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今日会いに行きたい!気になる土偶#062弘前市立博物館

「折れたように切り離されていた土偶の上半身と下半身が、磁石のように惹きつけあったかのように繋がった。」そう研究者は言ったといいます。

愛称「奇跡の土偶」

2000年に青森県の学校の考古学クラブで遺跡へ出かけた小学生が拾った「上半身」と、2009年に研修者が発見した「下半身」が、約10年の時を経て繋がったという奇跡!

頭部と顔面の一部が欠損しているものの、合体した全身はほぼ当時の完成形を見せてくれています。

青森県弘砂沢遺跡
高さ20.1㎝、幅16.7㎝、

斜め上を向いた顔は小さく、表見は曖昧、
頭には髪型を表したような小さな突起、
左耳には耳飾りと思われる孔があいています。

小さな乳房に臍、
上半身と比べて小さな下半身には自立できるしっかりとした足。
顔以外の全身は細かな刺突文しとつもんで充填されています。

縄文時代の終わりに、土偶の造形の力点が顔面から体の文様へと移っていったことを良く表現している土偶です。

この土偶が見つかった砂沢遺跡は、
弥生時代前期の紀元前4世紀に、本州の最北端で稲作が行われていたことを示す最古の水田の跡として知られています。

青森県の霊峰・岩木山の北東麓に位置するため池で見つかったこの遺跡は、勾配のある地形に作られた、緩やかな棚田のような6枚の水田であったといいます。

水源は自然の勾配を利用した自然用水で、一枚の区画は長い軸で11m以上、短い軸で5m以上と、この時期のものとしてはかなり大きいのが特徴です。

この遺跡からの出土品は、水田で使われた農具のほとんどは縄文時代の石器と同様で、祈りの道具である土偶や土版なども「縄文仕様」のもので占められていました。

一般的に「弥生時代には土偶は作られなかった」
と言われることからも、
縄文時代の最終末の土器や土偶、道具類を受け継ぎながら、僅かながら弥生文化の特徴的な土器などが作られていた…と考えられるようです。

また特筆すべきことは、
この水田で稲作が行われていた期間は僅か12~13年であったと推定されていることです。

「思うように収穫が出来なかった」と考えてよいのかもしれません。そしてその困難な状況が「祈り」に繋がり、縄文時代から続く土偶という「祈りの道具」に託されたように思えます。

「奇跡の土偶」が教えてくれたのは…
その土偶としての形状だけでなく、縄文と弥生の狭間で水田稲作に果敢にチャレンジしながらも、今までの精神文化を受け継ぎながら生活をする人々の姿。

僅か10年ちょっと営まれた水田跡が発見され、そこから出土した土偶は、
やはり「奇跡」としか言いようがないようです。

参考図書
日本の先史時代  藤尾慎一郎著 中公新書

最後までお読みくださり有難うございます☆彡

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