見出し画像

「嫌い」だけど、なぜかやってしまうもの

私は文学が「嫌い」だ。
なんせ、面倒くさい。読むのがだるい。
長い。登場人物が覚えられない。

.

.

.

だが、なぜか引き込まれてしまう。
なぜか「好き」な人並みに、こだわってしまう。

.

.

.

ミュージシャンの平沢進は、ギターが「嫌い」なそうです。本当かどうかは分かりませんがw 実際、彼はシンセサイザーやテスラコイルのような、テクノ寄りの「無機質」な楽器を好んで使っています。しかし、彼の原点がギターやロックミュージックなことを見るに、彼は明らかに「ギター好き」。

なんせ、バリバリのハードロックミュージシャン、「人間椅子」のライブに顔を出しているのですから。(Twitterで本人が呟いていた。)

.

.

.

自分が「嫌い」とは思っていても、客観的に見れば、「好き」も同然。

この矛盾した「好き」「嫌い」の感情は、なかなかにやっかいです。と同時に、面白い!!!

.

.

.

私の専攻は「英語学」という、言語を研究する分野です。
学校のカリキュラムで、それと同時に「アメリカ文学」と「イギリス文学」も受けなければいけません。

私は文学コースに行く気は全くなく、英語学から目線をずらしたことはありません。

そもそも、文学作品の英語は好きじゃありません。詩なんか大嫌い。「いいたいことがあるなら、はっきりいえや!!!!」「分析しなくちゃいいたいことが分からないとか、めんどくさいわ!!!」 曖昧さが文学のよさだ。というのは大いにわかります。ですが、私は「いいたいことはちゃんと言ってくれ!!!」と思ってしまうタチ。

「行間を読む」とありますが、私はそれがまるっきし苦手です。

そのため、私は文学が「嫌い」。KILLER.E

.

.

.

ですが、客観的に見るとそうではない。

イギリス文学の教授は、私に対して「紙が好きそう」というイメージを持っている。イギリス文学。たしかに、ジョージ・オーウェルの『1984』は、未だに大好きだし、エミリー姉妹の作品も大好き。『ジェイン・エア』『嵐が丘』。ヒースクリフとキャシーの愛憎劇。ジェインの強い生きざまと、ロチェスターの悲哀。ビッグ・ブラザーの存在感と、二分間憎悪。二分間憎悪はまじで大好き。二分間憎悪のことだけで、レポートを書いたこともあります。

また、アメリカ文学の教授にも、なぜか好かれてしまっている。専門外で、全然詳しくないのに、なぜだ。たしかに、『アンドロイドは電気羊夢を見るか?』をはじめ、『高い城の男』も大好き。フィリップ・K・ディックが今のハリウッド界に与えた影響ははかり知れません。てか、『高い城の男』なんか、ドラマ版がアマゾンプライムで絶賛配信中ですし。ヘンリー・デヴィッド・ソローの『ウォールデン』も大好き。森のなかで生活して、そこから「シンプルに思考せよ!!!」と訴えかけてくる。アメリカ最古の「ビジネス書」といってもいいくらいに最高な作品。これまた、英語まんまで書かれた原著を一冊読み通し(きつかった)、すごい詳しいレポートを書きました。

.

.

.

「明らかに好きやんけ!!!」そうお思いでしょう。

それでも、私は「嫌い」というスタンスを貫き通したい。

あくまで、私の「好き」は、英語学に向いている。

「嫌い」でも、なおざりにしているわけではない。
「嫌い」なはずの文学でも、授業で話題になったら、興味津々で聞くし、レポートもなぜか、文学を専攻してる人より評価が高いという始末。

おまけに、なぜか「嫌い」なアメリカ文学の教授に頼りにされてしまっている。なんてこった。いい迷惑だ。

アメリカ文学・イギリス文学の卒業研究の発表会。それに参加したのですが(「嫌い」なのになぜ。)、今ちょうど、文学の卒業論文を書こうとしている、本格的な先輩方を尻目に、めちゃくちゃ質問してしまいました。というか、アメリカ文学の教授が、「美川くん何か聞いて!!」と全員の前で催促するもんですから、質問せざるを得ない。結局、なぜか「嫌い」なものに対して、めちゃくちゃ質問して、場の議論を深めてしまいました。どこが「嫌い」なんだか。

.

.

.

あげくの果てには、「嫌い」なアメリカ文学の教授に

「美川くんは、頼りになるよ~ほんと」

と、言われてしまう始末。いや、僕文学「嫌い」なんですけど。

.

.

.

そんなこともあり

「嫌い」なのか「好き」なのか、よくわからなくなりました。

「嫌い」が、「好き」を包み込むような感じ。

ああ、面倒だな。「嫌い」というのは。

おまけに、この記事の書き方が、いつもと違って「嫌い」な文学風の書き方になってしまっている。

「嫌い」なのに「好き」。全く、分からないものですわ。

美川

Please support me