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目には見えない“心の復興”を描いたドラマ「その街のこども」を通じて考える、誰しもの心に“寄り添う”ということ。

私がお話を聞いたのは、テレビ局のプロデューサーとしてNHKに勤める京田光広さん。阪神・淡路大震災から15年の年にドラマ「その街のこども」を手がけ、25年を迎えた2020年にはドラマ「心の傷を癒すということ」をプロデュース。さらに、ドラマだけではなく、「防災・減災」「災害ボランティア」をテーマに特集番組の取材や企画も継続している。長きにわたりメディアとして伝える立場で活躍する京田さんに、阪神・淡路大震災と数々の取り組みのへの思いを聞いた。お話を伺うなかで感じた、誰もの心の中にあるであろう"小さな渦"と向き合うということについて考えてみたい。

僕は経験もしていない。

「僕は経験もしていない」と話を切り出した京田さんは、阪神・淡路大震災の一報を東京の職場で知りました。当時、朝の情報番組のディレクターを務めていた京田さんは自ら志願して被災地へ向かいました。甲子園で生まれ、土地勘もある神戸のまちが大きな地震に襲われたと知った時、増え続ける死者数の報道に大切な親の死をも覚悟したといいます。ようやく電話がつながり、幸いにも両親の無事が確認でき、親戚も含めて周囲で亡くなった人はいなかったことで、死を覚悟した諦めから今度は生への安堵感を強く覚えたそうです。そして未曾有の災害の中で家族の安否も分からない不安感から抜け出して、メディアという仕事に就くものとしての役割を果たすのだと、気持ちを切り替えることができたのです。

そうして被災地へと向かった京田さん。「3日間、カメラマンと共にずっと被災地を巡り歩いた記憶はあるけど、実はほとんど何も覚えてないんです…」。震災で京田さんが見てきた風景の壮絶さがひしひしと感じとれました。しかし京田さんは、報道という立場、メディアの人間として神戸のことを伝え続けた3日間の後、11年間にわたり、震災関連の番組制作から一線をひきます。想像を絶するような葛藤や苦しみがあったのだろうと思うと、私は京田さんの心の奥にある本音をお聞きるすことをためらってしまいました。

遺族の思いを形にしたい。「その街のこども」制作秘話。

たった一人の遺族の思い。ドラマ「その街のこども」を作るきっかけとなったのは、京田さんの職場の上司が母親を亡くされ、「遺族の一人として、神戸の人に寄り添うドラマを作って欲しい」という思いからでした。
「その街のこども」は阪神・淡路大震災を子供の頃に経験した男女2人が偶然、新神戸で出会い、夜の神戸のまちを歩きながら今まで避けてきた当時の記憶と向き合うストーリーです。私が初めてこの作品を見た時、被災者とは誰のことをさすのだろうと改めて考えさせられました。震災で大切な人を失った人も、失っていない人も。大変な被害を受けた人も、そうではない人も。それって、誰がどの基準で決めるのだろうか。震災を経験した人と言うよりも、誰しもの心の中にある傷や、消したくても消えない記憶に寄り添う作品だと感じたのです。京田さんにそのことをお伝えすると、「たしかに、作品にはそのような思いも込められています。震災関連のドキュメンタリーでは、身内を亡くし大変な思いをした人や大きな被害を受けた被災地に焦点を当てられることの多さに違和感を覚えていて。」その言葉からも、作品が生まれた制作の背景が読み取れます。被災地の人々に寄り添い、被災地にいなかった人の心にも届けることができる映像作品を作る。たった一人ご遺族の「神戸の人に寄り添うドラマ」という言葉が「その街のこども」を生み出し、やがて多くの人々の心を動かすきっかけとなっていったのです。

わからなくても、とにかくやり続けると。

毎年1月16日。大阪・十三のミニシアターでは毎年、のちに映画化された「その街のこども」が上映され、京田さんもその劇場で時を過ごされます。「毎年続けているのも、この映画がいつか誰かが震災と向き合うきっかけになればという思いがあって。」昨年は2人、初めてこの映画を観て、震災に向き合うきっかけとなった方たちがいたそうです。このように震災から26年経った今も、誰かの心に届く作品であり続けています。しかし、撮影当時は、数々の不安を抱えたまま、自信もないなかで走り続けていたのです。ドラマの制作が神戸の人に寄り添うドラマを作って欲しいというたった一人の遺族の言葉から始まったこと。「僕は神戸で震災を知らないので」。何度も繰り返されるその言葉にも現れる、直接神戸で震災を経験していない者としての、「わからない気持ち」を題材とすること。「その街のこども」は、ほぼ、2人の主人公が夜道を歩き会話をするシーンのみで構成されています。そのことによる、映像メディアとして、夜道を歩くだけのシーンで何が伝わるのだろうかといった不安。
阪神・淡路大震災では6434人の方が亡くなり、その周りには家族や友人、近所の人がいます。直接大きな被害を受けていなくとも、神戸に住んでいて等しく揺れを経験した人々もいます。ドキュメンタリーでは焦点が当てられにくい、膨大な数の「その街」にただ住んでいた人たちに目を向けることで、監督も脚本家も含めて、震災を知らない者たちが震災というものに歩み寄ろうとする思いが作品に込められていたのです。

「寄り添うということが、僕の原点だから。」

最後に京田さんに阪神・淡路大震災を知らない世代の人たちへメッセージを頂戴しました。

「知らないから伝えられないことは全くなくて、知らないからこそ感じることや発見があると思う。知らないけど知ろうとすることに自信を持つこと。経験者が語るとなればその人だけの経験になってしまうけれど、様々な人に多様な話を聞くことで作り上げていけるものは必ずあると思う。僕はドキュメンタリーでなく、ドラマで新しい表現に挑戦したつもりでいましたけど、他にも様々な表現方法があります。それをどんどん見つけて、挑戦していきたい。」

ドラマ「その街のこども」は震災がもたらした様々な分断を超えて人々を繋ぎました。京田さんの原点は何かと尋ねると「寄り添うこと」だとおっしゃいました。災害ボランティアを取材し続け、被災者に寄り添い続けてきた京田さんだからこその、原点。震災を知らない私たちが、震災を経験した世代の人に寄り添うためには何ができるのでしょうかとの質問に「知らないからと臆病にならず、その人と向き合って時間を共有することが大事だと思います」とアドバイスをいただきました。

京田光広さん2

取材を終えて今思うこと。

私がこの「1.17→(イッテンチチナナカラ)」に参加するきっかけとなった出来事があります。それは、中学時代に震災を経験した女性を描いたドラマを見たことです。フィクションではありますが、そのドラマでは震災を経験した「人」の内面が丁寧に描かれ、そのことがとても印象に残りました。何故かというと、私が小学生から大学生の今までに神戸で学んできた震災について覚えている内容は、当時と現在の写真を横に並べた物質的な、見た目にも見える復興の側面が強く印象にあるからです。そのことに、そのドラマを見た時に気がつきました。そして、街がどんなに復興をしても、目に見えない震災の傷は「人」の中にまだまだあるのだと感じました。しかも、それは目に見えないだけで、もしかしたらすぐ隣の人も、今すれ違った人も。身近な人を亡くした遺族の方だけでなく、誰もが。震災経験に限らず誰しもが心の中に“小さな渦”を抱えて生きているのかもしれないと思うようになりました。そして、「人」に注目することが大事であることもまた、人の心や想いを知ろうとする行動がなければ、気づけなかったことでした。「その街のこども」も、私が1.17に参加するきっかけとなったドラマと同じ「人」に焦点を置いた作品でした。さらに、見ようと意識しなければ見逃してしまうであろうたくさんの「その街」に住んでいた人々のなかで、“ひとり”の心の中に焦点が当てられている視点が興味深く、作品づくりに携わられた京田さんにお話を伺うのがとても楽しみでした。

京田さんがお話の中で述べられた言葉が私の心にたくさん残っています。「自分は経験していなくて、遠くにいる。改めて向き合うという意味では、本質的には今の若い世代と同じ立場だと思っています。知らないから知ろうとする上で大事なのは"寄り添う"こと。寄り添うことで向き合うことができるのではないでしょうか。」この取材をきっかけに、これまであまり触れられなかった「震災と人の心」について考えました。私たちがこうして考えること、向き合うことそのものが寄り添うことにつながるのかもしれません。テレビ局のプロデューサーとして伝える立場の京田さんと、震災を知らない世代として伝える文章を書く私たち。京田さんから「1.17→(イッテンチチナナカラ)」の取り組みを行う中での大切な視点を教わりました。そして、私自身、見えないものを少しずつ見ようとすることができるようになったと思います。

(文:吉田 有里)

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