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”人生は自分の安全地帯を抜け出したときに始まるの”

友達がフェイスブックに書いてた"Life begins at the edge of your comfort zone"という言葉がすごく共感できて好きだった。
(comfort zoneというのは自分が居心地が良いと感じるところ。慣れ親しんだ友達のグループや環境など。edgeは縁、崖などという意味ですね)

なぜかというと、まさに自分の人生が自分の安全地帯の縁に立った時に始まったと思ってるから。
まー産まれたときから始まってはいるし、自分の価値観を広げてやりたいことを見つけれたというか、「自分の人生は自分で作るんだ、絶対に幸せになってやる」、とずっともがいてた中でやっと光が見えた感じ。もちろん周りの助けや支えがないと、私は何もできないし孤独なのだけど。

私は昔からすごく年上の人と付き合ってきた。中1のときに大学生、中2のときは32歳の人と付き合ってた。18歳で結婚したのは当時36歳の大麻栽培人だった。
14歳のときから一人暮らし&歳をごまかして働いてたのもあって、どこに行っても最年少で、付き合った人からも周りからも結構甘やかされてきたと思う。恋愛に求めるものは見た目、器のでかさ、経験や知識の多さ、顔利き度、彼氏イコール私のカウンセラーであってお兄ちゃんであって親友であってお父さんであって恋愛対象であって電気屋、修理屋、虫退治屋、タクシー、なんなら勝手にお金が貯まるお財布になってくれてた人たちもいた。
妥協とか価値観の違いとか歩み寄りとか何もわかってなかったから、付き合ってきた人たちは苦労したと思う。自分のことも大事にできてなかったから、相手のことも本当の意味で大事にできてなかったのかなと今は思う。

19歳のときに離婚して、引き続き自分のコンフォートゾーンにいた。それが日本人的には正しい価値観なのかと思う。別に海外どうこうって気取って言ってるんじゃなくて、安全•安定第一で慎重だっていう意味。生後1ヶ月の子を抱えていたから、もちろん友達が近くにいて知識や人脈のある地元に残って、息子にも幼馴染みとか作って、ママ友、ご近所付き合いもして、町内の子供会に入って、ってさ。

20歳のときに大阪に引っ越した。何かはわからないけど、何かしたくて、それにはお金が必要で、都会に出るに!って。でも東京じゃなくて私を育ててくれたおばあちゃんの地元である大阪にした。おばあちゃんのルーツを見たかったし、大阪弁がほっとした。地元静岡県の友達が当時仕事で大阪に住んでいたこともあり、最初数ヶ月はその子とハウスシェアして、私が夜バイトに行くときは友達に少しお金を渡してシッターしてもらってた。
大阪での夜の感じは静岡と全然違くて、何せグループが大きいしシステムがなってる。
系列店内で毎週細かい売り上げが出たり、ノルマも多かった。
指名本数とドリンクの売り上げでナンバーワンになり、それを半年くらい続けたところでお金が貯まったのでやめた。
大阪で色んな人に出会って、少し世界観が広がって、息子太一が1歳くらいのときに初めて2人で飛行機に乗った。場所は徳之島。海がすごく綺麗だった。

子連れ国内旅行が成功し、次はハワイに一ヶ月滞在した。それはWWOOFのような、庭仕事(庭といっても壮大な敷地)を1日2時間手伝えばホームステイ料金が無料になるというものだった。そのときに素敵な旅好きなママ友ができた。看護士さんで子供二人連れて女手一つで何もかもこなしてる、心の広いとても素敵な人。

それからバリに行って、スクーバダイビングのインストラクターの資格をとった。海さえあれば世界中どこでも働けるからだ。それでお金を作りつつバックパッカーのような旅をするようになった。

息子はまだベビーカーに乗ってたし、食べれるものも限られてた。
道は舗装されてないし、バイクだらけだし、逆走とか信号無視とか当たり前だし、海外で日本食は高価だし、東南アジアの屋台のご飯は嫌がって食べなかった。
バックパッカーホステルも子供禁止のところは結構多いし、体力も違う、長距離移動はトイレも気をつけないとだし、疲れて寝ちゃったら大きな荷物を抱えて太一をおんぶして移動しなきゃいけなかった。バスが12時間遅れとかも普通だった。疲れすぎ&重すぎで身体がバラバラに千切れていくんじゃないかと感じたこともあった。笑
スーパーに行くと2秒目を離したすきにお菓子コーナーを探しに迷子になってたし、治安も日本のように良い国はないと思ってる。旅中大きなおもちゃや荷物になるものは買えないし、太一が地べたに寝転んで泣き叫んで全身で訴えても、だめと言わなきゃいけなかった。そりゃー自転車とか、トミカ?プラレール?とか、欲しいよね。

でも旅はやめなかった。ダイビングに出会って、今まで知り合うことがなかったような人たちと出会った。英語を勉強して、世界各国の人たちと話せるようになって、日本という国、日本人という人種を外から見た。もっと見たいと思った。

子供のときから世界ウルルン滞在記が大好きで、テレビで見ていたものを自分の目で見て肌で感じて確かめることができる喜びが半端なかった。メディアで見るその国•イメージ、は全部が本当じゃなかったし、子供の頃から大人の理不尽不条理•ジャッジメンタル•バイアスが大嫌いで「自分の目で見た物しか信じない」「人はみんな平等で、年齢や肩書きで人を見上げる必要はない」と思ってた自分の価値観をやっと肯定された気がした。

実際人はみんな平等だし兄弟だし、海の水をとっぱらったら国なんて関係ない。全てを見たわけじゃない、でもリソースが少ない発展途上国の人の暮らしはシンプルで、なんで人はどんどん金を稼ごうとかどんどん暮らしを便利にしようとかしてストレスを作っていくのかと思った。私は見た目より経験にお金をかけたいし、wantはなるべく減らしていってneedの中で生きようと思った。

12歳のときから不眠で薬を飲んだりカウンセリングに通ったりしてたんだけど、それが治った、というか、肩から頭にかけてずーっと重くのしかかってた物がゆっくりと蒸発してるような感覚だった。

まだ3歳だった息子に聞いた。ママはもっと旅をしたいけど、どう思う?って。
息子は日本を恋しがってた。日本のお菓子、友達、アニメ、、、そりゃそうだよね。でも、ママを守らなきゃいけないから何処でもママと一緒に行くって言ってくれた。だから、太一が小学校に上がるまではママに時間を頂戴って頼んだ。
実際息子は本当に私のことを守ってくれた。

トラベル=トラブルとはよく言ったもんで、イスラエルのバス停で野宿したこともあったし、エジプトに最初に到着した時は空港から変なタクシーに乗ってしまって危険を感じたこともあった。26時間遅れのフェリーでようやくヨルダンに着いた時も下調べ全くなしでどこに行けばいいのか自分がバスでどこに着いたのかもわからなくて、道を歩いてる人を信じるしかないこともあった。

当時まだシムフリーの携帯を持ってなくて、WiFiがないと何も調べられなかった。でも子供を連れてるせいか、悪い人は寄ってこなかった。息子もそれをわかってるかのように、ずんずんと歩いて私を引っ張ってくれた。

私と同じくらいの歳の子たちはまだ大学に通ったり、親のお金で好き放題したり、責任がなく自由がある時間を思う存分楽しんでた。いくら太一が大切でも、父親母親両役を一人でやってると自分の時間が欲しかった。
日本人からは「そんなのわかってて産んだんでしょ?みんな同じだし、親としての自覚が足りないだけ。」という意見がほとんどで当たり前だと思うし、私もそう思う。ただ、みんな環境が違うからケースバイケースだと思う。

私がストレスフルでいると、息子が気を遣うようになった。息子は2歳のときから自分で汚した服は自分で手洗いしてたし、夜のバイトに疲れて週末の朝起きれずにいると玄関をホウキで掃いて靴を並べて洗濯物を畳んでくれてたし、私が泣くと息子も泣いた。

小さくてもなんでも話し合って決めるようにしたのは、全てを取っ払って旅を続けたのは、息子の幸せが自分の幸せになるように、息子も私の幸せが必要なんだと気付いたからだった。

アジアを少し旅してエジプトに働きに行った。そのとき中東とヨーロッパを少し旅して、息子が5歳になった。来年から小学校だねってなって、約束通りママは息子の与えてくれた時間で世界を見て散々楽しんだし、どこに落ち着こうかって。やっぱ英語圏だよねって。

アメリカは銃社会だし保険高いし、ハワイならいいよねってなったけどシングルマザーではビザがおりなかった。カナダとイギリスは寒いし、ニュージーランドかオーストラリアかねえ〜なんて。
でもダイビングのイントラじゃ自分でショップ始めて成功する以外、子供を一人で育ててくために貯金をするのは無謀だった。旅を決意したときに自分自信に精神的に約束していた通り、息子が小学校に上がるに合わせてその日暮らしをやめたかった。

小学生のときから哲学、心理学、医学が好きで本を読み漁ってた。今から医学は無理だな、看護師なら頑張れば勉強もついていけそうだし、いろんな国で永住権が取れる。
地元静岡は私が小さい頃からずっと東海大震災が来ると言われてるけどまだ来ない。もし来たら、浜岡原発も富士山も海もあるしたまったもんじゃあない、私が永住権をとれば家族もとれるので、そういうもしものときの日本脱出の術も持っていたいと思ってた。

ずっと、旅をしているときに見たストリートチルドレン、ワーキングチルドレンを助けたいなと思ってたけど、無資格無学歴のろくでもないシングルマザーに声は無いと感じてたし、自分は当時24歳で、中卒で、どうせ私の人生は語呂合わせだと感じてた。
お金のためにセックスとか結婚とかできないタチだし、自分の足で立たないと。今更遅いかもしれないけど、時計は止まらないし今が私の人生に残された時間の中で一番早いときだ、と自分にスイッチを入れた。

すぐに高卒認定資格をとって、安くて効果抜群だと噂のフィリピン英語留学に行った。オーストラリアの看護学校入学に必要なIELTSのスコアもクリアして、学費も無事借りれることになって、オーストラリアに引っ越して息子は小学校に入学した。
今は無事准看護師になれて、大学編入して正看護師のコースを受けています。落ちなければw今年の9月に卒業予定。

まだまだ実習に行くと自分の英語力のなさに自信をなくすし、人種差別もある。でも誰だって度合いに違いはあれど色んなことを抱えて生きてるし、こっちにいて日本在住ならではのストレスはなく生活できてる。
日本に帰ると、みんな同じところに住んでて同じことをしている。それが私にはまだできてないのだけど、その安心感がいつもどれだけ心のビタミンになっていることだろうか。

オーストラリアに来てからもいろんなことがあったけど、それは会ったときに話したり、こうやって気が向いたときに書き残していこうと思う。

私の全然更新してない旅ブログを読んでメッセージをくれたシンママがいた。最近はインスタやツイッターを始めたのでそっちからも来るようになった。子供を連れて海外移住したいと。私にできるアドバイスなら全然するし情報収集は一番大事だからね、そうやって行動に移していくのってすごいと思う。何より同じ志を持った仲間がいるって素敵。

日本人は協調性を大事にする一方、考え方がガッチガチでジャッジメンタルなことが多い。会ったこともない人に自分のやってることを否定されたこともみんな多かれ少なかれあるでしょう。自分の価値観を正義や常識と言って批判したり、一度の失敗を許さない国民性は私は本当に嫌い。


好きなことをして生きてくってすっっっごく大変だけど、行動に移さない人ほど見えない涙や努力を理解できずにディスるんだよな。でも、相手はそういうマインドセットの段階にいるんだなあ。と理解すればいい。自分自身が自分自身と一生付き合っていくパートナーだから、自分の気持ちを素直に受け入れて、自分に自分を証明してあげよう。
凹んでもいいし、逃げ出したくなってもいいし、休憩してもいいし、怒ってもいいし、自分を許してもいい。ただそのときに、誰か・何かに罰を与えてやろうとか自分を自分で被害者に見立てないことが大切かな、と今の私は思います。

では、かしこ。


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