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ボナパルト家を取り巻く女性たち - オルタンス編《4》出産、そしてホラント王妃へ

◆これまでのお話


母ジョゼフィーヌの再婚により、ナポレオンを義父に持つこととなったオルタンス。

年頃になりナポレオンの副官と恋に落ちますが、ボナパルト家との結びつきを強めたい母によって別れを余儀なくされ、更にナポレオンの弟・ルイとの結婚を勝手に決められてしまいます。

ここからの続きです。
今回で、オルタンスの人生前半戦が終了…というイメージです。

第1話: 我慢の子と破れた靴
第2話: 不本意だった母の再婚
第3話: 初恋と結婚

◆渋々の結婚

18歳のオルタンスは、もう子どもを持つことは難しいであろう母の為に、嫌々ながらルイと結婚する覚悟を決めます。



…しかし、それはルイも同じ。
「結婚が嫌なら断れ!」と怒り心頭だったそうです。



ここで、ナポレオンの弟ルイとはどんな人物だったのかを見てみましょう。

ナポレオン弟、ルイ・ボナパルト


ルイは兄ナポレオンと違って、戦いよりも勉強を好む学者肌。そして不器用で女嫌いでもありました。

オルタンスは、学校でも社交界でも注目される いわゆる「陽キャ」でしたから、2人はお互いを理解出来ず結婚当初からバチバチしていたようです。

ルイとオルタンス


ルイはオルタンスを慕う学院の先生や仲間達をも「自分を笑いものにしている」と距離を置いていました。

(ちょっと被害妄想が過ぎるのではという気がしますが、ルイは神経の病を患っていたと言われています)


他方オルタンスは、当時を振り返ってこう記していました。

「私の蜜月はこうして過ぎていった。結婚して最初の一か月こそが幸せに満ちている、と人は言うだろう。けれども私にとっては、この苦痛に満ちた一か月はこのあとの時間に比べればまだましだったという程度だ」
カンパン夫人: フランス革命を生き抜いた首席侍女
(白水社)

◆長男の誕生

最悪な船出の2人でしたが、結婚してすぐオルタンスは懐妊

しかしルイは懐妊を知るや、パリ北郊バイヨンにある屋敷の工事を監督するという名目で そちらの方へ行ってしまいました。

お陰でオルタンスは穏やかな妊娠期間を過ごすことが出来たのでした。



1802年10月10日、オルタンスは男の子を出産します。

男の子は伯父と祖父の名前をもらって「ナポレオン・シャルル」と名付けられました。

ナポレオン父カルロはフランス語読みでシャルル


ナポレオン・シャルルの誕生は、ナポレオンの後継者を待ち望んでいたボナパルト家にとって大きな希望でした。

◆皇帝ナポレオン

ここから2年後の1804年、ナポレオンはフランス皇帝に即位します。

ちょっとこの頃の情勢を見てみましょう。

ナポレオンは皇帝となって向かう所敵なし

ルイは兄ナポレオンの舎弟状態、

オルタンスは次男を出産、そしてナポレオンには逆らえないものの、相変わらずルイと仲が悪い

という感じです。

これが今後こじれてややこしくなります。

原因は、
ナポレオンの権力の揺らぎ
ルイのひねくれた性格
オルタンスの日和見主義

が挙げられます。

では続きです。


◆ホラント王妃に

ナポレオンが皇帝になって2年後の1806年。
彼は フランスの衛星国であったオランダへの支配を更に強める意図で、弟ルイを国王とするホラント王国を成立させます。

舎弟ルイを送り込んで、
オランダを思いのままにしようという作戦でした


オルタンスは 王妃として、ルイと共にホラント王国(オランダ)に渡る事となりました。


1806年6月18日、家族でハーグのハウステンボス宮殿に入ります。
オルタンスは23歳、長男3歳、次男1歳の時のことでした。

19〜20世紀初め頃のハウステンボス





オランダには嫌々ついて行った形のオルタンスですが、それでも新しい宮廷で王妃としての務めを果たしました。

応接間に旧貴族と新興貴族を集め、オランダの堅苦しい社交界に華やかなパリの風を吹き込んだのです。

ハウステンボス内・ブルーサロン
© RVBCornéBastiaansen



ただ夫婦仲は依然として悪く、オルタンスはルイから離れた部屋を選びなるべく顔を合わせないようにしていました。


◆長男の死

オランダに渡って1年も経たない1807年5月、長男がジフテリアで死亡します。

オルタンスと、亡くなる直前の
長男を描いたとされる絵




オルタンスは母ジョゼフィーヌとベルギーのラーケンで合流し、互いを慰め合いました。
 

ナポレオンは、5月20日付で "私の娘へ" として

「悲しみに区切りをつけなさい、
 健康を害さないように、
 他に慰めを見つけなさい」


と言った内容の手紙を書き送っています。


更に6月2日の手紙では

「あなたにとって子供は全てだったのですね。
 でもお母さんや私の立場は?
 元気を出しなさい、
 諦めも大事ですよ、
 お母さんをこれ以上悲しませてはいけません」


とも書いています。

いずれも"愛情深い父・ナポレオンより" と結んでいます。



しかしナポレオンの慰めも虚しく オルタンスはホラント王国には戻らず、次男と母と共にパリ郊外のサン・クルーで過ごしました。

ナポレオンが第2の住居としていたサンクルー城


1807年6月18日〜8月10日には、コテレ(コトレ)という温泉街にも滞在しました。
ハイドロセラピーという温泉などを利用した健康法が目的だったと言われています。


コテレ付近のスペイン橋を渡るオルタンス


◆三男の誕生

長男を亡くしてから間もなく1年になろうという1808年4月20日。
オルタンスはパリのセルッティ通り(現在のラファイエット通り)にあった邸宅・オテル ドゥ ラ レーヌ オルタンスで、三男シャルル・ルイ・ナポレオンを出産しました。

一般的な呼称は"ルイ・ナポレオン"なので
ここでもその呼び方で進めます
ナポレオンより与えられた、
オテル ドゥ ラ レーヌ オルタンス
現在は取り壊されています。



難産で体が弱い状態で産まれたらしく、オルタンスは「自分はすぐにこの子を失うだろう」と思ったそうです。

またオルタンスは女の子が欲しかったと回想録で語っていますが、ルイ・ナポレオンの祖母にあたるジョゼフィーヌはオルタンス似の孫の誕生を非常に喜び、ずっと可愛がっていたそうです。

《補足》
ルイ・ナポレオン―のちのナポレオン3世―は女遊びの激しい漁色家として知られています。
男遊びが激しかった祖母ジョゼフィーヌのDNAを色濃く感じます…

左から: ジョゼフィーヌ、オルタンス、
ルイ・ナポレオン




ところで、この時オルタンスの夫ルイはオランダにいて、出産、洗礼式には立ち会わず

しかし離れているからと言って夫婦間のわだかまりが無くなる訳ではなく、相変わらず関係は悪かったようです。


ルイ・ナポレオンの誕生から5ヶ月ほど経った1808年9月30日付の兄ウジェーヌへの手紙に、オルタンスはこう書いています。

「大切なウジェーヌ、先ほど国王(筆者注: 夫ルイ)からの手紙が届いたところです。あまりにひどい内容で、私は皇帝陛下にお話しするつもりです。私たち夫婦のいさかいを世に明らかにすべきです。これ以上こんなふうに続けていくことはできません。離縁は避けられないでしょう」
カンパン夫人: フランス革命を生き抜いた首席侍女
(白水社)

もう夫婦仲はボロボロですね…

それにしても、こんなに夫婦仲が悪いのに3人も子供を作れた事を不思議に思う方もいらっしゃるのではないでしょうか?

実はここまで誕生した3人の子供のうち、長男と三男についてはルイが父親ではない説が囁かれています。

話が長くなるので、別記事にまとめました。


オルタンスの生涯の話は、次回に続きます。

母ジョゼフィーヌがナポレオンと離婚
ナポレオンは再婚
一方でオルタンスとルイも離婚…と大波乱です。↓

参考

・Wikipedia

・Shannon Selin
《 Napoleon’s Children: Eugène & Hortense de Beauharnais 》

NAPOLEON.ORG
《 SOURCES RECOUNTING THE BIRTH OF LOUIS-NAPOLÉON, THE FUTURE NAPOLEON III 》

《 LIFE AND REIGN OF NAPOLEON III 》

・カンパン夫人:フランス革命を生き抜いた首席侍女 


・Queen Hortense: A Life Picture of the Napoleonic Era 


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