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静寂の歌 3-7

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    七

 「ちゃんと説明してくれよ、赤也。ただでこんなに情報を与える訳には、いかないんだから」
 「それは君の過失じゃないか」
 「まあ、そうだけど」
 煙草の煙を吐き出しながら、肩をすくめて見せる。しかし、どうにも口で言わないと納得しない友人は、不機嫌そうに眉根を寄せていた。
 「まあ、僕は構わないけど。あとで怒らないでくれよ」
 「ずいぶん、もったいつけるんだな」木下は両腕を組んで、呆れた声を上げた。「そもそも、君がそんな大けがをしていて、僕になんの届け出もなかったことのほうが問題だよ」
 「それもいま説明するよ」
 煙草の灰を落としながら、微笑を浮かべた。
 「僕が人の夢を渡ることは、知っているよな?また、夢を見たのさ。ある男が、人を刺しながら歌をうたっていた。歌詞がこれだ」そう言って、だいぶ前に、広告の裏に書きだしたものを木下に渡した。
 「この歌を、僕がたまたま口ずさんだあと、邪植と錦が正気を失ってね。襲われた。それが、まず最初の右肩を、貫通させた怪我だ。その後、君からバラバラの話しを聞いた。君と別れたあとに新宿の紀伊国屋の前で、警備員に襲われ右腕を折られた。その時も、例の歌が聞こえたよ」
 木下は、黙って僕の話しに耳を傾けていた。時折、組んでいた拳を震わせてはいたが、じっと動かずにこらえていた。
 「そのあと、邪植は自らに欲望の種を植えて、開花させ、引っこ抜いた。それによって、寄生していた名前のない欲望、つまりあの歌によって増幅されたあるものを、取り除いた。錦もね。そうしてすぐだ。この人身事故と乱射事件が起こったのは。自殺した東城は、何かぶつぶつとつぶやいていたと、言ったね?」
 「ああ」木下は真剣な面持ちで、低くつぶやいて首肯した。
 「おそらく、あの歌だ。邪植が正気を失った瞬間によく似ている。そうして、人身事故も偶然ではない」
 木下はしばらく宙空を見据えたあとに、指を鳴らして僕のほうへ顔を向けた。
 「つまり突き落とした会社員も、歌を聴いたってことか?」
 僕は微笑を浮かべて、ゆっくりとうなずいた。
 「歌を聴くことはそう難しいことじゃない。こちらの世界に持ち込んだ時点で、主には人を、さままざなメディアを介して、移って行ったんだ。それには都会が丁度良いよ」
 「まるで、流感のようだな」
 木下は大きなため息をつくと、煙草盆を引き寄せて、マッチをこする。
 「でも、そうなると困ったことになる」
 「そうだよ。また、いつどこで寄生した歌が発生するかわからない。そのうえ、東城のような馬鹿な連中が、他にもたくさんいる。有象無象の群れの中に、爆弾をしかけているようなものだ」
 何を想像したのか、ぶる、と大きく体を震わせていた。僕は灰を落としながら、小さくため息をついた。
 「いまのところ打つ手がない。だから、困ってるんだ」
 「邪植に爆弾を処理してもらったらいいじゃないか」
 「それも考えたが、途方もない数だし、とてもあいつ一人では無理だ。なにより、欲望を刈り取ってからも、また歌に寄生されたら、イタチごっこになるだけだ。根本を摘み取らない限りはね」
 「根っこがあるのか」
 僕は軽くうなずいて、灰皿の上に煙草を押しつけてもみ消した。
 「おそらく、歌が脳をいじっているんだ」
 「そんな」木下は眉根をよせて、顔を近づけてきた。「まるで、僕らは実験動物みたいじゃないか」
 「実際にそうなんだ。化け物にこちらのルールなど関係ないからな」
 「じゃあ、夢の男をどうにかすればいい」
 「それはできない」
 「どうして」
 「こちらのものじゃないからだ。向こうが歌を介してしかこちらに影響を与えられないのと同じように、こちらも何らかの媒介がなくちゃ、何もできないんだ。それに根元はあの男じゃないよ」
 そこまで言って、ふとつぐもとの会話を思い出した。彼はもしかしたら、夢の男や歌と同じように、こちらの倫理では語れないところへいるのではないだろうか?だとしても、彼はまだ実際にこちらの世界を生きている。生きながらにして、あちらの法を心の支えにしている。彼らをそこまで誘惑するものとは、いったい何なのだろうか。本当に歌が、彼らの理性を破壊しているのだろうか?
 木下は、そうだ解体で思い出したと、言って眉間に皺をよせると、声のトーンをいくらか落とした。
 「例のバラバラだけど、ついに全部やっちまったんだ」
 「もう少し、具体化してくれよ」
 僕は眉間に皺をよせて、非難の視線を投げた。
 「足立区にある小さな公園に、解体された人間で円がつくられていた。髪の毛から、足の指の爪の先まで、見事に分解されていたって。人間をすりつぶして、アートにしたんじゃないかってくらい、綿密だったと、監察医の友人が言っていた。僕はそいつを見て、飯が食えなくなってしまったけどね」
 眉間に皺をよせると、頭をかいた。八枯れもようやく眠気が覚めてきたのか、ぎらぎらとした双眸を細めて、僕たちの顔を見上げていた。
 「今回は、どこも無くなっていなかったのか?」
 「わからない。ただ、筋肉組織は少なかったそうだ。骨と内臓で形を整えてはいたが」
 八枯れはにやにやとしながら「なかなか、わかっとるじゃないか」と、つぶやいた。僕はその緩んだ口元を引っ張って、ため息をついた。
 「まあ、脊柱や仙骨など組み上げているから、胴体なのだ。バラバラにしたら一見、蟹の甲羅か、その一部にしか見えないからね。でも、たぶん胸線や肩や背の肉などは、無くなっていたはずだ」
 「そうだ」木下は目を丸くした。「脳味噌と、ほとんどの肉は残っていなかった。赤也がいった部位と、肋骨、脇腹、尻、腿やふくらはぎの部分までもね」
 僕はもう一度煙草に火をつけながら、それを大きく吸い込んだ。
 「無くなっている部位を、僕らは普段なにに使っている?」
 「何にって、運動するのに必要な部分じゃないか」
 「そうじゃない。牛や豚や鳥と比べたらわかるかい?」
 「まさか」木下は、またうんざりとした顔をして、頭を抱えた。「冗談だろう?マジで喰ってやがるのか。映画や本の世界じゃないんだぜ」
 「狼は狼を食わぬが、人間は人間を食うと、言う」僕は肺を煙で満たして、ため息をついた。「実際に人肉を嗜む人間は、未開社会に行かなくてもいるんだよ。ジェフリー・ダーマーにはじまり、エドワード・ゲイン、アルバート・フィッシュ、ヘンリー・リー・ルーカス、アンドレイ・チカチロなどの猟奇殺人者たちは、人の肉を口に入れている。バラバラの犯人もそうだ。解体までは習慣だとしても、食すことまでは果たしてどうなのか。そこに君の信じている現実との齟齬があるんじゃないか?」
 木下は、学生のころの記憶を堀り出してきているのか、眉間に皺をよせて、ううん、とうなった。
 「そうだ。あんまり現実的に思えない」
 「乱射だって現実味に欠けるが、実際に死者が出ている。これもそうだ。実際に人が死んでいる。否定するほうが現実を見ていない」
 「中世じゃないんだ。人肉嗜好なんか流行らないだろう」
 「いま起こるのには、いまの理由があるはずだよ。これだけ食も衣服も変化し、物にあふれ、豊かになったんだ。家父長制が潰え、女が家にこもることも無くなって、個人の自由だ平等だ、なんだと言う理念のもとで、僕らはここまで発展してきた。戦後を越えて豊かになってくると、人々の心にも余裕が生まれ、関係性と言うものを大事にしはじめた」
 「豊かになったと言っても一部だ。貧しい者はずっと貧しいのが現状だろう」
 「それを言うなら、明治や大正期の比ではないだろう。学生運動を越えて、バブルがはじけ、余裕を失ったわれわれは、ついに合理的な社会を目指すようになった。否、失敗を恥じて、古い体制を捨てようとした。それでも、自由思想は残っている。個人が個人たろうとするがゆえ、上下関係や、家族、地域などの血縁や地縁というものが軽視され、いまじゃそのようなつながりは崩壊の一途にある。なぜだと思う?」
 「わがままだからじゃないのか」
 「そうだよ。人とつながりたいと意欲するのは孤独を嫌うからだが、つながりの重さを抱えるくらいなら自由でいたい、と考える身勝手さからくる。大した自己などありもしないのに、自己本位の思考が機能し続けている。時代はいまや、システムと技術しか残されていないと言うのに。本当に人が、個人が社会に必要なら、食うに困り、死んでいったりしやしない。社会が必要としているのは生きた人間ではない。生きた奴隷だからだよ」
 木下は笑みを浮かべて、白い煙を吐きだした。
 「皮肉なことに、それでも人は一人では生きられない。たしかに厳しい現実はいくつもあるが、共同性を捨てて生きてゆくこともできない。人が集まれば、歪みは生まれるものだし、言いだしたらキリがないぜ」
 僕は鼻を鳴らして、肩をすくめると「キリがなくともここに関係性の本質があり、それを真剣にひも解いてゆかない限り、泥沼から這い上がることなどできないよ」と、言って双眸を細めた。煙草盆を引きよせ、マッチをする。
 「ともかく、化け物をつくりだすのは脳なんだよ。猟奇殺人者たちはみな、虐待によって脳を壊されていた。本人が関わることのできない、人格形成の途上でだ。やぶかれてしまったんだ。倫理や道徳を順守するには、まっとうな環境や状態が前提になくてはできない。脳が怪我をしている状態の人間には、難しいんだ」
 「だけど、そんなのどうしようもないじゃないか」
 「そうだよ、木下。どうしようもないんだ。一人の人間には、どうしようもない次元で、彼らは生きている。機械的な過労にせよ、暴力にせよ、壊された脳は時間を超えうる。すでに失われたはずの習慣を思い出したって、おかしくはない」
 煙をくゆらせながら、失笑した。
 「では、そうした欠如を意識している自己はどこへ向かうと思う」
 「さあ。僕にはわからない」
 「個人の完全性だよ。生は動く。ゆえに完全ではない。では完全とは何か。死だ。停止によって個人を芸術の観点、美の視点にまで押し上げようとする。醜さを嫌悪し、成長を忌み、現実に背を向ける。まるで病んだ信者のようだね」
 微笑を浮かべて煙を吐き出すと、灰皿の上に灰を落とした。
 「どんなものにも、良い面と、悪い面がある。閉鎖は固まることだが、自由とは一つの解体だ。開けてゆくことが過ぎれば、解体新書もうまいと思う人間が、増えてくるよ。個は、全体に対立しているように見えるが、そのじつ全体を象徴する、あるいは歴史の結果として生まれる、偶像の人形でもある。だが、そこに個の責任追及が降ってきたら?たちまち、世界は法に反した者だけを糾弾するだろう。そういうちぐはぐさが、人を裁くという行為のなかにはあるんだ。果たして、どこまでを犯罪者、つまり現場に居合わせた者の責任にできるのか、見物だねえ」愉快そうに声を上げて笑うと、ついに木下が「ああ、もう」と、うなり声を上げた。
 「君は、またそういう妙論で人を惑わす」
 「人聞きの悪い。これだって一般論だよ」
 木下は眉間に皺をよせて腕を組むと、ぐっと睨みつけてきた。昔から、僕の突拍子もない話しには、イライラを隠さない男だった。それなら、意見など求めてこなければいいのに、とも思う。
 「だが、極論が無ければ、未来など見えないよ」僕はため息をつくと、煙草の先を木下に向けて笑う。「君だって、さまざまなピラニアに喰われかけていると、自分でさっき言っていたろう。それは、君も犯罪者と同じ、現場にいる人間だからだよ。例えば、警察内部に現在、立ち込めている暗雲が、外に吐き出されたら、それこそ市民暴動どころじゃない。人々を、暴力から守るものがいなくなるのだ。こんな島国いちころだろうね」
とんでもない!と、木下は煙草を庭に吐き出すと、立ち上がった。
 「馬鹿を言うな。人には理性ってものがあるんだ。そう簡単に、暴発なんかするもんか」
 「そこだよ、木下」僕は人さし指を立てて、それを左右にゆっくりと振った。「あの歌は、人の理性を破壊し、たやすく境界線を越えさせる。そのくりかえしによって、別の習慣をつくりだす。新しい法なのさ」
 ようやく、僕の言いたいことを汲み取ったのか、木下はますます顔色を青くして、その場にうなだれてしまった。落した吸いがらの先で、雑草が赤々と燃えはじめたが、やがて黒く焼け焦げて消えた。


     八へ続く



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