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「感性」「生まれつきの資質」を崇拝しすぎて、行動しない理由になっていた

ここ数年「繊細さん」というワードが広まってきた。それもあってか自分のことを繊細寄りだと思っている、いや、正確にいえば「繊細寄りだと思われてるんだろうな」と想像している。自認というより、人からの目を想像している感じか。

実際、他人のことを形容詞でとらえることはあまりしないので、繊細寄りだと思われているのかは全く謎である。ただのわたしの思い込みかもしれない。

それに自分のことを繊細だと思うか?と聞かれると、別に思わない。確かに感覚過敏なので光や音に対しては敏感だけど、それは繊細というより「過敏」なだけであって、物質的に片付けられる性質だ。

わたしの思う繊細というのは、傷つきやすいイメージ。心のイメージ。物でたとえるなら薄くて割れやすいガラスみたいな。それでいくと、別に傷つきやすくはないし、むしろ図太さすらあるわたしは繊細という感じではないんだよなぁ。

じゃあなぜ自分を繊細とくくりたがるかといえば、きっと「繊細な作品を作る人への憧れ」と「面倒くさがり」が影響している気がする。

まず繊細な作品を作る人への憧れについて。たとえば宮沢賢治のような人。自然や現象や人の心模様を繊細に描いた文学作品が好きだ。作品が好きだし、その作者のことを尊敬の眼差しで見てしまう。繊細な文学作品を作れる人が、わたしの中での一番すごい人。お金をたくさん稼ぐとか、見た目が綺麗とか、喋りが上手とかではなく、繊細な文学作品を作れる人のことをすごいと思うし、価値を感じる。

だからそういう人との共通点を自分に見出したくて、(作品は作れないけど)本人の性質としては近い、ととらえたいんだろう。

面倒くさがりについては、繊細は免罪符にしやすいのだと思う。行動するのが面倒くさくて、行動しない理由を、繊細、ふわふわ、空想家みたいなところに落とそうとしてるんだろう。いや、どうだろう?面倒くさがりなのは事実だが、別に繊細さを理由としているわけでもない気がする……自分のことって判定するのが難しい。

自分思っていることや思っていたこと、過去の現象を正確に把握するのってすごく難しい。「この時この行動を選んだってことは、○○な気持ちだったんだろうな」などと推測するのがせいぜいである。記憶は推測。だから日記やnoteで記録したがるんだろうか?忘れてしまうから。

結論とかは無いんだよ、このnoteには。ただのジャーナリング(だっけ?)でしかないんだよ、このnoteは。なんの正しさはない。

謎の「繊細である」という自認がどこか足を引っ張ってる気がするんだよね。「宮沢賢治のような、占い師のような、田舎暮らしのような私の好きなことをやるには繊細でなければならない」とどこかで思い込んでるんだ、きっと。

でもきっとそうじゃない。自分の感性を磨く心意気と、実際の行動さえあれば、わたしのやりたいことは十分に達成できる。

あぁ、繊細というよりも、「感性」「生まれつき」を崇拝しすぎているんだ。それは勉強や行動をしない理由になるから。これは正しそうだぞ。

たとえば占いは勉強で強化できるのに、ナチュラルボーンの占い師(というか霊能者)の方に価値を感じるせいで、「勉強よりも感じることが大事」と思いすぎたり。

たとえば実務もそれなりにできるのに、生まれつきの資質のみを活かしてできる天職を探したくなったり。(最近は天職なんてなくて、ある程度これかなと思ったものをぼちぼちやるしかないと思えるようになったけども。)

繊細というより、感性や生まれつきの資質にこだわった「本物でありたい」という気持ちが強すぎたんだなぁ、きっと。

でもそれだとやりたいことの実現スピードが遅くて自分でも飽きちゃうし、先に人生の終わりがきてしまいそうだから、感性や生まれつきのものに頼らない心を身に着けていきたいな。

勉強することで切り開くとか、人の力を使わせてもらうとか、お金を投入するとか、スクールに通って環境を変えるとか、できることはたくさんある。そのできることを、「本物でありたい」「天性のものでありたい」という影の理由で取り組まなかったのがわたしだ。

できることは、考えてるよりもたくさんあるはずだ。ここ数年自分が使ってこなかった手段を使って、自分のやりたいこと、なりたい自分に近づいていきたい。


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