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日本的翻訳のこと

 だいぶ前の話になるが、シドニー・シェルダンというアメリカの作家の本が日本で売れに売れた時代があった。人生と恋愛と運命をおりこんだサスペンス要素のたかい作品たちだ。私はそのころ埼玉の乗馬クラブのハシゴをしていた。小さな私鉄の駅に、ワンボックスの送迎車がきてくれる。駅から十分かそこらの距離のあいだ、パートタイマーだという主婦ドライバーはいつもいかにシドニー・シェルダンの小説が面白いか語ってくれた。中高年もこぞって翻訳された新作を買い漁っていた時代だ。
 そのシドニー・シェルダンの翻訳本には”超訳”という呼び名がつけられていた。原文を超す訳とは? いかにも原作をないがしらにするような呼称で、ややもすれば翻訳家が物凄いオリジナルな訳を作り出しているような印象さえうけた。

 今年一月、NHKの土曜ドラマ『わげもん』が放送された。約170年まえの長崎通詞の話だ。長崎通辞は出島を舞台とした商取引で活躍した幕府側の人間だった。だれでもなれるというわけではなく、世襲か門下に入って学ぶというシステムらしい。政治的な取引に立ち会うこともあり、駆け引きや取りひきを目にすることもある。私は、ドラマの中で暗に示されていた、外国の言葉に対応する日本語はあらかじめ決められている点が気になった。政府のために働く用人であるため、対訳を厳格にきめ上司も齟齬なく訳の内容を把握するためなのだと私は考えた。翻訳と通訳はちがうが、ここに日本の翻訳における観点の基本があるようなきがする。

 私は翻訳を大学で学んだことはない。通信教育で基礎を、あとは納稿チェックの仕事やネイティブチェック原稿と原文の訳落ちなどがないかのチェックの仕事を十年やりながら、翻訳を勉強し仕事をいただけるようになった。もうすぐ還暦の私たちの世代はそういう経緯で仕事している人は少なくない。仕事としていただけるのは情報系の論文がメインで、言葉選びで世界観をあらわしたりすることはない。仕事のかたわら翻訳サークルや通信教育で小説の翻訳の勉強を続けた。しかし途中でそれはつまらないのはじまりだった。
 コンテストなどにトライするたび、模範訳のつまらなさにがっかりさせられるからだった。もちろんword to wordの初歩的な訳などはないものの、慣用句などは百人一首の上の句と下の句のようにこの単語にはこの訳という決まり事をどこまで踏襲しているか。されど自然なつながりになっているか。それを見せつけられているみたいで、原文の面白さや勢いは、決まりごとを丁寧に追いかけているうちに失われている。模範訳にそえられた全体講評的な内容には訳しすぎの指摘や、句読点や言葉の順番を変えた事への非難がみられた。
 コンテストや学習の場のみならず、実際の業務でも同じような気遣いはみられた。校閲まえのチェックの際、訳者注として原文に指示語でしめされていた言葉を名詞に変えた、とか場所を最初に持ってきた、とか書き込みを多くしている。この現象からかつて翻訳という世界に厳格な決まり事があったことが窺える。

 外国語から翻訳された文章には独特なリズムがある。日本語なのに、しゃべったら絶対に普通じゃないリズムだ。小説となると、原文がどんなはっちゃけた文章でも、しっとりした文章でも、私には同じ翻訳された独特のリズムをもっているように感じる。まるで初期の村上春樹の小説みたいだ。村上氏はかつて翻訳を生業にしていたから当然だ。

 私がシドニー・シェルダンの超訳問題を考えていた頃から、時代は変わった。翻訳の仕事は言葉の専門家の専売特許的な仕事じゃなくなり、論文をメインに分野に精通した人間も手がけるようになった。読みやすく、翻訳の決まりごとを良い意味で踏んでいない文章は柔らかくて主旨があたまに入りやすい。英語の勉強法がずいぶん進化したせいもあるのだろう。piece of cake
を朝飯前と教えてくれる本はなかったし、『ごく簡単なこと』と直されたにちがいない。

 あえて逐語にちかい日本語にして読者に汲み取らせる方法のも一理ありそうだ。いまは誰もが学識をもっているから、固い言葉に訳された言葉のその隙間にながれる作家の意図を『読者が』読める。そうやって外国の思想を読む、というのもありなのかもしれない。
 
 いま『Unbury Carol』という小説を訳している。Josh Malermanのベストセラーだ。自分が楽しむための作業で、人の目に触れることはない。だから踏むべ規則は何もない。書かれた情景を映像に起こし、それを日本語におきかえる。なぜほかでもないその言葉がここで使われたか、なぜ倒置なのか、どうして何度も代名詞をつかわないで呼称が連呼されるのか、ミステリー接するみたいに探りをいれながら楽しむつもりだ。
 読み進むにつれて印象は紫陽花のように色を変えがちだから、完成するころまでに何度全体的な手直しが必要になるか、わからない。
 それでも出来上がったころには、小説の中の出来事を私は脳内でつぶさに観察し登場人物の感情になったことになる。一つの経験だ。知らない土地を旅するのににている。これで5回目の本旅行だ。

 しかし、こうやって、一字一句とその意味と格闘することでやっと作者の意図が自分のものになる私にとっては、翻訳作業自体が『読書』にほかならない。そういうことに、最近やっときづいた。


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