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静寂の歌 2-10

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    十

 リビングの明かりがついているのが目に入った。門を通り、インターホンを押そうとしたが、その直後何か硝子のようなものが割れる音が、響き渡った。眉間に皺をよせてドアノブを回すと、すんなり開いた。中をのぞきこむと、廊下は灯を消されて真っ暗だった。
 「八枯れ」呼んでみたが、返事がない。
 「ともかく入りましょう」
 邪植は僕の前に立って、廊下を歩きだした。その後を追って、玄関に足を踏み入れた瞬間、まるで解放を待っていたかのように、山下とも子の影が離散した。壁や天井からはがれ落ちると、玄関口から、逃げ出すように外へと飛び出して行く。あとからあとから、影は入口に集まって、我先にと走り出しては、闇の奥へと消えて行った。なぜだ?影に、意思ができたのか?だが、最初来た時はなんともなかった。さっきといまと何が違う。
 「歌か」
 つぶやいて、駆けてゆく影の後を眺めていたが、また大きな破壊音が聞こえたので、家の中へと足を進めた。廊下を曲って、リビングの入口の前に立つと、唖然とした。
 藤本がバッドを持って暴れ回っていた。相手は八枯れかと思っていたが、違った。山下とも子の影の群れが、藤本の手足にからみついては四肢を引き裂こうともがき、殴られてもそれをすり抜けて、背中や肩をはっていた。藤本の眼は、もはやまともだとは言えなかった。げっそりと頬をこけさせて、黒いくまどりの目を血走らせ、白髪の混じった髪を振り乱す。時折、悲痛な声をあげながら、バッドを左右に振り回す姿は鬼のようだった。テレビや戸棚や食器にぶつかっては、物を壊し、硝子を割った。その割った硝子で頬や手のひらを切っていたが、気に留める余裕はなさそうだ。
 「遅かったな」
 八枯れは、僕のふくらはぎに黒い尻尾をからめて、機嫌よさそうにつぶやいた。どうも、たらふくものが喰えたのが良かったのだろう、鼻歌でも歌い始めそうだ。ちら、と足元を見下ろして苦笑を浮かべた。
 「ありゃ何だ」
 「知らん。狂いだろう」
 「それは見ればわかる」
 「わしは屋根裏で寝とったからな。物音に降りて来たら、この有り様じゃ」
 「僕らが来るより前から、うるさかったんじゃないか?」
 「なに、眠りを妨げるほどのものじゃない」
 「お前は泥棒が入っても起きない質だな」
 呆れた視線を投げてやると、「知ったことか」と、大きなあくびをもらしていた。こいつの呑気さを見ていると、ほどほど自分の持っている深刻さが馬鹿馬鹿しく思えるのだから、すごい。
 「どうするんですか」邪植は、廊下の壁にもたれかかって億劫そうにつぶやいた。
 「そんな声を出すな。僕のほうが面倒くさい」
 「放っときますか」
 「それでも良いが、警察が入ってくるとより面倒なことになる」
 「面倒くさいことばかりですね」
 「人間社会はね。つまらんものだよ」
 ため息をついて頭をかいた。ぶん、と金属バッドの先が僕の鼻先をかすめる。危ないなあ、と眉根をよせて一歩後退した。それを見かねた八枯れが、「わしが喰ってやろうか?」にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて言った。その言葉にしばし思案してから、「いいかもしれない」と、つぶやいた。邪植も八枯れも、意外なことに少し驚いた様子だった。
 「あとはよろしく頼む」
 「本当に良いのか」
 「良いんじゃないか」
 「いい加減なやつだな」
 肩をすくめて踵を返すと、コートのポケットに手をつっこんだ。あ、俺にもちょっと分けてくださいよ。と、言う邪植の嬉々とした声のあとで、暴れまわる破壊音が止んだ。
 死体が上がらなければ「行方不明」で片がつく。山下とも子には、夏木がついているし、ちょろっと記録を書き換えて、現在の後見人にしてしまえばいい。そのあたりの情報処理や操作は、何でも屋に任せれば済む話しだ。
 「人の生き死にも、書類面で片がつくんだから、便利な世の中だ」
 煙草に火をつけて煙を吐きだした。こうした妙な仕事を長く続けるコツは、心の熱を常に低温に保っておくことと、善悪の境界を捨てることだ。


     十一へ続く



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