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実は女性描写がうまい作家 森鷗外「最後の一句」 【読書感想文】

 「最後の一句」は1915年に発表された短編小説です。事実に基づく話で、森鷗外は大田南畝の随筆を参照してこの小説を書いたようです。

あらすじ

 元文三年、大坂で船乗り業を営む桂屋太郎兵衛は死罪を命じられる。雇人の言葉に釣られて、顧客に返すべき金を着服してしまったためである。
 太郎兵衛が捕まって以来、妻は塞ぎ込み、夫の刑が決まった時もいつものように繰り言を言って泣くだけだった。一方で、十六歳になる長女のいちは、自分達子どもの命と引き換えに父を助けて欲しいという願書を奉行所に提出した。
 願書を読んだ西町奉行の佐佐又四郎は「上を偽る横着物の所為でないか」と疑うが、大坂城代の太田備中守と相談の上、子ども達を白洲に召し出すことに決めた(横着物とは、図々しくずるい輩のこと)。
 白洲には拷問用の道具が並べられたが、いちは臆することもなく、自分一人の考えで願書を書いたと答えた。願いが聞き届けられたなら、お前達はすぐに殺されて父親の顔を見ることもできないのだぞと念を押されても、「よろしゅうございます」と答えるだけ。ただ、少し間を置いて、「お上の事には間違いはございますまいから」と言い足した。
 奉行達の心には、刃のように鋭い、いちの最後の一句が反響した。結果、太郎兵衛は追放刑に減刑になる。桜町天皇の大嘗会を名目とする恩赦であった。

〈最後の一句〉の破壊力

 先日noteのコメント欄に「子供の頃、一番、記憶に残っていたのは、最後の一句の、いちの言葉でした」という書き込みを頂きました。それに、大学時代、鷗外について話した時にも、ある友達が「鷗外といえば『最後の一句』だよね」と言っていました。

 確かに、無垢な娘の口から発せられた「お上の事には間違いはございますまいから」というセリフの破壊力ときたら。幕府への批判が許されない時代に敢えてお上の無謬性を口にすることは、庶民にでき得る精一杯のレジスタンスだったのかもしれません。
 この小説のもとになる事実については、太田南畝の随筆以外にも十数書で取り上げられているのですが、いちの最後のセリフは鷗外の創作だそうです。

 森鷗外といえば、軍医官の最高位を極めたということもあり、保守的な人というイメージが強い気がします。多分、これが夏目漱石に比べて鷗外の人気が劣る一因でしょう。漱石の方は大学講師の職さえ辞めて、筆一本で生きた人ですから。鷗外の作品を読んでいると、確かに保守的だと感じる部分もあります。しかし、決して批判精神が薄いわけではないとわかる話も多々ありました。具体例は今後挙げていくことにして、この「最後の一句」も、鷗外の批判精神をよく表した作品だと思いました。

いち=孝女ではなく

 小説のもとになった事実を書き記した書籍は、孝子・孝義・賢女等の言葉がタイトルに含まれるものが多く、いちの行動を親への孝行という道徳的観点から見ているのがわかります。特に明治に入ってからの書は、全てが道徳的・修身的なタイトルになっています。
 しかし鷗外は、いちの行為をそれとは違う観点から描いています。

白州を下がる子供らを見送って佐佐は太田と稲垣とに向いて、「生先(おいさき)の恐ろしいものでござりますな」と言った。心の中には、哀れな孝行娘の影も残らず、人に教唆せられた、おろかな子供の影も残らず、ただ氷のように冷ややかに、刃のように鋭い、いちの最後のことばの最後の一句が反響しているのである。元文ごろの徳川家の役人は、もとより「マルチリウム」という洋語も知らず、また当時の辞書には献身という訳語もなかったので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衛の娘に現われたような作用があることを、知らなかったのは無理もない。しかし献身のうちに潜む反抗の鋒は、いちとことばを交えた佐佐のみではなく、書院にいた役人一同の胸をも刺した。

 鷗外は、いちの行為を「献身」という、時代を超越した精神の表れとして描いているのです。つまり、「最後の一句」は歴史小説の形式をとってはいるものの、近代的な小説なのだと感じました。鷗外は、同時代を生きる女性達のためにこの小説を書いたのではないでしょうか。

女性を描くのがうまい作家

 鷗外の小説を読んで、意外だったことがいくつかあります。その一つが「鷗外って、女性を描くのがうまい!」ということです。「舞姫」の作者に対してそんな感想を持つなんて、想像もしませんでした。
 個人的に、人が描けていない小説には興味がないのですが、その中でも、男性の描写の方はそれらしく書いてあれば、「なるほど、そんなものなのか」と割とあっさり受け入れています。私自身が女で、男性についてよくわかっていないという自覚があるためです。まあ、女性のことだって本当はわかっていないのかもしれませんが、男性作家が描く女性に嘘っぽい部分があると、「そんな人もいるのかな」とは思えずに、「人間が描けない作家だなー」と感じて興味をなくしてしまうのです。
 そんな私にとって、女性を描くのがうまい男性作家といえばトルストイと谷崎潤一郎なのですが、森鷗外も、描いた女性の数は少ないものの、彼らと同レベルの女性描写力があると感じました。
 同時代小説なら「半日」「青年」「雁」。三作とも「こういう人、いる!」と感じる女性が登場します。どの女性も欠点があるものの、魅力的に描かれています。それは作者の鷗外が、欠点も含めて、女性をありのままに受け入れていたためではないかと思います。女性は◯◯であらねばならぬという固定観念がなかったのでしょうね。
 歴史小説では、「最後の一句」のいちと「山椒大夫」の安寿。いちは父を救うため、安寿は弟を逃すために自分の命を命を犠牲にすると決めます(いちの場合は、犠牲にせずに済みますが)。十六歳のいちと十四歳の安寿。確かにその年頃の少女には、良くも悪くも自分の決めた道を突っ走る無垢なひたむきさがある気がします。少なくとも、鷗外の小説を読んでいる間は、彼女達の行動に全く違和感がありませんでした。いちも安寿も、自分の頭で考えて、自分で全てを決めています。彼女達が自らの生き方を自分で選んだことが伝わってきました。

まとめ

 森鷗外は、イプセンの戯曲「人形の家」を訳しています。夫から愛されていると思っていたのに、実は人形のように可愛がられていただけだと悟って家を飛び出す女性の話です。しかし、鷗外と同時代の女性にとって、家を飛び出すという選択肢はあまりにも非現実的でしょう。家父長制のもと、女性だけでなく戸主や長男以外の男性にもほとんど自由がなく、定まった人生を送るしかない時代でしたから。

 現代でさえ、何のしがらみもなく自由に生きている人はどれだけいるのか。命を犠牲にするような極端なことはなくても、我慢を強いられたり、犠牲を払ったりすることが多い日々ではないでしょうか。でも、たとえ人のために自分を犠牲にするような日々であっても、自分で選び取ったものならば、それは尊い生き方なのだ。ーーいちや安寿の物語を通して、森鷗外がそう語りかけているように思えました。

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