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労働は生活にとって間接的すぎる?

最近はやりたいこともやるべきこともあるからか、あまり日記を書いてない。モヤモヤが大きいときほど日記がはかどるからね。今はその逆なんだろう。

畑の草取りなどをすると楽しい。太陽をあびて体を動かすわけだから、ホルモン的に楽しくなりやすいんだろう。

フロー状態に入れるのも良い。手がきたなくてスマホも触れないし、作業には自然と集中できる。

外貨を稼がずに自給自足するのはハイリスクすぎて嫌だけど、もっと畑に時間をかけて、生活をしたい。

そう、生活をしたい。

働くことはどんなに条件が良くても最小限にしたい。細かい理由はたくさんあるけど、大枠の理由は「生活にとって間接的すぎるから」じゃないかと想像している。

仕事を上手にやることと生活がかけ離れすぎている。

仕事の契約をする。仕事する。お金がもらえる。もらったお金で誰かが作ったものを買える。生活の中で使う。生活に関連するまでが遠い。

生活の中で使うものを自分で作れば、最初のいくつかの項目はカットできる。

仕事が上手になる。仕事で成果を出せるようになる。評価される。もしかしたら収入があがる。もしかしたら普段出会えないような人と出会える。

でもそれらは「個人として生活すること」と直接的には結び付かない。どうしても仕事の中の話になる。

業種によっては生活に直接的に結び付いたり、何かの方法を学んで生活に役立ったりするかもしれないけど。

でもやっぱり、仕事というか「お金を稼ぐための仕組み」と「個人としての生活」はかけ離れてるように感じるから、仕事は間接的なものだなと思ってしまう。

だからって外貨なしの自給自足はしないし、オフグリッドみたいなものを極めるのも想像つかないんだけどね。

外貨があるからこそ面倒なことをお金で間接的に解決できて便利なんだけどね。

もっと直接的な何かでお金を得られたらいいなぁ。わたしにとっての直接的なことって何だろう。

やっぱり最大限の楽しい仕事を自分でつくって最小限稼いで、あとの時間は生活に使うくらいがちょうど良いんだろうか。

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