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静寂の歌 3-5

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    五

 「先週は来なかったじゃないか」
 「すみません」
 「怒っている訳じゃないよ」
 目の前で突っ立ったまま、腹の前で両手を組み、うつむいている姿は、まるで職員室で説教を受けている生徒のようだ。
 苦笑を浮かべて「そう硬くなることはないよ。おいで」と、言って隣に座らせた。つぐもが縁側に腰かけると同時に、足元をぬらぬらと這っていた蛇が、床下へともぐりこんだ。それを盗み見ていた八枯れが、むくりと起き上がると、視線だけで「喰っていいな?」と、聞いてきた。僕はなんともかんとも言えなくなり、軽く首を横に振った。
 「今日はやらないんですか」
 「君は電車じゃないのか」
 「別の線です。だから遅れました」
 「そうか。大きな事故があってね。みんな帰った」
 「そうですか」
 つぐもはお面を傾けて首をかしげると、無機質な声で「つまらないですね」と、つぶやいた。僕は煙草盆を引き寄せて、マッチをこすった。
 「何がつまらないんだ」
 「何でしょうか」
 「はっきりしないね」
 「ぼくにはつまらないことばかりなんです」
 「大概そんなものだよ」
 「先生は、無痛無汗症って知ってますか?」
 「聞いたことはあるよ。生まれつき、痛みや温度を感じられないのだろう。痛みの伝達って言うのは、人体の持つ機能のなかで一番すぐれているね。それがなくちゃ、危機感をさえ覚えることがない」
 「この世界を生きててつまらないって思うのは、それなんです。精神が無痛無汗症なんです。痛みってのは、だって、感情の想起にもなる」
 「それは単純だね。だいたい、人は面白いことと、つまらないことと両方を持ってるものだよ」
 「ぼくは持ってない。面白いことなんか無いんです」
 「解剖学が好きだと言ったじゃないか」
 「うん」
 「そんなら、持っている」
 「好きだけどつまらないんです」
 「そりゃ変だ。好きなものは、面白いから好きなのじゃないか」
 「ええ。前はつまらなかったんです。でもある日から、つまらないけど、好きになったんです」
 「よくわからないね」
 「そりゃそうです。面白いか、つまらないかは単純で、口に出したら簡単に伝わります。でも、実際に感じている本人はそう単純なものじゃないから、好きでもつまらなかったり、嫌いでも面白かったり、そんなことがたくさんあるんじゃないですか」
 「そりゃそうだよ。そもそも、名前のつけられない感情のほうが多くて、とまどってばかりなんだから」
 「気づいてますか?ぼくたち、同じことを言ってますよ」
 「うん。でも、だからって無痛だと言うのは、二項関係に分けて言うより単純じゃないか」
 「なぜですか」
 「つまらない、と言うのも感情の起伏が前提にあるからだ。君は無痛じゃないよ」
 「でもね先生、きっかけさえあれば人は無痛になり得るんですよ」
 「きっかけ」
 「ぼくはね。それを見ちゃったから、こっちがより一層つまらないんです。でも、あることをやっていると、それが一瞬、ちらとよぎる。だから、いつまでもそれを続けてしまって、一層こっちが遠くなるんです」
 「それあれこっちと言われてもね。はっきりしない」
 「解剖がつまらないのは、こっちだからです。でも解剖をやると、それが見える気がする。だからやるのが好きなんです。でも好きなことばかりやっていて、うっかり帰って来れなくなりそうなんです。だから、無痛なんです」
 「肉体ならまだしも、精神が無痛になって帰って来られなくなったら、君は人じゃなくなるんじゃないか」
 「人である必要がないんですよ」
 「なぜ」
 「孤独だからです」
 「みんなそうだ」
 「ぼくは、先生より孤独ですよ」
 「比べられるものじゃない」
 「比べられます」
 「だとしても、人を辞める言い訳にはなりゃしない」
 「人を辞めても、生きてはいけます」
 「それは生きている意味があるのか?」
 「人であれば、生きている意味があるんですか?」
 「ある。少なくとも空虚じゃない」
 「人だから空虚なんです」
 「人を辞めても空虚ならどうする?」
 「それを見たとき、ぼくは満たされた。空虚なはずないんです。でもこっちにいると、ぼくはずっと空白が満たされない。隙間が、空虚が、孤独が、つまらない。詰まったほうが、ずっと楽です」
 「君が見た、それって一体なんだ?」
 「それはそれです。こっちの言葉にできないから、ぼくの空虚を満たせるんですよ」
 「どうかな」
 「なぜ」
 「君はまだ、こっちに生まれていないだけかもしれない」
 「どういうことですか」
 「君はまだ胎児なんだ。幸せを知らないんだ。こっちの世界の快楽を知らないだけだ。味わっていない。だから簡単につまらない、と切り捨てられる。それだか何だか知らないけど、それのある世界に行ったら、どうせ君はまたつまらなくなるぜ」
 「なぜだ」
 このときになって、ようやく余裕に構えていたつぐもの声が、震えた。おっかなびっくり引っかきまわしていたが、案外と良い手ごたえを覚えて、内心でほくそ笑んだ。
 「大層なことを考えているようだが、結局、君も気持ち良くなりたいだけ、だからさ。欲望には際限がないって言うけどね。ようは体力が尽きたら、欲望も果てだ。肉体を捨てて、人を捨てて、快楽に没落しようと、君はまたつまらなくなり、そこから逃げようとする。しかし、すでに逃げるために必要な生を捨てているんだ。もう逃げられない。そして終わりだ。なんにも残らずね」
 「肉体も人も捨てたら、永遠に快楽のなかにいるだけです。生も死も、肉体のある限りの問題で、それを捨てたら始まりも終わりもありゃしません」
 「そんなら死んでしまったほうが早い。ようはそういうことを言いたいんだろう?」
 「似てるけど、違います。ぼくはそれを一つの生だと信じているんですから」
 「生って言うのは動いているものを言うんだ。君のそれは閉塞して、停止している。生ではない」
 「それは、こっちの世界の理屈じゃないですか」
 「あたりまえだ。僕はこっちの世界で生きているんだから」
 「うそだ。先生はあっちを知っている」
 どきりとしたが、平生を装って微笑を浮かべた。灰皿の上に灰を落としながら紫煙を吐き出すと、丁度良く木下が子供たちの送迎から帰って来た。ひょい、とのぞいた顔に片手を上げて、笑みを浮かべて見せる。つぐもは、木下の顔を見るや否や「ああ、この間の刑事さんだ」と、つぶやいた。僕は目を見開いた。
 「知りあいなのか?」
 「いいえ。聞きこみに来たんですよ」
 「聞きこみ?」木下が生垣を越えて、こちらに近づいてくるのを横目に見ながら聞いた。つぐもは、ヒーローもののお面を傾けて、抑揚のない声で簡単に言った。
 「バラバラ事件のです」


    六へ続く



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