【世界史】世界恐慌〜リーマンショックまでの流れ
世界恐慌
・第一次世界大戦終了
アメリカ・・・自動車の開発や普及などで大発展を遂げており、それと同時に企業の株価はどんどん上昇し、NYダウ平均株価は6年で5倍まで成長していた。第一次世界大戦が終了した後、下記3国に対して大きな金銭的援助をしていた。
ドイツ・・・第一次世界大戦に敗れ、ヴェルサイユ条約により、イギリスやフランスに対して多額の弁償をしないといけない状態だった。アメリカから援助を受けていた。
イギリス、フランス・・・第一次世界大戦に勝ったものの、大きな経済的損失を抱えていた。アメリカから援助を受けていた。
・ウォール街大暴落
第一次世界大戦終了から、アメリカから経済的援助を受けていたヨーロッパ各国もなんとか経済回復に至ろうとしていた。アメリカからの援助が余り必要無くなった頃、アメリカではまだまだ株価が上がると思われていたが、1929年10月24日(木)、通称「暗黒の木曜日」にNYダウ平均株価が暴落し、その日から1ヶ月の間に50%以上、下落した。
第一次世界大戦終了後、アメリカは世界最大の債権国となっており、世界経済がアメリカに依存する体質になってしまっていたため、上記3国を含め、世界的に経済的影響が出てしまった。この事象を世界恐慌と呼ぶ。
・ブロック経済
世界恐慌後にイギリス連邦やフランスなどの植民地又は同じ通貨圏を持つ国が、植民地を「ブロック」として、特恵関税を設定するための関税同盟を結び、第三国に対し高率関税や貿易協定などの関税障壁を張り巡らせて、他のブロックへ需要が漏れ出さないようにすることで、経済保護した状態の経済体制のこと。
・ニューディール政策
大暴落を受けて経済が混乱していたアメリカが経済を活性化させようとした政策。アメリカ政府がダム建設会社を設立し、失業者を雇用すると言うもの。合わせて失業手当や年金の創設も積極的に政府が支援した。現代では珍しくない政策だが、アメリカと言う国は色んなシガラミから解放されることを目指した人たちが打ち建てた国で、政府は出来るだけ市民に関与しない、自由な国をモットーとしていた。そんなアメリカ政府がこんな政策を行うのは、当時からしたら、ほぼ初めての取り組みだった。
・第二次世界大戦のきっかけ
アメリカや、イギリス、フランス、ソ連などの国はブロック経済を行い、内部で経済回復を行なっていたが、ドイツやイタリア、大日本帝国などのブロック経済を行えない国は孤立していった。そういう国が発展するためには、他のブロックから領土を奪い取るしかないと言う発想に傾き、ドイツではヒトラーの独裁、イタリアではムッソリーニのファシズム、大日本帝国では軍国主義化と繋がっていく。
ブレトン・ウッズ協定
・ブレトンウッズ体制
第二次世界大戦後半の1944年7月、アメリカ合衆国のニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)で締結され、1945年に発効した国際金融機構についての協定である国際通貨基金協定と国際復興開発銀行協定の総称。「アメリカ合衆国ドルを基軸とした固定為替相場制」であり、「1オンス35USドル」と「金兌換」によってアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に保つことによって自由貿易を発展させ、世界経済を安定させる仕組みであった。
・IMF(国際通貨基金)
自国通貨の安定を義務付け、為替ダンピングを防ぐために作られた。この時、世界経済は「金本位制」であった。これは一国が発行できる通貨量の基準が金に置かれるという制度。この体制では世界恐慌に対応できなかったので、第二次世界大戦後に米ドルを基軸通貨とした「金・ドル本位制」を施工した。これは米ドルだけが金と交換可能にした制度である。これにより各国が金を手に入れるためには自国通貨をドルに交換する必要があり、金とドル、ドルと各国通貨をリンクさせ、金とドルの交換をアメリカが保証するという狙いがあった。さらに通貨価値の混乱を避けるためにドルと他の通貨の価値を固定にする「固定為替相場性」を導入した。
IMFは国際収支を安定されるため、赤字国への短期融資も行う。これは経済が悪化した国が戦争を行う可能性があるため。IMFの短期融資は加盟国の出資金から捻出されており、返済されなかったら大変なので、貸付国への内政干渉を前提としていた。
・IBRD(国際復興開発銀行)
通称「世界銀行」と呼ばれる組織。IBRDは戦後復興国や発展登場国への長期融資を行う。15〜20年の返済期間で低金利、国家予算へのダメージが少なく借りられる。IBRDの資金調達は「IBRD債」の発酵による民間からの調達になっているため、取り立ても厳しくなっている。日本もIBRDから融資を受けて、そのお金で東海道新幹線や名神高速道路を建設。高度経済成長の甲斐あって、1990年に完済した。
・GATT(関税及び貿易に関する一般協定)
ブロック経済を防ぐため、自由貿易を促進するために設立。関税の引き下げや輸入制限の撤廃などを行う。しかし、自由貿易によって自国の産業が重大な損害を被る場合はセーフガードの発令が許可されている。例えばとある国同士の貿易で、関税を上げすぎると輸入してもらえなくなってしまう。そうなると輸出側の国の産業が売れなくなってしまうので、結果的に経済損失に繋がってしまう。(輸入制限も同じ理屈)
ニクソンショック
・ニクソンショック
ニクソンショックとは、1971年にニクソン大統領が金とドルの交換停止を含む一連の経済政策を発表した出来事。アメリカは金とドルとの交換をいつでも保証していましたが、ベトナム戦争による軍事費拡大などが原因で財政が悪化。金が国外へ流出し、交換ができなくなったのが原因。
・スミソニアン体制
金とドルは交換停止のまま、新しい固定相場制を採用したのがスミソニアン体制。具体的にはドルに対する為替レートが切り下げられ、通貨の変動幅は上下2.25%以内に設定された。これはドル安を誘導することでアメリカの輸出増加を図るのが狙いだった。円の場合は16.88%の切り上げにより、1ドル=308円まで上昇。しかしスミソニアン体制は長続きしなかった。ポンドが8.57%引き上げられたイギリスは1972年6月に変動相場制へ移行。1973年には日本も変動幅に収まらなくなり、変動相場制へと切り替え。結局スミソニアン体制は1年半ほどで幕を下ろした。
・キングストン合意
金・ドル本位制が崩壊し1973年に変動為替相場制へ移行。各国の中央銀号が独自の判断で通過が発行できる管理通貨制度となった。金の公定価格廃止で金ではなく通過自体に価値が出るようになった。
・プラザ合意
1980年代前半のアメリカでは、前政権から引き継いだ高インフレ抑制政策として、厳しい金融引締めを実施していた。米ドル金利は20%にまで達し、世界中の投機マネーがアメリカに集中した。ドル相場が高めに推移したことで、アメリカには輸出減少と輸入拡大による大幅な貿易赤字がもたらされた。一方で、高金利により民間投資は抑制され、需給バランスは改善された。結果として、インフレからの脱出には成功した反面、国際収支が大幅な赤字となり、財政赤字も累積していった。インフレーションが沈静した後は金融緩和が進行し、アメリカは復活したと言われるほどの景気回復で、貿易赤字増大に拍車がかかった。金利低下により、貿易赤字国の通貨である米ドルの魅力が薄れ、ドル相場は次第に不安定になった。こうした状況の下、1970年代末期のようなドル危機の再発を恐れた先進国は、自由貿易を守るため、協調的なドル安路線を図ることで合意した。とりわけ、アメリカの対日貿易赤字が顕著だったため、実質的に円高ドル安に誘導する内容だった。これがプラザ合意である。
リーマンショック
・サブプライムローン
サブプライムローンとはローンの信用度が劣る低所得者層を対象とする住宅ローンのこと。一般の住宅ローンよりも金利が高めに設定されており、その分審査基準が緩和されている。サブプライムローンは、米国で2004年頃から不動産ブームを背景に急速に普及した。借入れ当初の数年間は金利が低めに設定されて、その後、金利が高くなる頃に、値上がりした住宅・不動産を売却して借入れを返済したり買替えたりするというように、不動産価格が上昇することを前提として利用されていた。また、サブプライムローンは、複雑な工学技術を用いて証券化され、米国の内外を問わず、多数の金融機関に購入されていたため、不動産価格が下落し住宅ローンが不良債権化した。
・リーマンショック
2008年9月、アメリカの有力投資銀行であるリーマンブラザーズが破綻し、それを契機として広がった世界的な株価下落、金融不安、同時不況を総称する。同社は低所得者向け住宅ローン(サブプライムローン)を証券化し販売したが、住宅バブルの崩壊とともに、結局は負債総額約6000億ドル(約64兆円)という空前の破たんを招いた。リーマンブラザーズ社の破たんは連鎖的に大手金融機関の経営危機を招き、金融危機を加速化させるに至った。
・リーマンショックの日本への影響
影響は大きく、実質GDP成長率は2008年がマイナス1.0%、2009年がマイナス5.5%と2年連続でマイナス成長となった。2008年末には、非正規雇用の契約を更新しない「雇い止め」や、派遣社員などの契約を打ち切る「派遣切り」などが行われ、会社の寮を出なければいけなくなった人たちが東京・日比谷公園に設けられた「年越し派遣村」に集まった。政府は2009年4月、「経済危機対策」を発表。総事業規模は56.8兆円だった。国民1人につき1万2000円(18歳以下と65歳以上は2万円)の「定額給付金」も給付された。
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