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2024年8月読書記録 神童、安吾、女性たちがたどってきた道

アニー・エルノー『嫉妬/事件』(堀茂樹・菊地よしみ訳・ハヤカワepi文庫)

 エルノーは一昨年のノーベル文学賞受賞者。オートフィクションの作家として知られるそうです。自分の経験を小説にしている作家という意味らしい。日本の作家だと、金原ひとみさんが挙がっていましたが、太宰治などもそうなのでしょうか?
 「嫉妬」は、文字通り、別れても好きな男が今付き合っている女性に対する嫉妬を書いた短編です。ドロドロした感情というよりは、嫉妬に駆られてバカなことをやったり、妄想に駆られたりするのですが、本人は、それを理性に基づいた行動や思考と思いたい。妙に理論的になったりしてーーそれも、狂気によって歪められた理論にすぎないのですが、本人は、そうは思っていない。このあたりの描写は、私にはとても理解できるものでした。感情で動いているのに、自分では、理性的だと思いたい。面倒なタイプ。自分がそうだと自覚のある方や、そういうタイプの女性と付き合ったことのある方には、非常に興味深く読める本だと思います。それ以外の人には、さっぱり理解できない小説かもしれません。

 「事件」は、エルノーが経験したある事件の話ーー今なら、個人的な経験に過ぎないことが、数十年前には「事件」だった。ネタバレになるので書けませんが、小説としての面白さもさることながら、女性が辿ってきた歴史を知るためにも必読の書だと感じました。


カポーティ『ここから世界が始まる』(小川高義訳・新潮文庫)

 カポーティの初期短編集です。短編というよりは、スケッチ・断章などと呼んだ方が良さそうな作品も多かったです。それでもカポーティの卓越した表現力や言葉選びのセンスを十分味わうことができました。村上春樹が解説に書いているように、カポーティの神童ぶりがよくわかります。何度でも繰り返し読みたい一冊になりました。



辺見庸『月』(角川文庫)

 やまゆり園の事件をもとに書かれた小説です。遠藤周作の『海と毒薬』『深い河』を購入した時に、どちらも重い話だから、同じく重い『月』も買うと決めたのですが、『月』の重さは、遠藤作品の比ではなかったです。鬱傾向の人や自責の念が強い人にはおすすめできません。
 やまゆり学園の事件がモデルといっても、犯人を断罪したり、何かしらの救いを提示したりする小説ではないんですね。 見たくないものから目を背ける私たちのありかたを問う文章が続きます。また、すべての人は価値がある=だから、殺人はいけないという理論ではなく、人には価値があるのか? 存在に意味はあるのか? と作者は問いかけます。あいつには価値がないと決めつけることができるほど、あなたには価値があるのですか? と。

 色々考えさせられますし、詩人でもある辺見庸らしく、詩的で美しい文章も多いですが、小説としては、問題意識が表に出すぎのような気もします。それだけ、書かずにはいられなかったのだとは思いますが。そして、そんな風に安全圏に身を置いて、偉そうなことを言う私にも、作者は厳しい眼差を向けるに違いないと感じました。


青空文庫

中島敦  


 教科書に『山月記』が載っていた中島敦の小説を何遍か読みました。なんと33歳で亡くなっているんですね。けっこう老成した作品だと思ったのですが、若いゆえに、あれだけ歯切れ良く、断定調の小説が書けたのでしょうか。
 祖父が儒学者、父が漢文教師という家庭環境なので、『山月記』以外にも、『名人伝』『弟子』『李陵』など古代中国を舞台にした小説が多いんですね。中では、孔子の弟子である子路が主人公の『弟子』が一番面白かったです。孔子を敬愛しながらも、孔子の現実的な考えに歯痒さを覚える子路。孔子の行動を通して、儒教という学問のエッセンスを学べました。まっすぐな子路の生き方にも心打たれます。

 『李陵』は、晩年の小説ですが、李陵と司馬遷、蘇武、三人の男の生き方を書いた作品で、司馬遼太郎の作風を思い出しました。司馬遼太郎のようには、歴史や人を滑らかには扱えていないのですが。夭折しなければ、もっと面白い歴史小説を書けたでしょうに。

 中国の歴史物以外に、中島敦には南島物の作品群があるようです。太平洋の島々が舞台になった小説です。『光と風と夢』は、作家のロバート・ルイス・スティーヴンソンの伝記小説なのですが、主にロバートがサモアで過ごした晩年の日々を描いています(『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』の作者)。質量ともに、「よくまあ、他人の生涯をここまで詳細に書く気になれたなあ」と驚嘆しました。スティーブンソンや南の島に、よほど憧れたんでしょうね。中島敦自身も、パラオに派遣されるのですが、かえって病気を悪化させて、程なく世を去りました。


坂口安吾『白痴』 
 
安吾の作品は、推理小説やエッセイを楽しく読んだ覚えがありますが、『白痴』には圧倒されました。内容も表現も、現代の価値観では多々問題があるのですが、物語に漂う虚無感やニヒリズム、ハードボイルドな雰囲気……。戦時下という極限状態に生きる男と女の愛? 肉欲? 愛と肉欲に違いなんかあるかよ、と安吾に言われそうです。


永井荷風『来訪者』

 ブルースカイで話題になっていたので、読んでみました。荷風の経験した話が下敷きになっているのですが、面白い! パルプノワール風に短いエピソードがつながっていきます。悪者たちの描写も、女性の描き方も、とてもモダンでリアルなんですね。場所をアメリカに移して、コーエン兄弟が映画化して欲しいです。通俗的な筆致の奥から、伝わってくる人間のさが。荷風といえば、江戸情緒とか下町といったことを思い出しますが、フランスに留学したこともあり、海外文学をよく読んだという面もあるのだと実感しました。日本の近代の小説ですが、海外文学、特にクライムコメディやノワール小説などが好きな方にもおすすめしたい作品です。


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