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静寂の歌 2-7

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    七

 影は、空地の裏に立つおんぼろアパートの前で立ち止まると、またこちらに向かって引き返して来た。おそらく、これまで歩いてきた道を戻って、同じことをくりかえすのだろう。それだから、時折、霊感の強い人間に目撃されて、幽霊だ、何だ、と騒がれる。だが、大抵の場合は生きた人間の残した思念体が、同じことをくりかえしているだけなんだから、なかなか愉快な事実だ。
 僕のそばを通り抜けようとした山下とも子の影に、塩をふりかけた。ずるずると、溶けて消えてゆくと、黒い灰のような塊が足元に残る。しゃがみこんで、その影のあとをなでると、アスファルトの上に、一連の情景が浮かんだ。
 とも子は深夜、目を覚ますと折れた左足を引きずって、家を飛び出した。どこへ向かえば良いのかわからず、大通り沿いに進んでいると、一人の男に声をかけられた。男は、不精ひげをたくわえていたが、やさしい声をしていた。名前を、夏木昇と言うらしい。とも子の様子のおかしさに気づいて、しばらくの筆談のあと、自宅へと連れて行った。それが、目の前のおんぼろアパートだった。二○一号室、と書かれた扉の前でとも子は立ち止まり、そこで情景が途切れる。
 「夏木、昇?」
 どこかで聞いたことのあるような名前だった。僕は立ち上がって、しばらく思案していたが、ふとおんぼろアパートへ目を向けた。錆びた鉄格子の向こうで、とも子の記憶にも浮かんでいた不精ひげの男が、一人立っていた。
 そいつはくたびれた茶色い毛糸を上からはおり、油絵具のこびりついたズボンのポケットに手をつっこみ、煙草を口にくわえていた。こちらに一向、頓着することなく、ぼんやりと空を眺めている。その横顔には、やはり見覚えがあった。
 「おい、夏木」
 試しに名を呼んでみると、夏木はゆっくりと頭を下げて、僕と邪植を見下してきた。そうして、一度だけ眼を見開いてから、すぐ不機嫌そうに眉根をよせて、煙草の煙を吐き出した。
 「あんた、もしかして坂島赤也か」
 やはりそうか、となつかしさに目を細めた。夏木昇とは、大学時代の同級で、木下から紹介されて知り合った。変わった男で、とんと学校へはあまり顔を見せなかったが、自室にこもって絵ばかりやっていた。
 何度も留年をくりかえして親を泣かせていたが、ようやっと卒業した。そのあとすぐ、えらい画家に目をつけられて、個展などを開いてそこそこ有名になっていると聞いたことがあったのを、いま思い出した。
 ずいぶん変わったなあ、と見上げてみたが、金に興味がないのは相変わらずのようだ。まだ、こんなおんぼろアパートに住んでいるんだから。
 「何か用か」
 「ちょっと聞きたいことがある。上がっても良いか」
 「良くない」
 「じゃあ、降りて来てくれ」
 「嫌だ」
 「なぜ」
 「わたしは、あんたが好きじゃないからだ」
 実直な男だ。それも変わらずか。僕は久しぶりに愉快になって、大きな声で笑った。隣で突っ立っていた邪植が眉間に皺をよせて、腕を組んだ。「嫌な男ですね」と、小声で言ったが、「なに、そういう男なんだ」と、返して笑う。アパートの前で騒がれるのが嫌なのか、夏木はしぶしぶ、階段を降りてきた。
 「まったく、相変わらず腹が立つ。あんたのそのうす気味の悪い笑顔が嫌いなんだ。なにより、わたしより良い男なのが嫌だ」
 僕はそれに苦笑を返しただけだったが、邪植は、ちらちらと落ちるフケを見ながら「あんたのどこが、いい男なんだ」と、言って眉根をよせていた。
 「まあ、いろいろ言いたいこともあろうが、いまは我慢してくれ」
 「何だ」
 「人を探してるんだ」
 「なぜ」夏木の双眸をじっと見据えるが、一向そらそうともせず、胡乱な視線を返すだけだった。
 「行方不明だからだ。だが、最近ここら辺りで目撃されている。前髪の長い、中学生くらいの女の子だ。左足を怪我している。知らないか?」
 夏木はしばらく考え込んでいるようだったが、ふと、顔を上げるとまっすぐに僕の双眸を見つめてきた。
 「知らん」
 「本当か?」
 「本当だ」
 しばらく沈黙が続く。夏木は嘘をついている。それは、情景の断片を追って来たのだから、間違いない。
 しかし、この男は人が嘘をついている時にやる、大概の仕草や態度を、少しも見せない。内心でいかに動揺があったとしても、見せない。泰然としたその表情には、微塵も隙がない。大した男だと思う。僕は、微笑を浮かべて「なるほど」と、つぶやいた。
 「もういいだろう」
 夏木は仏頂面を崩さずにそうつぶやくと、返事も待たずに、踵を返して鉄の階段を上がって行く。その動作の一つ一つも、ゆったりとしており、焦燥感は見られない。おそらく、手のひらに汗もかいてないだろう。僕は微笑を浮かべたまま、その大きな背中に向かって声をかけた。
 「最後に一つだけ良いか」
 「何だ」
 「君はいま、何の絵を描いてるんだ」
 このときになって初めて、夏木が動揺を示した。くわえていた煙草を吐き出すと、それを足で踏み消した。ゆっくりと振り返って、黒い双眸を細める。
 「聞いてどうする」
 「聞いてみただけだ」
 「別になんでもないものだ」
 「なんでもないなら、見せてくれ」
 「嫌だ」
 「僕が嫌いだからか?」
 「ああ」
 「じゃあ、ここで待っているから、上からでいい。ほんの少し見せてくれ」
 「無理だ。サイズがでかい」
 「そんなら、僕がのぞこう」
 そう言って、階段に足をかけると、夏木は一瞬眼を大きく見開いたが、また平生を装って、仏頂面に戻した。それでも口のはしを、ひくつかせている。あんたはどこまでずうずうしいんだ、用がないなら帰りなさい。
 なに、そう忙しいこともない、旧友にあってなつかしい気持ちになって何が悪い。わたしとあんたがいつ友人になったって言うんだ。そうこう押し問答をしているうちに、鴉の姿に戻った邪植が、僕たちの頭上を悠々と飛んで行った。
 さきほどまで僕のそばで不機嫌にしていた黒衣の男が、まさか鴉になって、自宅に侵入しようとしているなど、夢にも思わないのだろう。未だ、夏木の注意は僕に向いていた。しかし、邪植が玄関扉の前で人型に戻ると、「あれいつの間に」と、あわてて駆けあがって行った。が、遅かった。
 鍵を閉めていなかったのだろう。邪植がドアノブを回すと、すんなり開いた。一度こちらを見て、にやと笑ったが、すぐに灰色の扉の向こうに消えていった。


    八へ続く



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