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第15怪~生まれてきたのが親不孝

「お前は川のたもとで拾われたんだよ」

ってな「お前は〇〇川の橋の下で拾われた」や、「〇〇川の河川敷で拾われた」等の、突然親からお前は拾われた子供カミングアウトシリーズ選手権、皆さんはどの川デスか?

ちなみに僕は寝屋川の橋の下でした。

ってOi!
何故、団塊世代の親たちは、こんな誰トクやねんジョークを、幼き子供達の心に植え付けたのであろうか?

トラウマレベルで凹む子もあれば、「またまた~オカンそんなん言うてからに、大和川に捨てたろか~!」ってツッコミを返すじゃりン子も居たであろう。ちなみに僕は純粋なピュアモルトだったので、三日三晩仏壇の前で泣きじゃくり、本当の母を訪ねて山崎千里、まじかるバナナ、バナナといったらベルベットアンダーグラウンド、アンダーグラウンドといったらストロベリーソングオーケストラ、ストロベリーソングオーケストラといったら座長、座長といったら僕!

お憑かれ様デス!
生まれてきたのが親不孝、宮悪戦車デス、毎度!

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という訳で、一昨日になるのかな?
3月7日、僕、誕生日でした!(パチパチパチパチ)
※ちなみに本日9日は息子のHANバーグ君の誕生日でもあります。すまんよ、こんな黒歴史だらけのゴッドファーザーで…

いやいや、みんなお誕生日プレゼントなんかいいんだよ。
君達がいるから僕がいる。だからナニも要らないんだよ。
いや、大丈夫だって!…いや、ほんと、キムチ、いや、気持ちだけでいいから!
え!ほ、ほんと大丈夫!いや、いや、ホント、そんな気を憑かわんでも…

って、そうかい?じゃあ貰えるもんは貰っておくよー、って包み紙を開けたら非常食の『カンパン』が一袋ってな事が昔あったなあ(遠い目)

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いやいや、冗談はさておき、一年経つのがめちゃんこ早いデスよね。
僕なんか、つい先日成人式を迎えたような気がしてならん!(もう痴呆が始まってるんデスそれは)

このnoteも気が憑けば記念すべきストロベリーのイチゴ、15怪目!(拍手)

という訳で、今怪の『仮分数のヒトビト』はストロベリーソングオーケストラ結成当時から唯一のオリジナルメンバーであり、歌えば叩かれ、踊れば死霊のボンダンス、わたくし、宮悪戦車の生き様を、

座長生誕記念として無料公開で過去記事をリライトしつつピックアップして逝こうかと思います。
※記事の最後にある特典のみ、毒者登録者の方だけ閲覧できます。

って、まあ、アメブロや色んな記事に僕の人生記録みたいなんゴロゴロ転がってるかと思うんデスが、このnoteで宮悪戦車を知るのが初めて!ってな危篤、いや奇特な方も多々おられるかと思うので、古参の共犯者の方は『ねえねえ座長、もうこの話108回目だよ!』なんて仰らずに、咀嚼しながら読んでってくださいよ。

それではストロベリーソングオーケストラのART OF LIFE『胞衣の劇場』の歌詞にも登場する、座長・宮悪戦車の生誕、昭和49年3月7日にワープ!!

ちなみに…
昭和49年って何があったんかいな?と調べてみました。

セキグチがモンチッチ人形を発売しました。

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モンチッチhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%83%E3%83%81

僕の8歳離れた妹(通称:ピック)が大事にしていた人形がモンチッチで、このモンチッチ(我が家のモンチッチの名前は‘‘もうたあ‘‘でした)を使って良く遊んであげてました。お人形遊びなんデスが大概の題材が殺人事件という、今と全く変わり映えの無い世界観を当時妹に植え付けていたのデス。
で、以前妹夫婦一家とご飯を食べに逝った時、妹夫婦の娘(当時5歳くらい)にこっそり「メメントモリ」という言葉を教えたら、語感が気持ちよかったのか、その食事中、ずっと「メメントモリ~メメントモリ~」と連呼していたので、妹旦那から本気で「お兄ちゃん、ウチの子に変な言葉教えんといてもらえますか!」と怒られたのが懐かしい思い出デス。死を恐れるな!!

も、モンチッチ、かわいい。。
と、逝ってる場合やない!

な、なんと!
ガスタンクのロックバラードがDEAD SONGなら、ストロベリーソングオーケストラのロックバラードはまさにコレ!的な『包丁ロマンス』に登場する、

♪〜
買って貰った猿人形には
包丁が握りしめられ
気をつけないと後ろから
プスリとひと突きされるぜ

の、猿人形のモンチッチやないか!
と、モンチッチと共に哀々哀々お猿さんだよ〜と歌い続けて47年。

そんな47年中、33年間、今も尚音楽をやり続けてきた僕デスが、どんな少年だったか改めて振り返ってみましょう。

ガスタンクhttps://ja.wikipedia.org/wiki/GASTUNK

このバンドが存在してなかったら現在の僕どころか数々のレジェンドバンドは居なかったかもな天の上に居る超絶レジェンドバンド。僕も高校の時にドラマーとしてガスタンクのDEAD SONGをカバーした経験があります。文化祭でも披露しました。
そんな2年前位、東京のイベントにストロベリーで出演した際、僕達のライヴへ、わざわざexガスタンクのPAZZさんが観に来ていただいた時は鼻血が出そうでした。


さて、とりあえず僕の音楽遍歴を書いてみますか。
まず、よく初めて買ったレコードは何デスか?(CDやカセットテープの人もおるな)てな質問匣あるじゃん。

ああいった類でバチバチのロック関連のアーティストを挙げる人、僕108%「え!ほんまに?格好つけてへん?」説を唱えたいんやけどホンマか?と、かく云う僕もホンマか?ってなアーティストのレコードなんすけど。

僕が初めて自分のお小遣いで買ったレコードが、映画「ネバーエンディングストーリー」のテーマ曲を歌ってはったリマールってヘアスタイルがヤン毛の外国人のレコードでした。

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ネバーエンデインングストーリーhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC

当時クラスメイトの話題はすべてこの映画。
僕もかなり遅れて後日映画館で観る事になりますが、本の世界を伝えるこの映画の世界観も少しは影響されているかもしれません。

って違うやろ。影響されてるの絶対ドグラマグラやろ。脳髄でちゃかぽこちゃかぽこ鳴り響いてるでしょ。


何故コレかって?これには僕の幼き家庭環境が影響されるのでやんす。

これは度々ブログやらTwitterやらで書いたり、ライブのMC・漫談で言うたりしてますが、僕、初めて映画に連れてって貰ったんが、スプラッター映画の金字塔「死霊のはらわた」と、まあ、モッくん&広末涼子さんよりも、とっくの昔に冠婚葬祭の葬祭部分を切り取っていた伊丹十三監督の「お葬式」といったヒューマンドラマを、当時小学校3年生の時に母に連れて行って貰ったのが人生で初の映画館デビューなんデス、、。しかも同じ日にダブルヘッダーで。

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死霊のはらわた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E9%9C%8A%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%82%89%E3%82%8F%E3%81%9F

お葬式
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%91%AC%E5%BC%8F

森に逝ったり、魚屋さんでタコを見たら興奮するのは秘密デス…

朝早くのモーニング回に「死霊のはらわた」を見て、大丸だか阪急百貨店の食堂街でオムライスを母と食べながら「なんか物足らんな、もう一本見るか?」と、連れて観せられたもう一本の映画が「お葬式」デスよ。

スプラッタームービーを小3の息子連れ回して観てるんやで?お憑かれも出てるであろう、小3の僕の事はお構いなしに、何故に中休憩挟んで伊丹十三ってな個性強すぎなヒューマンドラマに連れて行く?

当時、日本はスプラッタームービー全盛期。そして、伊丹十三がメキメキと日本映画界で頭角を出し始めた頃。所謂母はミーハーだったのだ(ベクトルの違った)

で、小学3年生だった宮悪戦車は、死霊のはらわたで嫌悪感を増す所か、大ハマリ。悪霊が木々に宿り、主人公アッシュの妹・シェリルが、森の中で、その木々に淫らな行為をされるシーン、そして、お葬式の劇中、主人公の山崎努さんが、高瀬春奈さんと森の中で交わるシーンに覚醒。
僕の中で【森=ガール】という歪んだ概念が生まれ、過去に流行った『森ガール』という方程式が生まれると共に、高瀬春奈さんの様な眼鏡喪服熟女にも興味を示す様になる。僕の人格を担ってきた2つの映画を軸に僕の性癖が歪んで逝きます。

小学校3年生の若さで、この「お葬式」のお陰で高瀬春奈さんのファンになってしまってます。責任取ってくれオカン!(映画好きだったオカンは2011年にサヨナラ、サヨナラと他界)

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高瀬春奈
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%80%AC%E6%98%A5%E5%A5%88

このなんとも「THE・日本人」な体型、そして表情がとても痺れます。この眼鏡なんかも最高!上記にも挙げた山﨑 努さんとの「森」のシーンで性の目覚めを覚えた奴は素直に挙手するのだ。

で、話を戻してなんで初めて買ったレコードが「ネバーエンディングストーリー」のレコードやったかと云うと、まあ皆さん推測通り、当時流行していた映画が同映画デスよ。愛と勇気、そして冒険。まあ子供と一緒に観たい、観せたい映画ナンバー1デスよね。アンパンチ!!

当然、同級生の皆が学校で口ずさむ訳デスよ。♪ネーバーエンディン〜スト〜リ〜ハァァァァァァって。方やこちとら死霊のはらわたデスよ。教室の片隅でタン・ディエル・マン・ノウ・マン・ツィーゾン、、カンダ!って牛乳ダラダラ吹き溢しながら叫んでんすよ。現代の疫病流行期でやったなら即吊し上げデスよ。

スクール内での村八分化を防ぎ、クラスメイトと口合わせする為にリマール買いますわな。小学3年生ながら自己防衛機能働かせていた自分に称賛を。まあ、でも今自分がこうやって生きてきたのも死霊のはらわたや、お葬式があったからだと思うとオカンには良い意味で「何してくれとんねん」デスけどね。

リマールのレコードはそれこそA面の主題歌よりもB面に入っていた「象牙の塔」というインストゥメンタルばっか聴いてて、それから次に買ったレコードは確か荻野目洋子さんの「ダンシングヒーロー」やったような気がする。

これも流行っていて、学校で皆が歌ってからなんデスよね。み、皆んな何歌ってんだろ、、ってオイ。僕、なんか場の空気に合わせよう、合わせようとしているご機嫌取りみたいになっとりゃせんか?そんなんじゃなかったんデスけどね。

で、他に購入したのが当時これまた流行していたスケバン刑事のED、斉藤由貴さんの「白い炎」でした。ってロック要素・アングラサブカル要素がまるで無い!音楽履歴と語る程、何も履歴がねえ!オラの村には音楽ねえ!

と、昭和のアイドルも聴きつつ、こういったホラー映画やら、日本映画を見つつ、それ以上に多大なる影響を受けるモノが出てきます。

R先生デスよ。

え〜僕がここで云うR先生とは勿論「こんばんは〜」から始まる軽快なマイクパフォーマンスでお馴染みのラッシャー木村さん…では無く、日本探偵小説家の父・江戸川乱歩先生であります。


ちなみにストロベリーソングオーケストラ公式YouTubeでも公開しました演劇作品「拝啓、R先生〜或ル匣ノ事件簿」は勿論共犯者の皆は観てくれましたよね。え?まだ観てないだって?なんだとグォオラァァァ!そんなモグリな盲獣野郎は今直ぐストロベリーソングオーケストラ公式YouTubeチャンネルを登録していただいて、ポチッとクリック、冷たい麦酒と小粋な肴を嗜みながらご覧いただければ幸いでして…

僕、宮悪戦車を構築するバックボーンというか、バックグラウンドとなる人物が3人居まして、1人目がこのエッセイ「仮分数のヒトビト」でも度々登場する言葉の魔術師・寺山修司。
そして2人目が今回紹介致します、奇才・江戸川乱歩大先生。3人目が、東洋が誇る肉体派女優・かたせ梨乃姐というエログロムキムキマンな人選でありまして(次点で先程挙げた高瀬春奈さんが入ります)

そんなR先生こと、大乱歩先生との出会いは幼少期に遡ります。

激動の90年代J-POP界で活躍した平松愛理さんが歌う『部屋とYシャツと私』でさえも『赤い部屋』に変換される程の四畳半国家に住まわしき幼少時代を過ごした宮悪少年が、後に宮悪戦車という怪人二十面相を構築する奇異ワードに出会うのが小学5年生のTHEある日ィ。。

薄暗くなった夕方、小学校の図書室で、運命の本を選び読んでしまう・・・それが、日本探偵怪奇小説界の重鎮・江戸川乱歩による『青銅の魔人』だった。

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以前、雑誌「TH」の記事のインタビューで、「死想の血統」の著者・樋口ヒロユキさんとお話させていただいた際、樋口さんも「僕も初めて読んだのが、青銅の魔人でした」と仰っていた様に、この「青銅の魔人」は、乱歩ワールドの超入門編といっても過言では無い作品。

僕が小学校5年の頃、夕方の図書室で選んだ1冊がコレで、何故この本を選んだかというと、母からのホラー映画の怪奇趣味の影響を受けてだろうか、クリーチャー、怪獣にも興味を持つ様になり、日曜日の夜21時から放送していた「日曜洋画劇場」なんかで、レイ・ハリーハウゼンの「シンドバッド黄金の航海」が上映された日なんかは、テレビの前でかぶりついていたもので、その映画「シンドバッド黄金の航海」に登場する6本腕のカーリー神に魅了された僕が、必然的にこのカバー絵に飛びつくのは仕方が無い話で。

レイ・ハリーハウゼン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%BC%E3%83%B3

ストップモーションアニメの巨匠。上記に挙げているシンドバッドシリーズの他、日曜洋画劇場では「恐竜100万年」や「恐竜グワンジ」「タイタンの戦い」が放映されていて、それを当時観た宮悪少年は淀川先生と共に「怖いですね、怖いですね」とテレビの前でうなずいていました。

本題の「青銅の魔人」。読んだ人なら解るかと思うが、なんせ一気に読めてしまう探偵活劇そのもので、高級時計店から、時計を強奪する青銅の魔人(正体は怪人二十面相)と、名探偵・明智小五郎の決死の戦い(ラストは恐悪狂人團の伝説ライヴ如く、ヨット爆破!)、

そして、少年探偵団・小林少年の「チンピラ別働隊」なる、驚愕のネーミング集団の登場、次々に告げられる【犯行声明】に心躍らされ、そこからはもう無我夢中で、ポプラ社少年探偵団シリーズの1から図書室で借りては読み、祖母や親戚から図書券を貰っては、本屋でポプラ社の少年探偵団シリーズを若い発刊番号順で買いまくったのであります。

お気づきの通り、無茶振りな展開や犯行声明等、ストロベリーのコンセプトそのまま!というかパクりまくり!うぅむ、僕はこの「青銅の魔人」に出逢わなければ、一体どんな人間になっていたのであろうか?母の映画の影響でホラー映画にばかり感化され、ホワイトゾンビならぬ小麦粉ゾンビみたいなバンドを結成していたかもしれん。うーむ、大乱歩、R先生おそるべし・・・

そんなR先生に捧げる作品、ストロベリーでは『押絵と旅する男』『白昼夢』『屋根裏の散歩者』を。瀉葬文幻庫では『目羅博士の不思議な犯罪』を行っております。

で、R先生も宮悪戦車を構築する大事なパーツでありますが、先程も挙げた人物の存在もデカイ!

寺山修司デス。

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寺山修司の書物「家出のすすめ」に次の一節がある。

過去というのは「死の市」です。しかも完成品です。怒りによっては決して復元されない見事な彫刻のようなものです。

僕は寺山の作品に触れ、過去を振り返る作業というのは必要でもあり、不必要なものでもあるという事を、寺山修司に教えてもらった。

寺山の作品に初めて出会ったのは、中学1年。放課後、学校の近所に住んでいた親友であるA坊の家に度々遊びに逝っていた僕は、彼の家で、2人一緒に、ろくに弾けもしないフォークギターを掻き鳴らしては歌を歌い、遊んでいた。

夕方のテレビのニュースにあわせ、やれ人が殺された暗いニュースの時はマイナーコードを用い、殺人事件についてレクイエムを歌い、明るいニュースの時はCコードなんかを延々に弾き続け、陽気に歌っていた。

ある日の事、いつもの様にテレビを観ながらギターを弾いて遊んでいたら、A坊のお兄さんが、突然部屋の扉を開けて、こう言い放ってきたのだ。

「自分、こんなん好きなんちゃうん?読む?」と。

A坊の兄さんは、前身刺青が入ったバリバリの某ハードコアバンドのベーシストであり、僕やA坊に色んな音楽を教えてくれた、見た目とは180度違った心優しき兄さんである。で、差し出してくれた本が、 
 
書を捨てよ、町へ出よう 作・寺山 修司

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で、あった。寺山修司とのファーストコンタクト。
正直、読んでみたが、やれ自殺をススメてくる割りに、特例の自殺は批判したり、そうかと思えば喩えが、競馬だのサッカーだの家出だので、中学生の僕にはあまりにも暗喩すぎて、いまいちピンと来ずで、共感出来る部分がそんなに無かったのである。乱歩の怪奇幻想文学にはどハマりしたが、寺山には蝕まれなかったのだ。そんな寺山とのファーストコンタクトから何年か経った後、僕は衝撃の出会いをする。

映画「田園に死す」である。

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深夜放送だったか何の放送だったか思い出せないのだが、よくあんなパラレル世界な見世物絵巻をテレビで流したもんだと当時を振り返っても思う。

自分の部屋にテレビがある訳も無く、親に見つかったらどないしよう、とアダルトビデオを観るよりもドキドキしたのを今でも覚えている。何故、「田園に死す」を観ていたのか?その記憶も完全に吹っ飛んでいるのだが、小学校3年生からホラー映画好きな僕が、完全にその映画の虜になったのは言う迄も無く、一体誰が作った映画なんだ?とエンドロールで知るのだ。寺山修司と。

あ、家出の話の人だ・・・と、思い出す。

それからはもう夢中に彼の書物、映像作品を漁り、彼の行ってきた事件ともいえる歴史の事実を知り思うのだ、、、いつか、こんな人間になってやるぞと。まあ、結局はトドのつまり、寺山修司なんかには程遠い、なんちゃってサブカルアングラおじさんの代表みたいになった訳で…しかもただでさえ狭い界隈の、その狭き中での大阪代表というか。僕なんかは所詮、寺山修司の芝居の台詞で言うところの『お芝居と同じように、人生にも上手な人と下手な人がいるのよ』なんかなあと思っていますよ。

僕の中学生時代から高校在学中は空前のバンドブーム。尾崎豊に流れるか、Xに流れるか、ブルーハーツに流れるかみたいな時代。僕は当時、まさかのドラムを担当しており、歌を歌ったりする事は無かったんす。

ドラムってパートは今もそうなんだが、かなり人口が少なく、たいして巧くも無い僕でさえ、色んなバンドから声をかけられて、色んなバンドのコピーをする事になるんデス。他校のバンドでも手伝ったりしましたよ。

激しいロック、パンクバンドのコピーをする傍ら、僕はちょいとだけフォークギターが弾けたので、ドラムとは別に、録音機材であるタスカムというメーカーの4トラックのMTRを用い、自宅録音を16歳位から開始。当時大好きだったアルケミーレコードのバンド風にギターを掻き鳴らし、怪奇幻想文学、乱歩や、久作、そして、田園に死す的な世界観の詩を乗せては遊んでいた。

その当時の個人ユニット名が「轢死ノイズ」。
実は2001年だかそれ位に、限定15本でライヴハウス怪場でデモテープとして復刻して売っていたりするんやけど持ってる人おる?おったらダビングさせて欲しいんやけど。中原中也の「骨」という詩を軸に叫び続けている若かりし宮悪戦車の怨源がメルカリに売られていたら買い戻します、1500円位で。

そんな個人ユニットをしつつ、高校を卒業し、ダラダラと自宅録音ばかりしては誰にも発表する事も無く、家に数多のデモテープ集が出来る訳だが、流石に人前で、そういった活動を観てもらいたくなり、今では廃刊となった当時バリバリのパンク雑誌「DOLL」にてバンドメンバーを募集。当時の芸名が「ゾンビ宮」。

なんともいただけない捻りも工夫も無い芸名であり、僕が21か22の頃に、メタルパーカッションとヴォイスパフォーマンスとの実験融合隊「夢想回路むそうかいろ」に加入するのであるが、その頃の僕は、それこそライヒ、ノイバウテン、SPK、日本では芸能山城組、三善晃等にドンはまりで、パンク音楽には程遠く、パフォーマンスに重点を置いた活動をしていく事になる。が、そういったバンドは、ライヴを行っても、やはり動員も少なく、果たしてコレって人前で見せたいって事なのか?と悩んでいたところ、ある公演を新聞で知る。

1998年10月 京都精華大学〜昭和精吾 「寺山修司の世界」

ん?あっ!寺山修司!しかもあの映画のサッカー部のアメリカの国旗の人じゃん!

サッカー部の人というのは寺山修司が監督する映画「書を捨てよ町へ出よう」のサッカー部を演じている天井桟敷の孤高のアジテーター、昭和精吾氏(2015年の夏にお亡くなりになられました)。寺山の本を何冊も読み漁っていた僕は大興奮、何をトチ狂ったか原付のマグナ50ccで大阪から京都の山奥にある精華大学まで向かったんデス。まあ坂道の昇らんこと。

そこで観た昭和精吾氏の舞台。今でもハッキリ覚えている暗闇の中から聴こえてくる寺山の短歌。そして、昭和精吾氏の深みのある語り…そして公演後に配られた寺山の原稿のコピーの文句が、

ここには何もない 退屈はねずみだ
それを追いかける猫は想像力 おまえら

と書かれていたんデス。
ガツンと頭を殴られた衝撃を覚えた僕は「ダメだ、今すぐ動かないと」と、同月、演劇と音楽を結びつけたバンド、ストロベリーソングオーケストラの母体を結成するんデスよね〜。で、初めてやったのが難波ベアーズになるんデス。

衝撃の精華公演の後、僕は再び昭和精吾にやられてしまう。寺山の右腕だったJ・A・シーザー主宰の演劇実験室・万有引力が行った市街劇「人力飛行機ソロモン」の青森公演である。寺山の詩の中でもインパクト大な詩が、「人力飛行機の為の演説草案」なのだが、その詩をアジテートする昭和精吾氏。

僕はどんなバンドよりも、いつかこの人と一緒に舞台に立ち叫びたいと思い、ストロベリーソングオーケストラの演劇+怨楽=見世物パンクといったライヴスタイルを定める。そう、僕は寺山修司にもかなりの影響を受けたが、実際の影響は、昭和精吾、この人にあったのかもしれない。昭和さんありがとう。

時を経て2005年の5月4日、千日前クラブウォーターにて、ストロベリーソングオーケストラと昭和精吾の2マン公演、「妖怪道中~言葉の魔術師・寺山修司への道」にて、夢が実現するのである(こちらの記録映像、以前のnoteの特典で観れますよ)

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昭和さんとの共演の現実にメガネが割れかけたのは言う迄も無い。あー、皮肉にも、そんな大舞台の翌日、ストロベリーソングオーケストラの当時の団員殆どが一斉に脱退表明。昭和さんに教えられた寺山の呪縛と共に、僕は大きな物も失う事になったのである。頭がクラクラしたよ倉木麻衣。

その時のストロベリーソングオーケストラの作品は、寺山の言葉を幾つも織り交ぜ、実験映像「ローラ」を軸にした作品で、タイトルは「迷宮列車」。寺山の言葉を借りつつもオリヂナルの脚本。当時、世の中では悲しい列車事故があり、その事故で起こった虚構と現実の行く宛も無い列車の虚実の歴史は、たった一夜だけ、大阪で走る事を許されたのである。

僕は今迄アンケートといったものをライヴハウスで配布しては、目を通すものの、書いてくれた観客の皆さんに直接レスポンスする事は無かったのだが、初めてアンケートのメールアドレス欄に書かれたアドレスに、どうしても感謝の言葉を返したく、無我夢中で筆を取っていた。もう、ストロベリーソングオーケストラの活動はこれで終わりかもしれない、観てくれた人に、浜村淳が毎日呟く以上のありがとうを…狂う日も狂う日も毒電波放送1179…で、そこで出会ったのが、ロックスタァ・キリヒラランセというのは、このnoteの過去記事でも連ねてますが、いやホント、コレはまさに寺山の赤糸が紡いだ物語である。と、そんな時、昭和さんは僕にこう言った。

「お前が核でやればストロベリーソングオーケストラは歴史に残る」
 
と。だから僕がこの身朽ちる迄、寺山の文言じゃないが、墓場まで何マイルあるか知らないが続けていかねばならないのだと。ストロベリーソングオーケストラの共犯者の皆さんならお気づきだろう。まさに「血の軌跡が故の慟哭」の世界観のモデルになった瞬間デスよ。

同年、12月。その年に集まったとは思えない異例のスピードで、東京は初台ドアーズにて活動を再開。僕の寺山熱のきっかけともなった「田園に死す」の、私・少年時代の白塗り学生を演じていた俳優の高野ひろゆき氏と共演。高野さんのバック演奏として、「惜春鳥」「こどもぼさつ」の2曲を行う。

共演に三上寛氏。なんとも田園に死すじゃないか。寛さん、この時は「田園に死す」の「カラス」なんかも歌ってくれたりして。そういやこの時も昭和さん、初台ドアーズ観に来てくれたよなあ。客席から大きな声でヤジを飛ばしてくれたっけ。

あ、この日の打ち上げで高野さんにサインをお願いしたら、まさかの「田園に死す」では無く、特撮ヒーロー「バロム1」の子役時代の秀才君として書いてくれたのはやるせ無い気持ちでいっぱいゲルゲ。ヤゴヤゴヤーゴの子守唄を頭の中で鳴らしていたのは秘密デス。



と、今怪はここ迄。1万文字超えとる…
かなりの長文になったけれど、皆さんココ迄たどり着けたやろか?

さて、ここからは毒者登録していただいている方限定の特典になります。
今怪の特典は…昭和さんにちなんで、2008年5月に上演した寺山作品『レミング』を公開します!

アルバム『血の濫觴』がこの世に出る前の貴重な演劇影像デス。
演劇と怨歌による見世物パンクの真骨頂、是非ご覧ください!

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この【仮分数のヒトビト】では、ストロベリーソングオーケストラや伝説のコント集団・ストロベリーソングオーケストラ野球部、僕が飴彩里沙羅と行っている瀉葬文幻庫に纏わる秘話、そして毎回何かしらのレアな付録が憑いてきます。 共犯者の方は生ビールを一杯呑んだつもりで定期購毒、毒者と成り果ててください。(月に4~5怪の更新になります)

お憑かれ様デス! このマガジンでは関西アンダーグラウンドシーンで活動する、見世物パンク一座・ストロベリーソングオーケストラの座長である【…

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