みんなより一人が好きなのは赤より青が好きなのと変わらない

高校生のときに最も辛かったのは、みんなで輪になってお昼ご飯を囲む時間だった。

そのドーナツおいしいよねとか、あのカップルはまだ2人だけでご飯を食べているとか、次の授業の宿題がまだ終わっていないとか、終わっていないなら素早く食べてやればいいわけだが伝えたら面倒臭そうなので愛想笑いでその場のやり取りをしのぎ、そして恐ろしく箸の進みが悪い。


大人になってからも、人と一緒にご飯を食べにいくと言うのはよほど会いたいと思える人でないと気が進まない。

一緒にご飯を食べないというと、とても人付き合いの悪い人として敬遠される。飲み会においても同様のことが起こる。日本の職場において難しいのは、この敬遠されたことでその後の仕事にも影響が出るということだ。あの人は会社の仲間に対しての愛情が薄いとまで言われる。付き合いが悪いことは陰口や噂話の対象になることすらある。

休み時間が一時間あるなら、一時間のうち10分か15分くらいしかご飯を食べるのにはかからない。その他の時間に昼寝をしたり、勉強をしたり、本を読んだりすれば社会人でもそれなりの積み上げができるものだ。しかし、みんなで食べるとなるとそうはいかない。なかなか隙間の時間を生み出すことができないという人は、もしかしたらこの集団を強要する空気に飲まれてしまっているのかもしれない。

毎年受験期になると受験生からこんな話を聞く。「学校の休み時間に勉強していると友達にテキストを取り上げられます。」「問題を早く解き終わったので別の勉強をしていると、先生に怒られます。見直しをしてあるのに見直しをしなさいと言われます。」「移動教室のときに一緒に移動するのを断って勉強していたら、ガリ勉だって言われました。」授業でもみんなと同じように、分かっている人もそうでない人もニコニコ愛想よくうなづいていることが求められている。こうして実際の理解度とはかけ離れた、無意味に笑顔の集団が先生の満足のために出来上がる。

かくいう私も、昔はいつも仕事終わりに部下を飲みに誘う上司だった。もちろんほぼ自分が出すので、部下にとってもおいしいものが食べられて、職場以外で話せる機会があることはありがたいはずだと思っていた。そこでまた普段は話せないようなことも聞いてあげることがでいるとも考えていた。しかし、自分が毎日これをやろうと思えることが増えてからは、同様に相手にも予定している自分の予定があるということが痛いほどよく分かった。相手の「スケジュールは確定していないが一日の中にある自由な時間の重さ」を慮るということが、少しばかり私も含めたこの社会には欠けているのかもしれない。


自分の積み上げの予定というのは、「その日空いているか」と言われれば「空いています」と答えざるを得ないのだ。「その日は出かける予定を入れてしまいました」とか「その日は試験があります」とか言えば仕方ないという話になるが、「その3時間はブログの執筆と自分の商品作成をするので飲み会には出られません」とはなかなか言えない。伝えたところで、「みんなで予定を合わせているのだから自分の予定は調整しなさい」で終わってしまう。そもそもみんなで集まることが有意義なイベントなのか、というところには焦点が当てられない。

一人をこよなく愛する人は基本やりたいことが多い。決して根暗でマイナスな感情を持って日々つならなく生きているわけではなく、むしろ自分の内面に向き合って自分と対話しながら、一人の時間に作業をしながらワクワクな脳内お花畑に身を投じて夢を紡いでいるのである。


自宅時間が増えたことで、世間は少しだけ引きこもりに寛容になった。世の中のゴミとも言わんばかりに揶揄されてきた「ニート=働かない人」も、毎日同じ電車に乗って同じ職場に行かなくても好きなことを伸ばして収益をあげる人が増えてくる中で、形を変えて「外に出ずに稼げる人」に関しては徐々に市民権を得ている。


みんなと一緒にいることが安心や安定につながる時代から、みんなと同じでなくても大丈夫と勇気を持って愛する一人を選ぶ人が増えていくことは、違和感への気づきを後押しする コロナ生活がもたらした福音kもしれない。



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