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川端康成『みずうみ』 【読書感想文】

 私が中学受験をした時には、日本人のノーベル文学賞受賞者といえば川端康成しかいなかったので、『伊豆の踊り子』が必読図書でした。
 確かに小学生でも読める作品でしたが、あまり印象に残りませんでした。
 関東在住の友人たちは、この本を読んで天城峠に行ったりしたようですが、関西人の私にとっては、伊豆なんて、全くなじみのない場所ですし。

 その後、中学生の時に『雪国』と『古都』を読みましたが、私には縁のない作家だという気持ちが強くなっただけでした。日本的な美しく繊細な世界なんて興味ないよという時期でしたから。
 森鷗外の『山椒大夫』もそうですが、川端康成の有名作は、内容が易しいだけに、小中学生でもわかった気になってしまうのが、かえって良くないのかもしれません。

 ところが、先日読んだ中村真一郎さんの『この百年の小説』には、川端康成の作品がいくつも取り上げられているんですね。多分、中村さんが川端ファンなのだと思いますが、すごく読みたくなる解説ばかりで。特に気になったのが『みずうみ』の解説でした。

(『みずうみ』は)多くの若い作家たちの実験しつづけて来た「意識の流れ」の見事な成功である。この偏執的な中年の男は、もし外面から描かれたとしたら、その醜悪さによって眼を覆わずにはいられないだろう。しかし、意識の流れの手法を、極めて日本的抒情的に改変して使用したことによって、彼の情念は透明な美しいもの、永遠の女性への讃歌のようなものに変っている。

中村真一郎『この百年の小説 人生と文学と』(講談社学芸文庫)より

 この文章にあるように、『みずうみ』は「日本的抒情的に改編された意識の流れの手法」が取り入れられた作品だと思いました。欧米の(プルーストのような)意識の流れ手法を使ったモダニズム小説では、追想(記憶)がどれだけ広がろうとも、現実と夢幻の境目がわからなくなるようなことはありません。でも、『みずうみ』では、主人公の回想が現実に根付くものなのか、妄想なのか、書かれていることのどこまでが現実で、どこまでが妄想なのか…全て曖昧なんですね。その曖昧で美しい世界に引きずり込まれて、妖しい夢を見ている気持ちになります。
 と思うと、突然客観的な神の視点が出てきたりもして、作者が途中で投げ出したのかな? と思ってしまうほどですが、未完成で粗があることがかえって作品の魅力であるようにも感じられました。


 また、主人公の男の性的嗜好は、谷崎潤一郎の小説に出てくる男たちとも少し似ているのですが、谷崎の場合、どれだけ倒錯した愛が書かれていても、最終的には、私自身に回帰できる気がします。先日、noteでフォローしている方が「谷崎の小説を読むと、夫婦の在り方について考えさせられる」と書いておられましたが、まさにそんな感じ。異端の愛を書きながらも、いちいち腑に落ちる普遍的なものがある作家です。

 それに対して、川端康成の『みずうみ』で書かれる愛を、女である私が自分に引きつけて受けとめることは絶対にないーーそれどころか、冷静に考えれば、嫌悪感さえ覚えるタイプの感情なのですが、それなのに、魅入られたように読んでしまう。谷崎とは異なる力がある作家ですね。

 川端康成には、『みずうみ』のような小説が他にもあるようなので、また読んでみたいです。まずは、ガルシア=マルケスに影響を与えたという『眠れる美女』を読もうかな。


*川端康成の作品は、青空文庫にないのか…と思って調べたら、著作権の保護期間が伸びたので、1968年以降に亡くなった方は、青空文庫に入れられないんですね。川端康成は文庫本で買えるので問題ないけど、絶版or全集などの高額本でしか読めない作家は、人目に触れる機会が減りそう。青空文庫で読んで、もっと知りたくなって紙の本や解説書を買うパターンって結構あると思うのにな…。

 
 
 


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