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静寂の歌 1-14

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    十四


 「本当にそうかはわかりませんけど。たぶん、名前のない欲望が入り込んできたんじゃないかと、思うんです」
 一息入れたあとに、茶をすすっていた。
 邪植は盆を座卓の上に置くと、向い側に腰を下ろした。僕は湯呑を置いて、煙草を一本くわえた。マッチをすって火をつける。硫黄の焼ける匂いに満たされ、ホッとした。
 「もっと、わかるように説明してくれ。今日は、もう散々だったんだから。どれもこれも、唐突すぎてついていけない」
 「何かあったんですか?」
 「こらこら。みかんの皮だけ吐くな。ぜんぶ喰え」座卓の下で丸くなっていた八枯れの尻を、軽く蹴った。「前はぶどうの皮まで、よろこんで食っていたのに。贅沢者め」
 八枯れは、みかんの皮を咀嚼しながら、不機嫌そうにうなった。
 「貴様が食い残しばかり寄こしたんじゃ」
 「なんでも喰えるんだから構うまい」
 「馬鹿にするなよ。わしにだって味の良し悪しくらいわかる」
 「どうせ丸のみにするんだから、味わうもなにもないじゃないか」
 「胃で味を見るんじゃ。貴様らは上でまごつくから獲物を逃すが、わしは胃袋に入れてから丹念に味わう。だから、うまいものしか喰わんのだ」
 「いい加減なことばかり言いやがる」
 「続けてもいいですか?」邪植は、苦笑を浮かべて、話しに割って入ってきた。僕は白い煙を吐き出して、目配せで先をうながした。
 「俺のでも赤也さんのでもない、とにかくまったく別のところから、突然、その欲望が生まれてきたんですよ。それが、俺の体の中に入り込んだんです」
 「まるで、憑依現象みたいなことを言うね。お前は妖怪じゃないか」
 「でも、花は咲いたじゃないですか。枯らしたのに、俺は倒れなかった。それは俺の欲望ではなく、他の何かの欲望だからです。つまり、生命エネルギーの一部ですよ。まるで、俺の植える欲望花の種のように、俺は何者かに欲望を植えつけられたんだ」
 煙を吐き出して、面倒くさそうに頭をかいた。「そんなSFじみた話しを本気でされてもな」と、苦笑を浮かべる。しかし、邪植はいつになく真剣なまなざしで、まっすぐに僕を射抜いた。
 「だから、名前のない欲望なんです。誰の、と言う特定のない、別の次元からのエネルギーなんて、表現の仕様がないじゃないですか。現に俺は、それが入り込んでくる前に、妙な感覚にとらわれました」
 「どんな?」
 だんだん話しがとんでもない方向に向かい始めた気もするが、先をうながした。灰皿の上で、煙草の火をもみ消す。
 「背後に、じっと何かが立っていたような。そんな何かです。幽霊とか魔とかではなくて。なんと言うか、空間と言うのか、隙間のようなものが、後ろに立っていたんです」
 僕は、ハッとした。とんでもない方向も何もない。
 それは、やはり確かな事実として、そこにあるだけなのだ。
 それが、とんでもなく気味の悪いことであり、うんざりしてくるのは「つくりものめいているのに、現実である」と、言うことだ。
 この瞬間、僕が木下に対して、偉そうにぺらぺら話していたことも、実はまったく実感のないところで話していた、と言うことに、いまさら思い至った。
 なぜなら、邪植の話しは本当だからだ。
 僕は、警棒で殴られる前に感じた、空白のことを思い出した。邪植の言う「名前のない欲望」が、どのようなものか、さっぱり理解はできないが、あながち共通体験がそこにあると、まったくの嘘とも思えなくなる。
 木下が人の肉を喰うことを受け入れられなかったことと同じように、僕はこの目に見えないある現象を、受け入れられていない。
 それは、なぜか?簡単なことだ。実感がないものは、空想的で、幼稚なものに過ぎず、それゆえに共通の認識がないからだ。
 僕は小さなころから、鬼や魔が人を喰うのを見ているが、木下は見ていない。だが、確かに人は喰われて死んでいる。同様に、邪植は実際に何かに心を奪われたが、僕は奪われたことがない。
 だが、その「空白」だけは、何か知っている。少なくとも、僕はそれで実際に骨を折られている。もちろん、偶然とも思えるが、そうではない根拠があった。
 不意に、夢の中で言われた言葉を思い出した。一つ一つの情景が、パズルのようにつながってゆくようだ。最初の夢で、白髪の男は泣きながらあの歌をうたっていた。そうして、目を覚ましたあと、僕は無意識に口ずさんだ。
 耳に残るメロディーだった。それだけのことなのに、あのフレーズを何度も、何度も、頭のなかでリフレインしていた。そして、ついに口をついて出てしまった。
 ハッ、として顔を上げると、邪植の怪訝そうな眼と眼が合った。僕は口元を歪めて、前傾になる。
 「きっかけがあった」
 「何なんですか?」邪植は、頭を後ろに引いて眉根をよせた。
 「歌だ。僕があのとき口にした、歌だ」
 そうして、新聞紙の間にはさまっていた広告を取り出すと、その裏にペンを走らせた。邪植と八枯れは、しばらく呆然としていた。最初に聴いた歌の一節を、書きだした。


  迷える子羊を集めよう。迷える子牛を集めよう。
  俺は最後の牧歌をくちずさむ。
  耳を傾けたaloneが、またつかまった。
  一人、独り、ひとり。幸福なんか喰えないんだ。
  Let well alone.
  Let well alone.

 裏紙をのぞきこんでいた二匹が、首をかしげる。
 「何の歌なんですか、これ」と、言った邪植に、微笑を浮かべてボールペンを置いた。卓の上で、うさんくさそうな顔をして、歌詞を眺めていた八枯れを見つめて、小さくつぶやいた。
 「『静寂の歌』だ」


      第二章へ続く

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