追い求めたら、こうなりました。
正しさ と 幸せ は相反する。
まずはそれを言いたい。
よく笑って楽しくて、特に何もしてないけど褒められることの多かった幸せだった時期→一人に目をつけられ執拗に自己否定をされる→おかしくなる、けど周りには見せられない、けどもはや無理→家庭も不仲、もはや心の置き場がない→大して行きたくなかったけどもはや勉強が未来への希望だったから頑張ってとりあえず合格→軍隊的思考高校のため自己を抑えすることだけする、という正しさを植え付けられながら生きる(幸せは感じない)→もはやまだ、いや更に色々おかしい、友達はいたけど現在の自分を受け入れられず最大級に嫌う、自己嫌悪、省略、いらない心配のおかげで大学に行くはめになる(その時点で私が進むべきことは進学じゃない、療養だと思う、でも聞き入れない、もうまじでここにいられない、正確だけ歪んでいく)→正しくはなさそうだけど幸せそうな人がたくさんいる環境に身を置く→何が正しいのか分からない→就職、仕事に励む→仕事は楽しい、だけとそれが私の存在意義になる、休みも仕事に励む生活を続ける、それが当たり前だと思う(まじめに生きるという美学)→段々不満も募る、でもやりたいこと(プライベートで)は特にない、辞めたいけど別な仕事で働きたい(働くことは好き)→自分を殺した時期を思い出し、色んな大人からのちぐはぐだらけの言葉を思い出し、反抗したけど否定されまくったことを思い出し、結果的に後に社会で出会った幸せそうな大人から出た言葉は反するものだったため、自分のいた環境を呪う→人のせいにしてしまう自分が一番悪いのは分かっている、重々分かっていると大人になったつもりで言うけど本心としては過去は子どもだったんだから私間違ってなかっただろ、って嘆きたい実際まじでねじこめてきた大人達に訂正させたい→過去は思春期だったからとか子どもだったからとか関係無くいまだってあの独裁的な環境に身を置いてしまったことを呪う、彼らの言動全てが高圧的すぎて自分の思考能力を停止させたことを恨む、私のSOSも家族には響かず自己を海の底まで沈めて生きてきた自分が結果的に褒められた生活、もはや空白の人格形成期→社会人数年、いまに至る(社会人生活のおかげでだいぶ救われましたみんな好き、でも無いっちゃ無い)
みんなそれぞれ、色んな人生があるよね。私だけじゃない。
何が?
不幸自慢なんて何にもならない、
人の人生、スタートも現在地も、みんなそれぞれ違う。
だから、同じに立つことを強制させないでほしい。
みんな一生懸命、生きている。
一人ひとりの自分の生活を、人生を、考えて動いて、生きてる。
正解なんてこの世にないくせに、「ある」みたいに、しないで。
正しく生きたいのは自分だったよ、一番。
正しく生きるには、幸せが一番だよ。
私は身をもって、知っている。
正しさを追い求めていたら、死んじゃった。
苦しくなって、殺してしまった。
実際に、そうしてしまった。
でも現実壊れなかったから、やっぱりそうなんだって思ったのいま。
実験をしたの。自分で自分に。
結果はこれですか?
実験前の予想は、正解ということで合っていますか?
実験的人間、どうよ????
泣いてたわ、あの時。
でもやっぱり理解は薄いみたい。共感は無理っぽい。
何なら、それさえも気づいてないみたい。
一番愛していたから、憎いんだと思う。 これは今日気付きました。
私はいまでも、子どもです。きっと子どもなのでしょう。
でもあの時大人だったのだから仕方ない、なんて言っちゃいけないよね。
聞き分けのいい子どもなんて、いらない。
いつか反撃されるよ、絶対に。
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