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自分を大事にしてはいけない、と思い込まされている世界

 自己を犠牲にすることを強いられる世界にいたがる人が多い。そして、「◯◯なところにいて辛い」とこぼす。でも、実は「自分自身がそこにいることを望んでいる」ということ、そこに気づかない限り、その世界から出られない。そういう生き方をするべきって、思ってるのだ、結局は。私もそういうところがないわけではないけど、もっともっとこの「無意識の思い込み」が強い人がいっぱいいる。最初っから自分というもの自体持ってなくて、自分を形作るはずの要素をすべて他者に渡してしまうような感じの人。そういう人は、献身的に働くから、成果をあげて評価される場合もちらほら。評価されるから、それを見た人たちも「ああいう生き方がいい」と思う。

 ここから思うことは、「他者の評価や賞賛を求める時点で、ある意味自分を捨てている」ということだ。

 先日、ある研修会への参加を打診された。これに参加できるのは、あなたが評価されているからだ、いいチャンスだと言われて、一瞬喜んだ。が、ハッと我にかえった。宿泊を伴う、遠方での研修。参加するための準備も負担が大きいし、通常の業務を免除されるわけでもない。
 自分の状況を考えて、物理的に参加は難しいとすぐに気づいたのだった。普通は「はい。行きます」って答えるべきものらしいが、どうしても「参加する」とは言えなかった。結局他の人が行くことになったそうだが、後になって、いい評価を求める気持ちが私の中でまだ残っていたのか、と思った。もし、無理して参加したら、どうなっただろう、とも思った。ちょっと高い評価をされても、自分の心身と家族を犠牲にしてしまったら、無理をする意味はまったくない。自分のエネルギーは、目の前の業務と目の前の大事な人たちに注ぐために使うのであって、社会の中で形骸化しているシステムを正当化するために差し出すものではない。

 言葉は悪いが、今の社会のベースには「いかに搾取するか」という感覚があるので、それをわかった上で、自分がどう生きるかを決めて、そして決めたほうに進んでいく覚悟をもたないと、どんどん吸い取られて、空っぽになってしまう。何も考えず、社会の流れに乗っかっていっている時点で、自分を他者にまるごと差し出しているのと同じ状態になっているということだ。

 社会が悪いとか、自分には決める勇気がないとか、そういう言葉を言っている場合ではなくて、自分が望むあり方、望まないあり方をわかるかどうか、それだけ。社会を変える前に自分のあり方を決めるだけ。

 これからの世界では、自分のことは人任せにせず、自分で決める覚悟が本当に必要だと思う。

 

 

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