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静寂の歌 1-12

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    十二

 警棒で殴られる瞬間、あの歌が聞こえた気がした。そう言おうと、思ったが、またすぐに夢の中へと落ちていった。
 「するどいじゃないか」
 彼のおだやかな声が聞こえ、ハッとした。目を開けたつもりだったが、辺りは真っ暗でなにも見えない。
 「こっちだよ」
 声のした方を向いて、起き上がった。大きな革張りのソファーの上で、白髪の男が、背中を向けて座っていた。その奥には、小さなテレビが置いてある。
 白い後ろ頭を眺めながら、ゆっくりと立ち上がる。思い出したように、右腕を押さえたが、不思議と痛みはなかった。
 「いまだけさ。ここは、現実と夢の堺だからね。痛みは、身体のものであって、君のものじゃない」
 白髪の男は、テレビ画面の方を向いたまま淡々と言った。
 「映画ってのは良い。明治のころには、まだ無かった。大正に入って、ようやく活動写真や、モノクロ映像に、弁士が台詞なんかをつけはじめた。それも、退屈だったけどね。美しい女性の声は、美しいものじゃないと駄目なんだ。なぜかわかるか?」
 軽くふりかえった視線に、首を振って苦笑を浮かべた。
 「彼女には声変わりなんか来ないからね」
 「君はこの映画を観たことがあるだろう」白髪の男は、長い指を折り曲げて、ぬっと画面を指し示してきた。
 目を細めながら、映像を見つめる。
 金髪の男が、リズムにのりながら、化粧をしている場面だった。
 裸で、股の間にペニスを挟み、鏡の前で派手な模様のガウンをまとって、それを羽根のように広げていた。犯人の変身シーンだ。
 「まあ、知っている。なぜ?」
 「君の記憶から抜き出してきた一本だ」
 「あんたに聞きたいことがあるんだ」
 白髪の後ろ頭をじっと、見つめて腕を組んだ。
 「なぜ錦と邪植を操っているんだ?それも今回は、僕の腕まで折りやがって」
 「しー」と、人さし指を口元で立てる。白髪の男は画面から視線を外すことなく、隣に座るよう、うながしてきた。妙な威圧感に、黙りこんだ。こんなことは初めてだ。
 「時間はまだあるよ、赤也」
 白髪の男はうすく笑って、頬づえをつくと、視線だけで僕の方を見つめた。それに眉根をよせると「どういう意味だ?」と、低くうなった。
 しかし、男は聞く耳をとっくに塞いだのか、勝手に話しをすすめてゆく。
 「これを初めて観たのはいつだ?」
 「子どものころだよ」ゆっくりと腰かけながら、注意深く、白髪の男の横顔を見据えた。
 黄色い双眸は鋭く、鼻は高い。
 肌も白いが、髪の毛も白い。だが、二十代前後と、若く見える。白いワイシャツに、灰色のズボン。黒い革靴の先が、少しだけ赤黒く汚れている。それが何なのか、想像するまでもない。
 「君は、この映画を見て感じていたろう」
 「感じはしない」背もたれに体重をかけて、ため息をついた。「だが、共感はした」
 「なぜ?」
 「へんてこなものを見る行為そのものを、意識させているからだよ。それは僕にとって珍しいことじゃない」
 「何が変なんだ?」
 「本来は、別に変な訳じゃない。ただ、なんらかの背徳心を持たせるんだよ。それだって、自然を曲げると言うことの認識の違いでしかないんだけどね。子供は、そんなことわかりゃしないだろう」
 白髪の男はビデオを止めると、愉快そうに笑いだした。その笑顔は、さっぱりとしていて、快活なものだった。だから、余計に恐ろしいのか。僕は、眉間に皺をよせたまま、黙りこんだ。静かな闇のなかで、男の笑い声だけが響く。
 「精神分析で救えるものなど一つもないと言うのに、人は古来から対話を好む。なぜかわかるかい?」
 「対象を確認することで、存在するからさ」
 「そうだ。それほど自らが曖昧な存在であることを自覚しているにも関わらず、君たち人間と呼ばれる生物は、いつまでも曖昧なままだな。科学がどれほど進もうと、君らはいつまでも退化し続ける。否、進歩を恐れている。流れに逆らおうとする」
 「それほど自然性を離れることを恐れているんだ。健康な判断だよ」
 「違うね。ただ賢明なだけだ。それ以上のことは一つもない」
 「それに問題があるなら、あんたが神様とやらに直訴して来てくれ」
 「なに、俺も似たようなものだよ。君が言え」
 「あんたも狂ってるな」
 ぐっと睨みつけると、白髪の男はゆっくりと指をのばしてきた。
 僕の額に、男の親指が触れる。その部分だけ、じとりと汗をかいているようで、生ぬるい。なのに底冷えしそうなほど、冷たい瞬間がある。
 「羊の解剖については、少し驚いた。君は案外と博識だね。先生?」
 「どこまでのぞき見してやがる。変態野郎め」
 ぐっと睨みつけると、白髪の男はますますうれしそうに、笑みを濃くした。それでも、双眸の奥はがらんどうだ。真っ暗で、からっぽなのだ。
 「君が、女装を見たことに快楽を得たのは、それが倒錯だからでも、変身だからでもない。習慣の外を見たからだ。わかるね?」
 白髪の男は「Let well alone……」と、あの歌を口ずさみはじめた。喉奥で笑った声に、僕は苦い顔をして、頭を後ろに引いた。
 「快楽を何度も味わうための反復と、習慣はまったく別のものだ。習慣は良くも悪くも、体系や形象を構築し、安心と秩序をもたらす。しかし、快楽は習慣になってしまうと、快楽ではなくなる。では、習慣を快楽に戻すためには、どうしたら良いかな?」
 僕は、額にのったままの指を乱暴に払った。それは、氷のようにつめたく、体温がないようだ。
 「やめてしまえばいい」
 吐き捨てるような言葉に、男はうれしそうに眼を見開いた。
 「そうだ。やめると、どうなる?」
 「欲しくなる。ますます欲望は膨れ上がって、手に入れるためにやっきになる。我慢をすればするほど、箍を外した瞬間、より遠くまで走れる。放出したときの高揚感も一潮だろうね。期待を望むとは、そう言うことだ」
 「そうだ。人の正常や異常など、その程度の問題だよ。赤也。間違うな、狂人なんかどこにもいない。いつも内側から見つめるようにしていれば、惑わされることなど、そんなに無いって気づくさ。重要なのは、葉ではなく芯なのだからね」
 白髪の男は、はじめてまっすぐに僕を見つめてきた。しばらく、その黄色い双眸を睨みながら、かすかに息を飲み込んだ。
 「あんたが、惑わしているんじゃないのか」
 「違うね。できたら、こんなところに居やしないさ」
 「あんたは何者なんだ?」
 かすかに白みはじめた視界を押えながら、声を荒げた。このままじゃ、また眼を覚ましてしまう。重要なことは、そんなことじゃない。わかっているのに、言葉が出てこなかった。
 「忘れたよ」
 白髪の男は陽気な笑みを深くして、テレビ画面の方を向いてしまった。その後ろ姿が、ぐにゃぐにゃと曲がりはじめたとき、白い光がまぶたを割って入ってきた。


    十三へ続く

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