦痛は計り知れない。

 急に恥ずかしくなって、いっそのこと動画を消してしまおうという思いが頭をよぎったが、それでも私はまだこの動画がバズって多くの人に見られるという、天文学的な奇跡をまだ捨てきれずにいた。

 あってもなくても同じならあった方がいいと自分に言い聞かせて、トップページに戻る。

 するとページの一番上に、新着動画として人気投稿者の最新動画が表示された。

 投稿時間は一時間前で私とさほど変わらない。だけれど、既に一万回以上も再生されていて、容赦なく私の心を折りにくる。

 ここ最近の動画投稿ブームで、若い動画投稿者が一気に増えた。二〇代前半だとか、下手すれば一〇代もいる。彼ら彼女らから見れば、二十八の私はもう立派な年寄りだ。

 以前はこまめに若い世代の動画もチェックしていたのだが、最近はもうそんなエネルギーもない。このまま置いていかれるだけなのだろう。

 私はパソコンを閉じて、こたつ布団に横になった。照明もコンタクトレンズもつけっぱなしだったが、もうどうでもいいと目を瞑る。

 なかなか眠ることができないのは、今日も何もしなかった、よって疲れていないからだと、ふと思った。



(続く)


次回:【小説】30-2(2)|これ|note

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?