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カフカ『変身』など

 近いうちに、村上春樹さんの長編小説『海辺のカフカ』の感想を投稿する予定なので、その前振りとして、カフカの小説について少し書いてみます。

「もちろん君はフランツ・カフカの作品をいくつか読んだことはあるんだろうね?」  
僕はうなずく。「『城』と『審判』と『変身』と、それから不思議な処刑機械の出てくる話」
「『流刑地にて』」と大島さんは言う。「僕の好きな話だ。世界にはたくさんの作家がいるけれど、カフカ以外の誰にもあんな話は書けない」
「僕も短編の中ではあの話がいちばん好きです」

村上春樹『海辺のカフカ』より

 上の引用にあるように、『海辺のカフカ』の主人公と大島さんは、カフカの短編の中では『流刑地にて』が一番好きなようです。
 これはちょっと、変化球の答えかもしれません。『流刑地』も好きですが、普通はカフカといえば『変身』…十代の頃、私が一番好きだったのも『変身』でした。

 十代の頃は、谷崎潤一郎の『細雪』、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』のような明るい雰囲気の小説と憂鬱な雰囲気の小説、どちらも愛読していました。真面目な優等生でありながら、「何とかして、この世界から抜け出したい」とあがいてもいたので、正反対の小説に惹かれたのかもしれません。
 憂鬱な雰囲気の小説ーー例えば、芥川龍之介の『歯車』を始めとする後期の小説とか。読みながら、孤独と閉塞感で押しつぶされそうになる物語です。ただ、当時の私は小説の主人公=芥川と考えていたので、自分が押しつぶされるというよりは、芥川の経験を追体験するような感覚でした。自分と同化するには、芥川という存在は大きすぎました。

 サリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日』という短編も好きでした(短編集『ナイン・ストーリーズ』のなかの一編)。新婚旅行の最中なのに、周囲との違和感でピリピリしている青年が主人公なんですね。サリンジャーの小説らしく、無垢な少女と話す時だけ心が安らぐ。「今日はバナナフィッシュにうってつけの日だ」と女の子と話していたと思ったら、小説の最後で、主人公は拳銃自殺を遂げてしまいます。何とも唐突で…その唐突さが心地良く、繰り返し読んで、主人公の拳銃自殺を追体験したものです。あくまでも、追体験するだけですが。自分が自殺などしないのはわかっているので。

 ところが、カフカの『変身』だけは、主人公のザムザと自分を重ねることができました。他人の物語ではなく、私自身の物語のように思えたのです。
 ザムザは、ある日突然、虫に変身してしまいます。

「カフカは僕らの置かれている状況について説明しようとするよりは、むしろその複雑な機械のことを純粋に機械的に説明しようとする。つまり……」、僕はまたひとしきり考える。「つまり、そうすることによって彼は、僕らの置かれている状況を誰よりもありありと説明することができる。状況について語るんじゃなく、むしろ機械の細部について語ることで」

村上春樹『海辺のカフカ』より

 村上さんの小説の主人公は、カフカの『流刑地にて』について、こんな風に語っています。
 この文章を読んだ時、これは『変身』にも言えることではないかと感じました。虫になったザムザについて詳細に語ることで、ザムザの置かれている状況を説明しているのではないかと。
 ザムザの状況…虫になってしまったのに、ザムザの頭には「早く支度して、仕事に行かなきゃ」という思いしかないんですね。親に心配をかけたくないから。両親は、息子が自分の部屋から出てこないだけで(虫になってしまったので、出ていけないのですが)、「あの子はなぜ今日に限って仕事に行かないの?」とハラハラして縮こまってしまうような、どうしようもなく小市民的な人たちです。どうでもいい、何ら本質的ではないことばかりベラベラとしゃべりまくり、息子の気持ちなんて知ろうともしない。
 うちの親もこうなるんだろうなと思いながら、小説を読んだものです。うちの親も、娘が虫に変身したことより、娘が学校に行けないことを気にするのだろう…。
 というよりも、今だって、虫に変身したのと同じ。親には何もわかってもらえず、自分の部屋を這うことしかできないんだから。
 そんな風に思っていました。

 その後、私は家を出て、真面目な優等生という仮面を脱ぎ捨てることができたので、十代の頃に愛読していた憂鬱な作品とは距離ができました。
 芥川の作品もサリンジャーの短編も今でも好きですが、作中の出来事を追体験するような、あのヒリヒリした感覚はもう持てません。
 特に『変身』は、あまりにも自分に引きつけすぎていた分、読み直すのにためらいがありました。初恋の人と会いたくない気持ちと同じかもしれません。
 でも、2007年に光文社から新訳が出た時、何となく、読んでみようかなという気になったんですね。
 読んでみると、新たな発見がありました。十代の頃はザムザと親の関係にフォーカスしていたのが、社会人になってから読むと、ザムザと仕事の関係の方が気になりました。ザムザは、今で言う「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」に縛り付けられています。ザムザの心理描写や親と職場の上司が交わす会話の一つ一つが、仕事のクソどうでもよさを表していました。
 そんな風に読み方が変わったのは、私自身も、望まぬ仕事に縛り付けられていたからなのですが。ザムザと距離ができたと思っていたら、別の意味で再びザムザに共感することになったわけです。

 親との関係にも、仕事との向き合い方にも閉塞感があるザムザ。でも、新訳を読むと、押しつぶされそうな気持ちが次第にゆるみ、ザムザの悲劇的な状況におかしみさえ覚えてしまうのです。部屋から出られず、床や壁を這い回ることしかできないザムザの姿を想像しながら、クスッと笑ってしまったほどでした。
 この受けとめ方の変化は、一つには、私自身が年をとって、物事を客観視できるようになった所以でしょう。
 でも、もう一つ、翻訳者と作品の向き合い方が変わったから、という理由もある気がします。『変身』の翌年に出版されたカフカの『訴訟』新訳の解説には、「おどろおどろしいカフカはもう卒業!」とあります。

「不条理」「不安」「絶望」。深刻ぶったこれまでの『審判』を洗い直してみると、軽やかで、喜劇のにおいがする『訴訟』だった。平凡な市民が共感する日常的な心理やユーモアを搭載した長編小説の試み。

 この引用は『訴訟』について書かれていますが、カフカの作品はどれも、「不条理」「不安」「絶望」といったキーワードで解釈されることが多かったと思います。翻訳もその解釈に基づいたものだったので、十代の頃に『変身』を読んだ時には、物語に含まれたユーモアやおかしみを感じることができなかったのかもしれません。

 苦しみや不安、閉塞感と、おかしみが同居するカフカの作品を読めば、『海辺のカフカ』への理解も深まりそうですね。


『海辺のカフカ』の主人公が好きな『流刑地にて』にも新訳があります。手軽に読みたい時には、青空文庫の翻訳を。少し古いですが、十分読める訳だと思います。


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