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信仰心を持たない日本人たちの心の拠り所について考える


「両親は無神論者で心のよりどころがなかった。
彼らには何もなかった。
信仰から得られる支えがね。」

Stutz

「信仰心」とは一体何なんだろうとずっと考えていた時に、たまたま知り合いにすすめられて観ていたNetflixのドキュメンタリーでしっくりくる表現がありました。

“幼少期に弟を病で亡くした一家の長男であるこのカウンセラーの男性は、出来事を機に精神的に親として機能しなくなった両親を支える必要があった”というこのシナリオは、一見ブラウン管越しの悲劇のようであって、実は私たち日本人も見過ごせない社会問題のひとつだと思っています。

今日は、自分なりに考察してみた日本と日本人についての見解を3つ書いてみることにしました。


「他人に迷惑をかけるべからず」の教育

日本人は他人に迷惑をかけないよう教育をされていることに気付きはじめている人は多いと思います。

私自身、イギリスで日系の会社で働いていた頃に、いつも何かというと車を出してくれていた現地の同僚たちに、田舎での暮らしをサポートしてもらっていました。

ある日「いつも申し訳ない(I feel badと言ったような…)」とお詫びを入れたところ、「なんで日本人はそんなに遠慮しているんだ?もっと頼ってくれればいいのに」と言われたことがあります。
イギリス人流の"建前"かもしれませんが、その彼は友人よりの同僚ともあり、海外で外国人として生活する私の役に立ちたいのだと言ってくれました。

ちなみにイギリスでは、交通機関でベビーカーや車椅子の利用者がいたら、サポートするのは運転手ではなく一般の人たちがこぞって協力してくれます。私の場合、大きなスーツケースを持って移動することが多かったのですが、こちらからお願いしなくても誰かが手を差し伸べてくれていました。

スーパーでは小柄なおばあちゃまが、たまたま隣に居合わせたタトゥーごりごりのガタイ系のladsに「ねぇ、1番上のバター取ってくれないかしら」とお願いし、当たり前のように「ん」と差し出すような光景にも遭遇したことがあって、日本だとパワフルな大阪のおばちゃんたちぐらいしかあんな絡み方のできる度胸は持ち合わせていないのではないかとも思います。

日常のなんでもないワンシーンでも、日本から一歩外に出てみると、いやでも他者と関わらなくてはいけないことが多いのは、海外にはさまざまな不便が存在しているからかもしれません。

いつぞやのベビーカーや車椅子の件でXが炎上していた際は、本当にレベルの低い世界線で人々が激昂しているなと少し違和感を覚えました。

他者に助けを求めなくてはならない立場の人たちは、肩身狭く決して目立たぬように過ごす必要があるのだということを、多数派という圧力で説いているような印象を受けたからです。

カウンセリングルーム a.k.a “掲示板”と呼ばれたコミュニティー

海外ドラマで夫婦がふたり揃ってカウンセリングを受けるシーンを見たことがある人は多いと思います。
また、仕事での悩みなどを相談する個人カウンセリングのシーンもよく出てきますよね。
日本だとトレンドワードでは「メンクリ」と呼ばれる精神科への通院がプロの力を借りた一般的な治療だと周知されています。
私自身は精神科にお世話になった経験は今のところはありませんが、恐らくクリニックの門を叩く最初の一歩こそ、とても勇気が必要な行動なのだろうと想像します。

需要に比べカウンセリングやセラピーの供給率が低い日本では、テクノロジーの発展の方が先で、インターネットが普及してからは「掲示板」と呼ばれるプラットフォーム上で人々が無数の情報を発信するようになり、それが転じて「自分と同じように生きづらさを感じている人が世界中のどこかで存在している」と知ることができるだけでも救われた人は多いんじゃないかと思います。

身近な人にこそ、平常心を払わなくてはいけないし、心の奥にあるわだかまりを解放しづらいぶん独りで闘わなくてはならない。
かつてウェブは、言葉のとおりそういったマイノリティが繋がることのできる場所で、少なくとも自分が自分らしくいて許される居場所が存在し、実際に会ったこともないどこかの誰かと孤独を共有できるコミュニティーだったのだろうと思います。

しかしながら、現代は「誰もが」利用する媒体になったぶん、ひっそりと自己表現していた人たちと同じ数だけ、もしくはそれよりも多い新参者が古参たちを袋叩きにする場面を散見するようになりました。
現実世界からの一時避難の場であったオンラインの世界は、もはや安全な場所とも言えなくなってきました。
むしろ匿名で姿を偽ったり、何者にでもなれるネット上を利用し、誰かの命を奪っていくことさえ起こってしまっています。

かつてのインターネットという別世界は、ニッチな人たちだけが集まることのできる隠れ家のような価値があった気がしていますが、それらはもう時代とともに取り壊しの段階に進んでしまっているみたいです。

そんな時代の変化にあわせて、精神科よりも気軽でインターネットよりも安全なカウンセリングやセラピーが、アメリカのように「WellnessやHealth」といったポジティブなイメージを持って健康志向の日本人に浸透すればいいのになあと感じています。 

(トレンドになったらそれはそれでまた別のオアシスが奪われていくことになるのかな…)

占い・カルト・夜職がビジネスとして成立する日本


マレーシアに来てから宗教がぐんと身近な存在となる環境で生活していると、ローカルの人に「あなたは何の宗教を信じているの?」と聞かれることが増えました。

いつもどう答えたらいいか迷ってしまっていたことを、素直に「答えるのがとても難しいトピックだと思う」と伝えたところ「日本人はスピリチュアルな思想に近いかもね」と言われたことがあります。

日本は仏教徒が人口の多数を占めているとは言われているものの、自分自身は「信仰心」と呼ばれる思想ににいまいちピンときていませんでした。
自身や周りの日本人が、宗教的なイベントに絡む機会を思い起こしても、年始や受験シーズン、安産祈願・恋愛成就など、オケージョナルには神頼みをする程度で、イスラム教徒のように、毎日の日課として神様仏様と対話することがないからです。

宗教観を持たない日本人たちが窮地に立った時、頼る先にはなぜか占いやカルトがあるので、これらが日本ではビジネスとしての需要が高いという話を聞いたことがあります。

VICEのこちらの動画は8年前にタイムリーで観ていました。「for Sale」というタイトルを付ける視点は、まさに日本人ではない方達ならではだと思いますが、彼女たちを買う大人がいるという夜の街の姿は日本人にとってはごく当たり前の景色でしかありません。

ここでは、そういった世界でプロとしてお仕事をする方達について言及するつもりはありません。なんなら、私自身がそちらサイドにいたことがあるからです。

何が言いたいかというと「需要があるから存在するサービス」であって、なぜこのような文化が元号を跨ぐほど昔から廃れずに令和の今もなおビジネスとしての需要が更に高まってきているのかを考えると、どうしても日本は寂しさを独りで抱えていかなければならないという宿命から逃れられないからなのではないかと感じたりもします。


#nowplaying


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