カフカ『変身』など
近いうちに、村上春樹さんの長編小説『海辺のカフカ』の感想を投稿する予定なので、その前振りとして、カフカの小説について少し書いてみます。
上の引用にあるように、『海辺のカフカ』の主人公と大島さんは、カフカの短編の中では『流刑地にて』が一番好きなようです。
これはちょっと、変化球の答えかもしれません。『流刑地』も好きですが、普通はカフカといえば『変身』…十代の頃、私が一番好きだったのも『変身』でした。
十代の頃は、谷崎潤一郎の『細雪』、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』のような明るい雰囲気の小説と憂鬱な雰囲気の小説、どちらも愛読していました。真面目な優等生でありながら、「何とかして、この世界から抜け出したい」とあがいてもいたので、正反対の小説に惹かれたのかもしれません。
憂鬱な雰囲気の小説ーー例えば、芥川龍之介の『歯車』を始めとする後期の小説とか。読みながら、孤独と閉塞感で押しつぶされそうになる物語です。ただ、当時の私は小説の主人公=芥川と考えていたので、自分が押しつぶされるというよりは、芥川の経験を追体験するような感覚でした。自分と同化するには、芥川という存在は大きすぎました。
サリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日』という短編も好きでした(短編集『ナイン・ストーリーズ』のなかの一編)。新婚旅行の最中なのに、周囲との違和感でピリピリしている青年が主人公なんですね。サリンジャーの小説らしく、無垢な少女と話す時だけ心が安らぐ。「今日はバナナフィッシュにうってつけの日だ」と女の子と話していたと思ったら、小説の最後で、主人公は拳銃自殺を遂げてしまいます。何とも唐突で…その唐突さが心地良く、繰り返し読んで、主人公の拳銃自殺を追体験したものです。あくまでも、追体験するだけですが。自分が自殺などしないのはわかっているので。
ところが、カフカの『変身』だけは、主人公のザムザと自分を重ねることができました。他人の物語ではなく、私自身の物語のように思えたのです。
ザムザは、ある日突然、虫に変身してしまいます。
村上さんの小説の主人公は、カフカの『流刑地にて』について、こんな風に語っています。
この文章を読んだ時、これは『変身』にも言えることではないかと感じました。虫になったザムザについて詳細に語ることで、ザムザの置かれている状況を説明しているのではないかと。
ザムザの状況…虫になってしまったのに、ザムザの頭には「早く支度して、仕事に行かなきゃ」という思いしかないんですね。親に心配をかけたくないから。両親は、息子が自分の部屋から出てこないだけで(虫になってしまったので、出ていけないのですが)、「あの子はなぜ今日に限って仕事に行かないの?」とハラハラして縮こまってしまうような、どうしようもなく小市民的な人たちです。どうでもいい、何ら本質的ではないことばかりベラベラとしゃべりまくり、息子の気持ちなんて知ろうともしない。
うちの親もこうなるんだろうなと思いながら、小説を読んだものです。うちの親も、娘が虫に変身したことより、娘が学校に行けないことを気にするのだろう…。
というよりも、今だって、虫に変身したのと同じ。親には何もわかってもらえず、自分の部屋を這うことしかできないんだから。
そんな風に思っていました。
その後、私は家を出て、真面目な優等生という仮面を脱ぎ捨てることができたので、十代の頃に愛読していた憂鬱な作品とは距離ができました。
芥川の作品もサリンジャーの短編も今でも好きですが、作中の出来事を追体験するような、あのヒリヒリした感覚はもう持てません。
特に『変身』は、あまりにも自分に引きつけすぎていた分、読み直すのにためらいがありました。初恋の人と会いたくない気持ちと同じかもしれません。
でも、2007年に光文社から新訳が出た時、何となく、読んでみようかなという気になったんですね。
読んでみると、新たな発見がありました。十代の頃はザムザと親の関係にフォーカスしていたのが、社会人になってから読むと、ザムザと仕事の関係の方が気になりました。ザムザは、今で言う「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」に縛り付けられています。ザムザの心理描写や親と職場の上司が交わす会話の一つ一つが、仕事のクソどうでもよさを表していました。
そんな風に読み方が変わったのは、私自身も、望まぬ仕事に縛り付けられていたからなのですが。ザムザと距離ができたと思っていたら、別の意味で再びザムザに共感することになったわけです。
親との関係にも、仕事との向き合い方にも閉塞感があるザムザ。でも、新訳を読むと、押しつぶされそうな気持ちが次第にゆるみ、ザムザの悲劇的な状況におかしみさえ覚えてしまうのです。部屋から出られず、床や壁を這い回ることしかできないザムザの姿を想像しながら、クスッと笑ってしまったほどでした。
この受けとめ方の変化は、一つには、私自身が年をとって、物事を客観視できるようになった所以でしょう。
でも、もう一つ、翻訳者と作品の向き合い方が変わったから、という理由もある気がします。『変身』の翌年に出版されたカフカの『訴訟』新訳の解説には、「おどろおどろしいカフカはもう卒業!」とあります。
この引用は『訴訟』について書かれていますが、カフカの作品はどれも、「不条理」「不安」「絶望」といったキーワードで解釈されることが多かったと思います。翻訳もその解釈に基づいたものだったので、十代の頃に『変身』を読んだ時には、物語に含まれたユーモアやおかしみを感じることができなかったのかもしれません。
苦しみや不安、閉塞感と、おかしみが同居するカフカの作品を読めば、『海辺のカフカ』への理解も深まりそうですね。
『海辺のカフカ』の主人公が好きな『流刑地にて』にも新訳があります。手軽に読みたい時には、青空文庫の翻訳を。少し古いですが、十分読める訳だと思います。
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