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筆の森 1-5

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    五

 しばらくは、長い沈黙が続いた。そうして、タチバナは曰くつきの墨で何事か、書き出した。それを封筒に入れて、女に寄こした。実に簡単な成り行きに、なんだか俺のほうが不安になった。もう、済んだのですか。女も同じように、心配そうな声を上げた。
 「実際はこんなものです。中は、必ず一人の時に読んでください。そうでなくちゃ、効果はありませんから」
 「一人でないと、どうなるのですか」
 「どうもなりません。意味が消えるだけです」
 「消える?」
 女は暗い顔を上げて、タチバナの冷淡な態度をとらえようと、必死になった。しかし、それでも平気な彼女は、するすると隙間をぬうようにして、女の視線から逃れて行く。その巧みな攻防を間近に眺めながら、女とは、どうしてこうも、幻影と現実の同居した生物でいられるのか。不思議でならなかった。
 「人見知りなものですから」
 「ともかく、必ず一人で読めば良いのですね」
 「ええ、必ず」
 タチバナの念をおすような微笑に、女は顔をうつむけた。終始くちびるを噛みしめていた。封筒をにぎる両手は折れそうなほど細く、ぶるぶると震えていた。なんだか、可哀想な気がした。そうして、二言三言何事か、簡単に話しを済ませて、座敷を下りて行った。扉の鈴が鳴るのと同時に、座敷の時計が鳴り始めた。それがしばらく続いたが、タチバナも俺も、口を訊くことは無かった。
 時報が鳴り終わると、店は急に静かになった。俺は、その空白を恐れた。障子の隙間から、いまもなおタチバナの冷淡な横顔がのぞいている。その区切られた一枚の絵を、いつまでも見つめていたいような、すぐにでもこの場から逃げ出したいような、衝動と億劫が一緒になって、襲ってきた。
 「帰りたい場所のわからない子供はね、鬼にも蛇にもなれるのだよ」
 タチバナはこちらを見なかった。俺は、障子を開けて、座敷に上がった。その拍子に、散らかっていた半紙が宙を舞った。
 「なぜ」
 ようやく振り返った彼女は、相変わらず無表情のままだった。
 「帰る必要がないからさ」
 「わからない。そんなの」ぶっきらぼうにつぶやいた。だけど、彼女が何を意図してそう言っているのか、本当はなんとなくわかっていた。しかし、あえてその宙にただよっている、名称の不確かな空虚さを無視した。そうして、何よりも先に、気になっていたことを口にした。「いったい、何をした?」
 「呪ったと、そう思うかい?」
 「思わない」
 「じゃあ、それでいいじゃないか」
 「だけど、なんだかスッキリしないだろう」
 タチバナは、途端愉快そうに笑いだした。スッキリしないだってさ。と、完全に足を崩して、声を上げて笑う。彼女のその笑顔は無邪気だった。だから俺は、一気に緊張が解けた。それがいけなかった。解けたと同時に、冷やかな水を浴びせかけられ、胸の奥の何かが凝固した。
 「彼女はね、好きな男の心の中をのぞいたのさ」
 想像していたことよりも、案外陳腐なことに驚いた。しかし、それは最初だけだ。じわじわと、彼女の口にした言葉の意味を咀嚼しはじめると、なんとも落ち付かない気分になった。
 「そんなこと、」
 「わたしになら、できるよ」
 「許されるのか?」
 「なぜ?」
 あんまりハッキリ言うものだから、言葉を失ってしまった。それでも、タチバナは平気だった。まるで、明日の天気の話しでもするように、なんでもないことのように、笑っていた。それが不自然だった。彼女の笑顔が、ではない。「化け物がわたしだったら良い」と言って、浮かべたさびしい微笑と、女に対して軽蔑の視線を向けた瞬間と、残酷なことを簡単に笑って話してしまえる、彼女の態度のすべてが、一つの矛盾のように映った。そうしてそれが、平気で同居していることが、俺にはある種の不条理に思えた。
 「人は単純だ。心の中身がわかれば、支配できると思っている。自分の物にしてしまえさえすれば、不安が消えると信じている。だけど、なぜ不安なのか?君たちは問うたりはしないね」
 「そんなこと」
 「ない?それなら、君はさびしい人だ。橋本有也。だけどね、やさしい人だよ。やさしくなれるなら、それ以上のことは、大した問題じゃない。そうだろう?」タチバナは微笑を浮かべたまま、だけど、と続けた。「本当に心を手に入れたいのなら、籠で飼うのが望ましい。それは、ただの人形で、肉に過ぎないが、しかし君たちはそれだけが望みなんだろう?」
 そうハッキリ言われては、返答に窮する。そうではないが、たしかにそうだった。少なくとも俺は、「自由意思」などと言うものを信仰できない。思いやりの介在した関係性など、実際は、成立していないことを知っている。つねに、不完全で不成立なものだ。だからこそ、人はパートナーとの完全なる結合を求め、あらゆることを試みる。その試みは悉く挫折され、そうして無限で孤独な彷徨へ、出るしかなくなる。
 案外と、その解放の時に生じる痛みの瞬間のなかでこそ、俺たちは生きている実感を、得ているのかもしれなかった。そうして、それを繰り返して行った先に、不感症になったさびしい抜け殻だけが、横たわっているのかもしれない。俺たちは、痛みに慣れてしまうことが、なによりの望みのようだ。しかし、それでも頑なに「真実」と言うものを追い求めずにはいられない。「心」の壊れた動物だ。
 「だから、筆は交わらないのか?」
 タチバナは、やはりさびしい微笑みを浮かべるだけだった。だけど、その笑みは、本当はまったくさびしい訳ではないのだ。それが、なにより恐ろしかった。否、この高い棚に囲まれた、「筆の森」が恐ろしいのだ。おぞましく、また悲しい、世界なのだ。
 「帰るよ」
 ぽつり、とつぶやいた言葉に、タチバナは何も答えない。ただ、店の鈴が鳴る瞬間聞こえた言葉に、俺は息を飲んで立ちどまった。
 「まったく、つまらないなあ」
 温度のないささやきが、しっとりとすべりこみ、耳の奥に残った。より一層の不安を抱えて、しばし道端で呆然とした。往来を行き交う人が、すべて一本の影のように見えた。斜陽の射す夕暮れに、なんだか、ぽっかりとしたうす暗い隙間を、見つけたような気がした。



      六へ続く



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