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その先を観る!

〈コトバにおける想像力〉

日常の会話でもあることだけど…
例えばドラマで女優さんが「嫌い…」というセリフを通して、心理的な「好き…」を表現するシーンありますよね?

コトバの奥にある感情こそが本質なわけですが

顔を見て場の空気を感じられるなら良いけれど…

若い子達は、LINEで告白〜LINEで別れるとかが普通みたいだったりとか(おじさんには、考えられません…🤭)

ネットニュースや新聞雑誌は
全て発信者の「意図」がありますよね?

以前のblogに書いたけど🔽

熟読・熟考する癖が無いと…文章の上っ面だけで脊髄反射してしまい、本質が見えなくなります

煽動されやすくなり
洗脳されやすいなる
…ということ

人は社会的生き物なので、常に外社会と受信・発信をしています

受信機が壊れていたら
選択を誤りますよね?
当然発信も間違えます

記憶に新しいネットを沸かせたニュースは

オリンピックと、フワちゃんの暴言ですかね?
(説明の必要が無いので内容は省略します)

特に柔道の阿部詩選手の号泣問題

私は個人的には想うところあったけど、別に批判はしませんでした

ただ武道として考えると、どうかな?と想いつつ

柔道はそもそも武道なのか?スポーツなのか?という根本的問題になるわけで、私には何も言えません

感情的に擁護する人達の意見に共通するのは🔽

○号泣するほど頑張ったのだから、良いではないか
○彼女の立場に立ったことないのに批判する権利はない
…というもの

よーくわかります!

ただもし…もしですよ

阿部詩選手本人が柔道をスポーツでなく、武道として取り組んでいたとしたら?

彼女自身、後から振り返って
「しまった!武道家として恥ずかしい態度だった…」と想う可能性だってあるわけです

「号泣するほど頑張った」
とは、どれだけの頑張りか?
本当のところは彼女以外わかりません

それなら…
「彼女の立場に立ったことない」のは、擁護するコメントを書く人も同じはず

「TVの前で見ているだけで…」と書く人も同じであって、そうでないのは現場でスタッフとして側にいた関係者だけなのです

TVから放映される「切り取られた」映像から何を感じ、何をどう発信するか?

人それぞれ感じ方、判断や発信の仕方が違うだけ

「批判の批判」をする人も、炎上に加担する意味では同じです(この中にも本当の擁護と、自分の正義感を満たしたいだけの人がいるでしょう…)

人気アスリートを例としたけれど、これを他の問題に当てはめることも出来ます

環境問題
戦争
教育
ジェンダー
福祉
人種
格差
etc

たくさんありますよね?

自身の正義を押し付けると
違う正義と必ず衝突します

つまり正義という名の暴力にもなり得るということ

物事は一方向からだけでなく、必ず反対側からの視点を持つ事も必要ですね

〈主語が無くても伝わる日本語〉

主語が無いのは…日本人の集合意識に、「世間」「皆」という空気の如き集合体に帰属する意識のせいだと、「私は」想っています

その意識は「均一であるべき…」という刷り込みとなり

主語という主張をする人間に対し、嫉妬と恐怖を抱き「出る杭を打つ」…という防衛本能を生じさせます

自分を解放したい本能と
自分を縛ってしまう怖さ
の狭間に生きるのが…
今の日本人かもしれません

変わりたいけど変われない
自分らしくいたいけど諦める
その苦しみが…

主体性=主語を持って生きる人に対する羨望・恐怖・嫉妬になるのです

ダンスの群舞において
「合わせる」といっても
実際に行われているのは「揃える」が多いと想いますね

「揃える」は個を消すこと
「合わせる」は個を生かしつつ、調和すること

ダンスの指導者ですら…その違いを理解していない人が多い気がします

カタチだけ揃えたダンスは、機械的でつまらなく…

そのつまらなさ故のストレスもあり、はみ出る人を攻撃してしまったり…
結果、余計につまらなくなります

カタチを揃える…は技術だけでなく、体型などにも及ぶので

過度なダイエットで摂食障害やメンタル障害も起す原因になります

他のblogにも書きましたが、ダンサー自身の幸福度が高くなければ、ダンス界は豊かになりません

パリオリンピック出場のブレイキンのダンサー達は、皆楽しんでいるのが伝わって良かったです!

バトル=戦いなのに、あまりに楽しそうで、それが良かった!

群舞にしてもそういう熱量や想い・呼吸や緩急・質感など…エネルギーを合わせたダンスは必ず伝わります

ブレイキンのダンサー達は
踊らされていませんよね?

人の真似・パクリはルール違反らしく、オリジナリティを要求されるのも素晴らしい文化で、個人というものをしっかり確立したダンスだと想っています!

ブレイキンのダンサー達はストリートネームで参加しており、それに対して色々意見する投稿も見ました

しかし俳優もアイドルも芸名があるし…ハンドルネームというものもあります

それこそSNSでは匿名で誰だか素性がわからない人間が、ストリートネームを批判出来ないはず

顔出しして堂々と踊っているダンサー達は、勇気の塊ですからね

ストリートネームの流れで言うならば…

名前とは何の為にありますか?
名前の無い人間はいませんよね?

名前は番号ではなく…カラダを持つ「生命の呼び名」なのです

「私にとって」という前置きの無い断定は、人を苛つかせることもあって

「私は」という主張が必要なことってあるのです

ラーメンなら既に普及されきったので…
豚骨が一番!などの主張は個人の好みとわかりますが☺️

ダンスなら?

例えばベリーダンスを「人類最古のダンス」と断定した文言を読むと…

「人類最古」と勝手に断定出来るのは何故か?
考古学者が論文を発表したのか?

と「私は」意地悪にツッコミたくなるんですよね🤣

自分が勝手にそう想っているだけではないか!と想うわけです

科学者や考古学者は「現在の仮説では…」と表現するので、断定そのものをしません

証明出来ないことを断定する資格は誰にもなくて、あくまで個人の意見としての発言とすべき

やはり「私は」こう想うという主語が必要なのです

バレエが「全てのダンス」の基礎…と言うバレエ原理主義者も多いけど

アフリカンダンスは、バレエより遥かに古くから存在しているわけで

当然バレエが基礎ではないので「全てのダンス」という表現は間違い

日本舞踊やブレイキンも、バレエと全く関係なく発生・存在しています

「全てのダンス」の範囲は、その人にとってでしかなくて…

バレエの基礎は様々なダンスのトレーニングに有効だと、「私は想う」が正解👍

めんどくさいけど…主語の無い主張が、要らぬ論争を生む原因になるので

特にSNSでは私も気をつけているのです

昭和なら「世界最強の空手!」「格闘技世界一決定戦」なんてコピーが溢れていましたよね?🤭

当時はワクワクしたけれど、ワクワクと同時に殺伐感もあったり…

だから今みたいな武道団体の交流とかはなくて、どちらが強いか論争が絶えませんでした

主語さえあれば、要らぬ論争も起こりませんが

主語ありきの主張を恐れる故、主張する時に「皆が」こう言っている
…と存在しない空気を盾にするのは、むしろマイナスなんですよね

主語というものはコトバを発する時に、責任を背負うもの

全体の一部でありたい…という安心感に根付く深層心理が、主語を使わない習慣になったと想いますが

大いなる全体の一部であるということは…
小さな自分の存在は、大いなる全体と繋がっているのだし

むしろ安心して主語を使うべきだと「私は」想うのです!

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