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上野の森で悲劇の画家の最高傑作を見る 「国宝 東京国立博物館のすべて」 後篇

 トーハクの国宝展で一番見たかったのが、渡辺崋山の「鷹見泉石像」です。田原藩の家老、蛮社の獄で自死に追いやられる政治家としての崋山のことは前から知っていて、尊敬もしていたのですが、画家としての崋山には興味がありませんでした。浮世絵以外の日本の絵に興味がなく、江戸時代の文化についてもよく知らなかったので、「家老なのに、絵まで描いていたなんてすごい」程度の認識だったのです。

 それが、森鷗外の史伝小説『渋江抽斎』と『伊澤蘭軒』を読んで、江戸時代後期に活躍した崋山のような文人に興味がわき、彼らのことをもっと知りたくなりました。

 辞書で文人という言葉を調べると、「詩歌や書画など文芸をたしなむ人」とあります。
 森鷗外の史伝小説やそのあとに読んだ中村真一郎さんの『頼山陽とその時代』をもとに江戸時代後期の文人像を考えると、いくつかの特徴が浮かび上がってきます。
 一つは、彼らの教養の核に、儒学ーー特に幕府公認の学問だった朱子学があるということです。蘭学者として有名な人でも、まずは儒学を学んでいます。
 儒学を修めるには、漢文の知識が必要ですから、漢文を学び、そこから、漢詩を書くようになる。当時の教養人なら、誰でも漢詩を書けるという感じだったようです(江戸時代末期に生まれた夏目漱石や森鷗外も多くの漢詩を残しています)。
 また、書道や絵画、篆刻なども漢詩に関わる教養として好まれました。短冊に自作の漢詩を書き、それに自作の絵を添えて掛け軸にするといったことが教養人の間で流行していたのです。

 田原藩士の家に生まれた崋山の場合も、子どもの頃から絵の才能を認められていたものの、だからといって、絵ばかり描いていたわけではなく、朱子学を学んでいますし、漢詩や和歌、書にも優れていました。文人という肩書きがふさわしい人だったと思います。
 
 また、崋山は幕府の学問所だった昌平黌やいくつかの私塾で学んでいますが、これも江戸時代の文人によくあることです。芸術家が枠にはまった教育を受け、優等生的なポジションに立つというのが何となく不思議なのですが、江戸時代にはそれが普通だったようです。当時は、座敷牢がある社会なので、枠にはまらない人は割とあっさり座敷牢に入れられてしまうんですね。最近、島崎藤村の自伝小説と太宰治がモデルの小説を読んだのですが、この二人のような社会に適応できない芸術家は、江戸時代なら間違いなく座敷牢行きだと思います(藤村の父親は実際に座敷牢で亡くなっています)。
 
 昌平黌や私塾での実績をもとに、農民や町人の息子が藩に雇われたり、下級藩士が加増されたりするのもよくあることでした。
 崋山も、それほど高い身分ではなかったのに、藩主一家のそばに仕え、のちに家老にまでなるわけですから、教養が立身出世に役立ったのでしょう。「お金に困らない身分にはなれたが、芸術につかう時間が限られてしまう」と考えていたかもしれませんが。または、武士として生まれたからには、藩に仕えるのは当然だと思っていたのか。いずれにしても、軍医と作家を兼ねていた森鷗外が、彼らのような兼業文人にシンパシーを持つ理由が何となくわかります。


 絵画以外の芸術にも才能があり、芸術と家老の仕事を両立させる。ーーここまでは、絵の才能が突出しているにしても、崋山は、江戸時代後期の文人の典型例と言えそうです。絵を描く家老、漢詩を書く家老は崋山の他にもいますし、文人大名と呼ばれる人さえいるので、文人の中で崋山の身分が特に高いわけでもありません。
 崋山が他の文人たちと違うのは、能吏という枠を超えて政治にコミットしたことです。


 森鷗外が史伝小説に書いた渋江抽斎や伊澤蘭軒は、医師・儒学者として有能で、将軍に拝謁したほどですが、社会や政治にはあまり興味がなさそうです。これは何も鷗外がそういうタイプの文人を選んだわけではなく、大部分の文人は彼らと同じく、有能ではあっても、職務以外には興味を持っていなかったようです。政治家ではなく、官僚向きの人が多かったのでしょう。

 それに対して、崋山は飢饉を憂い、海防問題に心を寄せて、憂国の志を同じくする人たちと語らうようになります。学識の深さや人格から、仲間内の指導者とさえみなされるようになっていたのです。
 崋山が罪を得た蛮社の獄については、背景等今も諸説あるようですが、小藩の家老である崋山が政治の中枢に近づきすぎたために起きた悲劇だったのは間違いないでしょう。
 地元・田原で蟄居する崋山の困窮ぶりを見かねた弟子が、江戸で崋山の絵を売って生活費を作ろうとしてーーそのことが幕府に問題視されていると噂になり、藩に迷惑をかけるよりはと、崋山は自ら命を絶ちます。後に国宝に選定されるほどの絵を描いた画家としてではなく、田原藩士として、崋山は死んでいったのです。

 さて、画家としての崋山ですが、肖像画を始めとして、風景画、花や鳥の絵、風俗画など、幅広いジャンルの絵を描いています。残念ながら、崋山の絵を見るのは今回が初めての上に、日本画の知識に欠けるため、解説を書けないのですが、代わりに、肖像画のモデルになった人たちについて少し触れてみます。

 これが今回見た、国宝の「鷹見泉石像」です。作成時期が最も新しい(1837年)国宝としても有名ですよね。従来の文人画の様式に陰影法や遠近法など西洋画の技法を取り入れた作品だそうです。
 儒学を基礎教養とするだけに、西洋文明を嫌う文人もいましたが(例えば、伊澤蘭軒の息子は、将軍の奥医師として汽船に乗るのを拒否するほどの西洋嫌いでした)、崋山は、内心開国派だったので、積極的に新しい文化を取り入れていたんですね。文人たちの話を読むと、江戸時代後期には、オランダを中心に西洋文化がかなり流入していたのがわかります。ほぼリアルタイムでナポレオンの生涯を漢詩に書いたり、オランダ風の筆名を使ったり……。
 この絵のモデル、古河藩の家老・鷹見泉石も、ヤン・ヘンドリック・ダップルというオランダ名を持っています。泉石の業績で有名なのは、『雪華図説』です。これは、古河藩の藩主・土井利位が雪の結晶を顕微鏡で観察した記録なのですが、泉石はこの本の編集に携わりました。この本の影響で、江戸では雪華模様の着物が流行したそうです。

『雪華図説』

 重要文化財の「佐藤一斎像」。一斎は岩村藩士から昌平黌の総帥になった儒者&漢詩人です。崋山の師であり、幕末に活躍した佐久間象山や横井小楠も一斎に学んでいます(河井継之助は孫弟子)。一斎は蛮社の獄の時に崋山をかばわなかったために、評判を落としたのだとか。中村真一郎さんは一斎の肖像画について「崋山描く一斎の顔は、何か偏執的に思いつめているような気味の悪さがあり、神経質で身を守ることに汲々としている、病的な人物を彷彿とさせる。」と書いています(『頼山陽とその時代』より引用)。師に裏切られることを予見しているような絵にも見えます。

 この二人以外にも、崋山は多くの文人の肖像画を描いており、当時の文人たちの交際範囲の広さを感じさせます。


 トーハクの所蔵品は非常に多いので、いつその作品が展示されるのか、なかなかわかりません。今回、国宝展で崋山の絵を見ることができてラッキーでした。崋山の絵の展示は11月13日までなので、ご覧になりたい方は早めにチケットをお取りになって下さいね。


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