神道、わたしが道であり命であり真実、わたしを通してでなければ何者も神の元へはたどり着けない
自分は迷わず躊躇せず、ありのままの自分、それを見せることにした。この頭の中にあることを素直に表現する、それにより誰にどう思われてもかまわない、馬鹿にされ揶揄され見下され鼻で笑われても、それでもいい。何を言われようがかまわない。変人、異常、病気、何をどう思っても人の自由。それにより孤独となってもかまわない、この世界でたった1人となっても自分を生きる、始まりから終わりまでの、神の道のりを歩くために。
カルト宗教はやらない、教祖にもならない、これを教えとはしない。道は自分自身で見つけるもの、どう考え判断し今後どう生きるかは人それぞれの自由意思、個々の判断。何を信じて何に属するかも、それすらも自由である、それが神による秩序。
愛のある叱咤と、皮肉と揶揄、憎しみが込められた怒りは全く違うもの、自分はそれを理解してる。そして右翼左翼関係なく、悪意あるものは悪に他ならない。これは善悪二元論ではなく、善は悪ではなく善としてあり、悪は善ではなく悪としてある、それは揺るぎない神の秩序。それは解ってほしい。
神学において、聖書と哲学と科学は言葉の組み合わせにより作られる。言葉そのものが世界を作り世を形成した。新しい言葉を知れば新しい何かを思い出す。眠っていた宇宙の意識、記憶を呼び覚まし全てと一体となり交信する。知恵と知識だけでは到達できない神の絶対領域0、始まりから終わりの向こう側。
自分が話している内容は、宗教の布教でもないし説教でもない。そして何よりスピリチュアリストやニューエイジとはまったく違う、適当な言葉の羅列など記してはいない。
カルトの勧誘や布教でもないし人気やステータスを得るためやお金儲けが目的でもない。
はっきりと断言するが自分は統合失調症でもなければ妄想でもない、メサイアコンプレックスでもない。心の病でもないし何者か、カルトに洗脳されているわけでもないし、スピリチュアリストでもなければニューエイジでもない、陰謀論に洗脳されているわけでもない。思想主義に属してはいないし宗教には入っていない。誰一人として拝んではいないし陰謀論者の内容など殆んど見たこともない。
それでも理解した、陰謀論とは何か、政治がどういった目的で行われるものか。思想主義とは何なのか、何処から来たものか、何者がそれを操っているのか。スピリチュアルとは、ニューエイジとは、占星術とは、悪魔崇拝とは何か、我々は何者なのか。
科学とは何か、医学とは何か、それを操る目的、騙す方法、人の心理を巧みに操る術、分断対立する、させる理由とその目的。洗脳とは何処から来たものか、マインドコントロールとは何なのか。我々に本当の仮想現実を見せ続けてきたのが何者だったのか、なぜ幼少の頃からマンガやアニメ、映画やドラマで善悪の知恵を植えつけられてきたか。
全てを覚り、全てから目を覚ました。
世の中にある思想主義は全て人を支配するためにあるもの。何々主義、何々イズム、何々ニズム、と付くものは全てと言っていい、それらはカルト宗教と同じもの。自分を何々の主義者と定義付けカテゴリー分類した時点でその人は集団や団体としての一部、カルトの中に取り込まれたのと同じ。
そして宗教は主義でもなければ組織でもない、集団や団体でもないので、その根底にあるものは自由であり、神を信じる心だけあれば誰もが信仰者になれる。
必ずしも何々教に属し、十字架や数珠を拝み聖書を所有する人だけが信仰者と言うわけではない。神を信じるなら世界中の何処にいる人でも皆信仰者となる。
その組織として何かを作るのは特定の人間のお金儲けのため、教祖様を作り崇拝させるため、それは神のためではなく人間のためにある組織、団体や集団でしかない。
神への信仰とは個であり集団的なグループとして強制するものではなく、自分1人の心で自立して感じ信仰するもの。そこに支配下となる洗脳された信者や献金者など必要ない。
覚りそのものが信仰であり神を知ること。覚りだけでは自分自身を神としてしまうニューエイジとなり、そうなれば悪魔崇拝に取り込まれたのと同じで、そのニューエイジの根底にあるものはカバラやグノーシス主義といった神への信仰に反するものとなるので、そうなってしまえば獣の刻印、人間の数字666を受けし者と言うことになる。
この答えは非常に難しいかもしれない、何故ならニューエイジや占星術スピリチュアルを行うことそのものが神への信仰を妨げる、悪魔崇拝となってしまうから。信じる神は1つとしてあり、だからユダヤ教やキリスト教では多神教は禁じられてきた。
アーリア人のバラモン教の流れを持つヒンドゥー教や、善悪二元論のゾロアスター教、ギリシャ神話やエジプトの太陽神ラー信仰も多神教であり、仏教は人間が仏になると考える思想で、グノーシス主義、ヒューマニズムのニューエイジからのもの。
その中でも聖書に関しては最もスピリチュアル的な要素が強く、キリスト教における三位一体の概念に関してもこの世の全ての現象に一致し、契約の箱や三種の神器の解釈、そして宇宙で言えば太陽と月と地球の関係に照らし合わせても一致する。辻褄が合ってるし、間違いなく不思議な何かは籠められている。
聖書に書かれている内容は全て、それを表現し得る言葉を使った例えであり、創世記から終わりまでを明確に表現した言葉の繋ぎ合わせで綴られている。人類とは善悪を知った時点でウロボロスとなった、その永遠に終わらない支配の連鎖をずっと続けてきた。
その聖書と同じ流れを作るのは意図的な自作自演のようにも思えるが、その人間が行う自作自演ですら神の言葉通りとなるなら、そこに書かれた通りの出来事が起きたと言うことになる。そうなるようにした、と言うよりそうなった、自分で決めたつもりがそう動かされていた。生態系としてある動物の動きとは各々が勝手に決めて動いているわけではなく、それは本能としてある、そう動くための自然の摂理、流れでしかない。
善悪の知恵による呪縛を知った時点で、そのウロボロスの連鎖を止める術は存在しない、全ては必然であり自然の摂理、人間の進化と社会ですら生態系と自然の摂理が生み出した、神が導く流れによって発生したものであり、ダーウィンの進化論でも聖書の創世の例えでも、地球上で作られ進化したものは全て自然の流れのままに誕生した、始まりから終わりまでのパターンは予め決まっている。
最初は言葉から、その思想主義(マルクス主義)、による布教洗脳活動によりフリーメイソン光からイルミナティ(光を受けし者)、その闇が生まれた、闇はマルクス主義に対するバクーニン主義となる。
やがて悪魔の囁きにより、悪魔崇拝、ニューエイジカバラ数秘術に没頭したイルミナティはクリフォトとしての邪悪なる知恵、ルシファーによる善悪の知恵を授かる。その結果羞恥心を知り、それを善悪の知恵で操れば人の心を操り支配できることを知った。
その善悪の知恵をフリーメイソンを支配する目的で使う。
陰と陽の追いかけっこを永遠と続ける、それが人類。そこにあるのは善悪の知恵のみで、契約の箱なら生み出す力となる再生の光、マナの壺、消費する力となる破壊の闇、アロンの杖。三種の神器なら生み出す力となる再生の光、鏡、消費する力となる破壊の闇、剣…
そこには2つを繋げる勾玉と十戒の石板がない。勾玉は1つとしてあるように見えるが、実際にそれは2つの対としてあるもので、物事は何事にも必ず+と-が引き寄せ合うようにできている。
古代中国における道教でも、その陰と陽の破壊と再生の力による表現が影響する。その教えですら三位一体と同じ感覚の中にあり、永遠の生命を得るという神仙道にある神とはキリスト教における父と表現される神であり、仙は精霊を表している。キリストが例えた『わたしが道であり命、真実である、わたしを通らねば何者も神の元へたどり着くことはできない』、そう語った神への道としての神道と同じもの、神仙道では三位一体の中にある父と精霊、神と精霊の道を行くことが永遠の命を得ることだと解釈される。契約の箱ではマナの壺とアロンの杖、三種の神器では鏡と剣、その破壊と再生の力がアダムとイブでもあり、生命の実(セフィロト)、と知恵の実(クリフォト)、光と闇でもある。
グノーシス主義からの三位一体としての否定論を提唱した友愛のユニテリアン主義、フリーメイソンの思想主義では、その中から神の一部とされるキリストを外すこと、つまり反キリストを目的として広められたユダヤ人カバリストの策略でもある。
グノーシス主義によるキリスト教の否定と、破壊と再生のみにして善悪二元論の概念を正当化することに目的がある。三位一体からキリストを除外するのは三種の神器から勾玉を除外し、契約の箱から2つに割れた十戒の石板を除外することに等しい。
その2つの力を得ることがこの世の全てを支配する聖杯であると、自らがキリストとなり、十戒の石板となり、勾玉になる三位一体の力を得て支配すること、グノーシス主義とニューエイジである反キリストの悪魔崇拝者、知恵を重んじる優生学主義のフリーメイソンとイルミナティに属してきた思想主義者達はそう考えた。
全ての嘘を見破り、欺きに騙されない。物事の本質を知りそれを話すことができる、全てから抜け出す事は全てから目を覚ますことであり、悟ること、更に契約の箱と三種の神器に見える三位一体の聖杯を理解することが宇宙の真理を覚ること。
キリストの例えた道こそ神道そのものであり、それが勾玉であり十戒の石板そのもの、覚りとなる。
だから世界中のあらゆる宗教の教え、神学の全ては勾玉と十戒の石板に集約される。それこそが釈迦が得た覚りそのもの。
狭い門を潜る事ができるのは世界規模でほんの少数、だからその神の道を見つけるのが難しい。多くの人は自分の言葉など見えない、だから広い門へと誘導される。しかし自分は天の国へ入りたいとは望んでいない、それは神と天使が決めること、自分はそれに身を委ねるだけ。
命の書、それは生命の樹になる実であり、それを得られる人は限られる。永遠なる命を得るためには真実の神の道、神道を見つけるしかない。
『わたしが道であり命であり真実、わたしを通してでなければ何者も神の元へはたどり着けない』これが神道。
13から33までの始まりから終わりまでの道のりが神の道であり、それが神道である。20の生命を越えた先にある21を超えた先にある33、そこを更に越えて神の絶対領域0へと進む、そこが永遠の命のある全てを超越した無限なる場所。
世の始まりから発生した孤高の波動メロディ、素粒子の発生は水平なる静寂の中に一筋の光、電磁波を到来させた。光は闇を生み出しこの世界の天と地、惑星に光と闇、太陽を到来させる。
自分が思うことを思う存分書き記せば、それを読んだ人には、自分が何を話しているのか解らなくなる、だから自分は行きすぎないように制御をして書いてきたが、躊躇せず書けばこういった表現になってしまう。
あまりこういった表現はしたくなかった、これが適当な言葉の羅列や、人をアポフェニアに陥れるためのペテン話術ととらえられかねない、ましてやニューエイジスピリチュアルなどと一緒にはしてほしくなかった。
自分が話しているのは聖書の表現方法と同じで、神を前提として考える覚りと神学が基本としてある言葉であり、愛からの言葉。
最初は言葉から、始まりは13であり音、言葉から始まる。
無限なるそのメロディ、素粒子によるエネルギーの変化と変異、は泡、最小の素粒子となり小さなエネルギーの灯、ヒッグス粒子となる。その灯の組み合わせが色、光の反射による物質を奏で物質的な現像、相対性理論を形作ってきた。白の世界に黒を生み出し色を生み出し、そのメロディが続く限り宇宙の法則、永久機関、その色のエネルギーは形を変えて様々な物質へと変化する。
神が奏でる言葉の音楽を運ぶ精霊は全ての現像に入り宿り、振動説、あるいは論、その記憶、アカシックレコードを蓄積させる。覚えたての始まりから最終なる宇宙の記憶までが存在しうる全てに記録される。
善悪二元論は右の翼と左の翼、アダムとイブを操ること。それがこの世を支配する力、フリーメイソン光とイルミナティ闇による両翼による支配でありそれが我々を支配する分割統治として使われる陰謀の根元。
その三位一体を操れるのは神のみ。人間が操る道はウロボロス、最後の審判へと進む破滅の蛇道だけ。全ては心の動きであり振動、光の導きは心の動き、moving があるから恋があり愛がある、三位一体の動きそのもの。
狂おしいほどの恋、激しい悲しみの中に光り輝く美しき愛の聖杯、三位一体。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?