10年間変わらない想いと1年で変わった大切なこと
帰国して約2週間。
世界中のみんなが姿の見えない敵との終わりの見えない戦いに疲弊し、悲しみであふれる。
感覚や感性を麻痺させて、他人の言動に揺さぶれない強さを持たないと心が壊れそうになる日々。
日本のこと、これからのこと、ザンビアのこと
考えても答えはでないし、心がすり減るだけだからできるだけ考えないように気をそらして過ごす毎日。
”もういいかな..."
10年前から抱いてきた夢にも蓋をしてただ穏やかな日々を望みたくなる。
実家の自室には”国際協力” ”国際保健”と書かれた文献や資料がそこらじゅうにあふれ、いやでも目につく。
現場でもがいているときは、答えの見えない問いの連続で理想と現実のギャップはあまりに大きくて、もううんざりという気持ちになることが多々ある。それなのに、いざ離れると心惹かれときめいている自分に気が付く。
10年間、関心が薄れることなく目指し続けたフィールド。うんざりしつつもあきらめきれない自分がいる。
毎日のようにザンビアから連絡をくれる同僚たち。
日本での生活にあまりにも自然に溶け込んでいて、ザンビアでの日々が遠く感じられ現実身が薄らいでいく。唯一私がザンビアで暮らしていた証は、彼らの記憶のなかにいること。
赴任当初、なにもできない不甲斐なさで自分を慰めるように言い聞かせていたこと。
"一人でも多くのひとに名前を覚えてもらい、私もひとりでも多くのひとの名前を覚えて、任国そして地球の豊かさを語れるような経験をして日本に帰る”
私に国際協力に進む道標をくれたひとに宣言した言葉。
一時退避が決まり、同僚たちにそのことを伝える前の晩。どんな反応が返ってくるのか不安でたまらなかった。その反応は自分が一年間どう過ごしてきたか、どう接してきたかを、それを移す鏡だと思ったから少し怖かった。
でも誰一人ネガティブ反応をする人はいなかった。”逃げるのね”そんな風に思われることも覚悟していた。でもそんなことだれも言わなかった。
”絶対に帰ってきてね!”
”日本に帰ってからも連絡してね!”
”これでトークタイムを買いなさい。”
そう言って小銭を手に握らせてくれるボランティアさんもいた。
本来搭乗予定だった便が欠航になり、予定の急な変更に慌てる私に”タクシー、あたってあげるよ” ”パッキング手伝いに行こうか?” そう言って手を貸してくれる同僚たち。最後まで助けてもらってばかりだったけれど、ピンチのときに力を貸してくれる仲間がいることに気づくことができた最後の一日だった。
1年間で分かった現実の厳しさ、自分の不甲斐なさ 1年間で変化した大切にしたいことやものの優先順位
そして10年間変わらない国際協力、国際保健への想い
いまはどう両立していったらいいのかわからない。でもいつかバランスが取れた大人になれるように、想いを絶やさず関心を向けることを止めずに暮らしていきたい。
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