2024.4.27(土)新しい感覚の理解 家庭や家族というものの、縛りと繋がりがないわたし

名駅金時計前で待ち合わせとか、エモすぎて全然泣いちゃう。友人と待ち合わせ。無事に出会える。「ついさっき、職場の学生の子に会ったんだよ〜!」と友人。ものすごい偶然……!でも、名駅って何故か そういうパワーがある気がする。わたしも会いたかったな。

今日は私の行きたいお店に付き合ってもらう日。早めのお昼ご飯にユーズドライクニュービアへ。ここのホットサンドが美味しそうで。お会計してくれたお姉さんがとても好みな方だった。
おなかぺこぺこで、すごい勢いで食べてしまう。友人は、すごい勢いでお喋りしてくれる。久しぶりのホットサンド、おいしい。外で食べると、家でもやりたくなる。またホットサンドメーカー出すか……。普段一人で食べるかパートナーと食べるかなので、同世代の女の子とご飯に行ったりすると、ペース配分によく失敗する。
昔はお喋りをするためにごはんに行くみたいな感覚が強かったけれど、いまはごはんは 食事 みたいな感覚で、食べることに専念することの方が多いなあ、と思う。食事の種類にもよるので一概にはいえないけれど。あと、温かいうちに美味しいうちに食べたい気は強い。そのかわりお喋りにはカフェかなと思っている。食事はお腹を満たすもの、お茶は嗜好 みたいな。

友人がいたるところでツーショットを撮ってくれる。わたしはこういう風に写真を撮りたくても中々上手くできないので、撮ってくれるのは嬉しい。あっちの角度でこっちの角度でこのポーズで……一体何枚撮るんだ〜笑 わたしも以前はたくさん写真を撮っていたけれど、精査するのにこれまた膨大な時間を使うのに疲れてしまって、もう最近では基本1-2枚。面倒くさがりが歳と共に加速している説がある。そういう意味で、そこにこだわりをもって 時間を惜しまない彼女たちは本当にすごいと思う。

次はBoheme.へ。ここもずっといってみたかったお花屋さん。花瓶が可愛らしすぎて、お迎えしたくてうずうず……!最近物欲に塗れているし、とにかくお金がないのでまたこんど。花瓶はいつかお迎えしたいと思っているから、じっくりで考えることにする。
自分用と、この後行くいつものカフェが1周年なので 花束を。1輪1輪自分で選べるのがうれしい、組み合わせに悩む。
可愛くラッピングをしてもらう。花をとってくれた店員のお姉さんの指先が青く染っている。多分ここの花の多くは、染めのいろ。

いつものFORELSKET。誰かを連れてくるのははじめて!友人が行ってみたい、と言ってくれたので。だいすきなカフェにだいすきな子を連れていくことができて、うれしいな。
平日以外で行くのははじめて。待つかなと思っていたけれど、すんなり入れる。私たちの後、3組くらい並んでた。入れて良かった。
ここから数日予定もあるし、またすぐ行く予定もあるので、買いすぎないように……と注意していたのにも関わらずいつも通り山ほど買ってしまう。学習しません。
ゆっくりお茶をする。彼女がインスタのストーリーに写真を上げたいというので好きに上げなと言う。「れいちゃんを独り占めしてるマウントとるもんね〜」と意気揚々としているのがなんとも可愛らしい。マウント、なんて冗談はさておき、彼女ほどまっすぐで可愛らしく 純粋でつよい子は見たことがない。つよい、というのは少し違うかな、打たれ強い のほうがしっくりくる。初めて出会ったときはもっともっとか弱くて 繊細さを持った子だった。けれども今は、その繊細さを武器にしつつ、誰よりも多くを吸収して、頑張っている。えらいよ。いちばんは内省が出来ることが、彼女の強みだと思う。自分の意見を持ちつつも、相手の意見を取り入れてみることを 想像して、自分を省みることを、常に行っている。きっと彼女はこれを若さ故ではなく、自然な働きかけでやっているのではないかな。きっとまだまだ、もっともっと 彼女はつよくなる。
最後にお店の方に花束を渡す。お店が混んでいたこともあり、めちゃくちゃ照れて、赤面症が出まくる。喜んでもらえてよかったし、渡したあと席に戻って荷物を持って退店するその瞬間まで後ろで「可愛い〜うれしい〜素敵〜!」のお店の方おふたりが口々に言ってくださっていて、火照りが収まらない。

「どうして結婚したいと思うのか?」を問いかける試みの中で、理解が深まったことがふたつある。
ひとつめは 薄々わかっていたことでもあるけれど、当人の家庭環境は その人の価値観にものすごく大きな影響を与えているということ。年に数回か親戚で集まる機会があったり、家族の仲が良かったり 歳の近いいとこが結婚をしていたり そういった“幸せそうな家族”の具体例が近くにあればあるほど、結婚したいなと思う可能性は高くなるし、逆も然り。けれどこれは必ずしもではないし、むしろ反面教師的な意味合いで反発し違う立場を選びとることもあるのだとは思うが、どちらにせよ大なり小なり影響は受け合っているのだな、と。あとはその“幸せ“そう””なところのどこまで深堀して観察考察ができるのかというところもある。
ふたつめは 老後1人になりたくないから という声も ちらほら聞こえてきたのだが、そうしてはじめて、彼女たちがそう思う理由と わたしが全くそう思わなかった理由の その間の差が すこし わかったような気がしたことだ。老後1人になりたくなくて 寂しいじゃない?だから、一緒に過ごす人生のパートナーと、娘息子たち、孫たちに囲まれたい。そういう感覚がわたしには無かった、それは、大前提として 娘息子孫たちが 自身の死に際に 手を貸してくれると 世話をしてくれたり 死を惜しんでくれると なんだかわたしにはそういうふうに彼らがしてくれるとは微塵も確信が無いのだ。なぜなら、私自身にそれが無いからだと思う。それは……彼らの自由だと思うから。生きていく中で、この人の死に際になにかお手伝いできることがあればしたい、そんなふうに思ってもらえるような出来事が なにかがあれば、心優しい人々が看取ってくれるのかもしれない、けれどそれは決して 当たり前のことでは無いし、強制することでもないと思う。

わたしは 家庭 家族というものの 良く言えば縛りがない 悪く言えば繋がりがない そういう状態にあるのだ、ずっと だからこういう 家庭とはこうあるべき 家族であればこうなるべき みたいなものから解き放たれた場所にいるし、その苦しさも 恩恵も 想像はできても実際に手元には、無い。
だから結婚したいと思う人々の考えに触れることは、わたしにとってほんとうに、新しい価値観や感覚を分けてもらえることだと思う。分からないことを知ることが、わたし(たち)がいかに孤独かを知る営みになったとしても わたしはこれからもさまざまなことを知っていきたい。


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