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「太陽の塔」の中を知りたくなって|岡本太郎と関西大学博物館
関東に住んでいる私が今まで大阪へ行ったのは数回程度、そのうちの何度かで岡本太郎の「太陽の塔」を遠くから見たことがありました。
巨大なモニュメントは、勢いのあった日本の高度成長期の象徴?!のように感じたものです。
思えば、岡本太郎との一方的な付き合いはどのくらいになるでしょうか。
パブリックアートとしての岡本太郎の作品は数えきれないほどに日常的に目にし、美術館でもどれだけの作品を見てきたことか。
そして毎度のこと、この顔は何?この目は?この色は?と、いつもいつも問いかけています。それでも捉えきれない岡本太郎。
もはや〝作品が好きとか好きでないとか〟を超えている存在であるように感じています。
芸術家であり、民俗学に精通し、縄文土器を初めて〝芸術〟と捉えた人である彼の代表作の一つがこの「太陽の塔」。
岡本太郎の名前を知らない世代でも、〝なんか面白いかも?!〟と感じる魅力があるのではないでしょうか。
博覧会の閉幕後ずっと閉ざされていた塔内が、一般公開されてからもう直ぐ5年。何だか今いっそうに気になり始め、ようやく入場してみることにしました。
4つ目の顔とは⁉
モノレールの万博記念公園駅で下車すると、既に公園の緑の中から飛び出している高さ70m、腕の長さは片方だけで25mのその姿。
真下から見上げて改めてその大きさに驚きます。
太陽の塔といえば4つの顔があることで知られています。
塔の頂部の〝未来を象徴する〟「黄金の顔」、塔の中部にある〝現在を象徴する〟「太陽の顔」。
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背面の〝過去を象徴する〟「黒い太陽」
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そして万博閉会後から行方不明となり、現在は復元された第4の顔。この4つ目の顔「地底の太陽」を求めて塔内へ入場します。
入口から地下へと進むと、薄暗い空間に黄金に輝く「地底の太陽」が待ち受けていました。
この太陽は、人間の祈りや心の源…精神世界を表しているそうです。
万博開催当時はこの地下に〝いのち〟〝ひと〟〝いのり〟の空間があり、その〝いのり〟の空間に「地底の太陽」はありました。
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岡本太郎が残したこのインパクトのある太陽の4つの顔、いったいどんな意味を表しているのでしょうか。
この第4の顔「地底の太陽」が〝いのり〟の空間にあったことにもヒントがあるように思えます。
〝いのり〟は私たち人間にとって無くてはならないものであり、過去・現在・未来の3つの顔は第4の顔「地底の太陽」と、つまり〝いのり〟と強く繋がっていると…。
岡本太郎の思いの一片を、私にはそんな風に感じました。
地下空間には、岡本太郎が影響を受けたであろう世界各地の民俗的なお面や人形も展示されています。
その中でもひときわ大きく表されているのが、縄文時代の祈りの道具であるミミズク土偶の姿です。
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そして塔の中心部へ進むと、
螺旋階段が囲む、高さ41メートルの「生命の樹」が高くそびえたっています。
樹と共にあるのは、復元・修復された〝単細胞から人類までの進化の過程をたどる33種183体の生命〟。
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「生命の樹」は〝未来へ向かって伸びていく生命の力強さ〟を表現しています。
未来へ…果たして、これからも力ずよく伸びていくことができるのでしょうか?そんな一抹の不安を感じつつも、カラフルに彩られた生命体を見ながら螺旋階段を登っていきました。
昭和の名建築で土偶を見る
太陽の塔にあった大きなミミズク土偶、
実は万博公園からさほど遠くない関西大学博物館では、ホンモノのミミズク土偶を見ることができます。
広大なキャンパスの中にある関西大学博物館は、昭和レトロ感を漂わせる建築でも知られています。円形の建物は、もともとあった昭和初期の建物に1955年(昭和30年)建築家・村野藤吾によって増設されました。
昭和の名建築家・村野藤吾は大阪を拠点に活動し、東京の日生劇場や広島の世界平和記念聖堂などで知られます。1940年代後半から約30年にわたり、このキャンパスで40以上の建物を設計しています。
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建物入ってすぐ右手にある螺旋階段。
薄い床の上に美しい曲線を描く階段は、村野建築で度々見る姿です。
木製の手すりの自然の柔らかみは、階段をいっそう優美に見せています。
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2階にある博物館玄関は、高い階高と半円形の高窓のお陰で、開口部が少ない建物でありながら光が適度に取り込まれ、明るい雰囲気に。
思わず覗いてみたくなる〝小粋な博物館〟のイメージですね。
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常設展示場の円形の空間は、重厚にして洒脱な雰囲気。
縄文時代から古墳時代、奈良・平安時代頃までの考古学資料が展示されています。
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さて、縄文時代の土偶は…
こちらは遮光器土偶たち。
出土地不明とありますが、青森の土偶に似ているような感じがします。
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こちらは茨城県出土の山形土偶。
何とも豊満な胸元、トレードマークの〝山形の頭〟も完璧です。
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そして、右列の真ん中にいるのが茨城県出土の〝ミミズク土偶〟。
目、口、耳飾りが同じ〇で表されているのが特徴です。
名前の由来はミミズクに似ているから。
今は大部分が欠けてしまって顔だけになっていますが、完成形は太陽の塔にある姿と同じであったはずです。
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精巧に作られた縄文土器の数々も。
右列中央の台付きの土器は、明治~大正期に中を金泥で覆い防水をし、茶会で茶器や花入れとして使われていた可能性があるそうです。
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東北や北関東の貴重な縄文の遺物の数々は、広大なキャンパスの名建築と共に静かにゆっくりと時間を過ごしているようです。
晩年の岡本太郎は、主に顔や目だけを好んで描いていたそうです。
それらの個性的で力強い作品の数々からは、未だに溢れんばかりの情熱が感じられます。
その根底には、何千年前から変わらない、〝人間だけに許されている祈り〟があるように感じます。
*参考資料
太陽の塔リーフレット
関西大学博物館考古学資料
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