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「ドライブ・マイ・カー」と「ワーニャ伯父さん」/チェーホフと太宰治 【読書感想文】

アントン・チェーホフ

 アントン・チェーホフは19世紀末に活躍した作家で、短編と戯曲が有名です。笑いとかなしみを描くのがうまい作家ですが、比較すれば、短編小説は笑い、戯曲はかなしみの比重が大きい気がします。
 代表作が手軽に文庫で読めること、歴史的・宗教的背景を知らなくても理解しやすいことなど、海外文学に馴染みがない方にもおすすめの作家だと思います。

「ドライブ・マイ・カー」と「ワーニャ伯父さん」

 先日読んだ村上春樹さんの短編小説「ドライブ・マイ・カー」には、チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」が出てきました(作中では、英語風に「ヴァーニャ伯父さん」という表記になっています)。舞台を明治時代の日本に移した翻案劇を、小説の主人公である家福が演じるという設定です。家福は劇場に向かう車の中で、カセットテープに合わせて自分の台詞を読み上げます。それを毎日聞いていた運転手のみさきは、興味を惹かれて「ワーニャ伯父さん」を読む。みさきが「ワーニャ伯父さん」を読んだと知って、家福はつい心の奥にある澱んだ記憶(妻と寝た男を懲らしめようとした話)を打ち明ける気になったのかもしれません。

 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督が昔仰っていた「人はかなしみでしかつながれない」という言葉が好きです。かなしみを心の奥底に秘めた家福とみさきも、チェーホフの戯曲を介してつながることができたのではないかと感じました。

「斜陽」とチェーホフ

 初めてチェーホフの作品を読んだのは高校生の時でした。太宰治の「斜陽」の影響です。太宰の私小説には興味がないのですが、「斜陽」は結構好き。戦後の混乱期に没落していく華族の一家を描いた小説で、主人公・かず子の弟と、かず子が関係を持つ作家・上原に太宰本人が投影されている気がします。かつての地主が没落して…という話は、チェーホフの「桜の園」と同じです。太宰自身「桜の園」の日本版を書きたいと言っていたのだとか。

 印象深かったのは、かず子が手紙で上原を呼ぶ時の愛称――「M.C」です。最初は、「マイ・チェーホフ」の略だったのが、「マイ・チャイルド」の略に変わり、小説の最後には「マイ・コメディアン」の略になります。かず子にとっての上原が尊敬する作家から我が子のような存在へ、そして最後には哀しきピエロのような存在に変わったということなのだろうかと高校生の私は考え、チェーホフに興味を持ったのです。

 そこで早速図書室でチェーホフの本を借りたのですが、当時好きになったのは、短編小説でした。筋という筋もない作品が多く、技巧で読ませるわけでもないのに、読み出すと止まらない、作品世界に入り込んでしまうような魅力がありました。

 でも、戯曲の方は、正直、あまり好きではなかった。予め負けている登場人物達が好きになれなかったのです。上から目線で彼らを疎んだわけではなく、私自身、過干渉な母親や裕福すぎる級友達に囲まれて逃げ場のない状態だったので、戦いもせずに負けを選んでいる(と私には思えた)彼らの中に自分を見るのが嫌だったのだと思います。

光文社古典新訳文庫のチェーホフ

 光文社古典新訳文庫が発刊された時、「カラマーゾフの兄弟」が話題になりましたが、個人的には、ゴーゴリの「鼻/外套/査察官」が衝撃的でした。昔、図書室の古い訳で読んだ時には「ふーん」という感じだったのに、新訳ではとにかく面白くて。訳によって、こんなに印象が変わるのかと驚きました。それがきっかけで学生時代に古い訳で読んだ作品を新訳で読み直すようになったのですが、その中にチェーホフの「桜の園/プロポーズ/熊」「ワーニャ伯父さん/三人姉妹」もありました。
 今度は、どの作品も楽しめました。新訳のおかげも大きいですが、年を経て、チェーホフの書く、ままならぬ人生をひっそりと生きていく人達への共感が増したのもあります。以前はかなしみや絶望しか読み取れなかったシーンに、微かな希望があることにも気付きました。

 ワーニャ伯父さんやソーニャのような人達を愛情を込めて書いた作家がいて、百年後にも彼の作品を読む人がいる。そう考えるだけで、見える景色が違ってくるような気がします。

 
 

#海外文学のススメ


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