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#2 原著と翻訳

斎藤真理子さんインタビュー② 

――翻訳者はまず読者、ということでいえば、一読者として原著を読んだときに「わかる!」と思う作品と、あまりピンとこない作品とがあるんじゃないかと思います。その差が翻訳に影響したりするものでしょうか。

斎藤:全部というよりは、あるページのある台詞が「うわぁすごくわかる」とか「ここすごくリアル!」みたいに思うことってあるじゃないですか。そういう衝動でどんどん読んでいくんだけれど、後になってみるとそのリアルさの意味を取り違えてたなとか、そういうことがありますね。飛び込んでくるような何かを感じることも確かにあるんですけど、読み終わってもその印象が変わらない場合と、まったく変わってしまう場合がある。

――確かに、小説って最初に読んだときと2回目で印象が全然違ったりもしますね。

斎藤:1回目では伏線が分かっていなかったり、別の人物の目線で読むことでまったく違う読み方になる場合もありますよね。ある小説を愛の物語として読むのか、または違う種類の読み方をするかどうか、という点においてもいろいろな方法論がある。本当はそういう、いろいろな方面から見た総合的な立体感みたいなものが出せれば一番いいんでしょうけど、翻訳するにあたって、それは限界があることだと思うのですね。もちろん翻訳者としては、いろんな方向から読んだつもりになって、必死で訳を作り上げるわけですけれど。

――読者目線からすると翻訳の良し悪し、というか、読みやすい翻訳と読みにくい翻訳というものは明確にあると思うんです。一概には言えないでしょうけれど、その違いは、読み込み不足だったりするんでしょうか。

斎藤「この翻訳ちょっとこなれてないな」と感じる場合、翻訳者がよく理解していない場合もあるんだけど、逆に、翻訳者がその文章や本の中身をよく分かりすぎている、愛しすぎている場合もあるんじゃないかと思うんです。当人がその言葉をすごく深く理解して、あまりにも「わかって」しまうので、それを出力したときに日本の読者がどう受け取るかまで考えが及ばないというか。自分の理解があまりにピタッとしていて揺らぎがないからそこに疑問を持たないんじゃないかなと思うんですよね。著者との同一化というのかな、そういう感覚が強くて原文を尊重しようとなさった結果、日本語としてはちょっとわかりづらくなる、みたいなこともあるかもしれない。

――わかってしまうことで、逆にどう変換させれば伝わるか、というところに思いが至りにくくなると。難しいところですね。ただ、わからない方がいろいろな方向から読むきっかけにはなりそうですね。

斎藤:感情移入の仕方も読むたびに変わったりしますし、これと思っていた言葉が、別の方向から光を照らしてみたらあんまりいい言葉じゃなかったなと気がついたりすることもある。なんていうのかな、デッサンするときって何本も線を引くじゃないですか。輪郭をはみ出したり内側に入ったり、そうやって最終的な線が決定されていく。私の場合はそんな感じですね。

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