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金剛山:楠木正成と千早城跡 ♣山と歴史の連なる道♣(0005)

楠木正成が百万の鎌倉幕府軍と激しい攻防を繰り広げた千早城跡が残る金剛山。 いまは大阪府民の憩いの山ですが、意外にけっこーシンドイ。 

金剛山 登山コース

<趣意>
山林が国土の約7割を占める日本では、山も歴史との関係が深いものがあると思われます。そんな日本の歴史とも由縁のある山を、連なった歴史とともに辿っていきたいと思います。

 

「金剛山」 (こんごうさん)
場  所/ 大阪府南河内郡千早赤阪村、奈良県御所市
アクセス/ 近鉄長野線「富田林」駅から路線バス(約34分)
     南海高野線・近鉄長野線「河内長野」駅から路線バス(約26分)

 

千早城跡

<端緒>
千早城は鎌倉時代末期に楠木正成が後醍醐天皇による倒幕の呼びかけに応じて立て籠もった山城です。

一説には百万の幕府軍の包囲に対して籠城した正成の手勢は1千人。 しかし彼は智謀計略の限りを尽くして徹底抗戦します。
あるときは兵士に見立てた藁人形で幕府軍をおびき寄せるとそこへ大石を投げ落として轢死させ、あるいは城壁に群がった敵兵に油を浴びせかけると松明を投げ入れて火だるまにしたり。 
ついに千早城は落城することはありませんでした。 やがて楠木正成による千早城の攻防を契機として、そのあと各地で反幕・倒幕の蜂起が続発し、ついに鎌倉幕府は倒れます。

千早城は四方を谷に囲まれた険阻な要害であったと伝わっています。 正成が戦った千早城がいったいどのようなものであったのか。 自らの足で確かめに行ってみました。 

貞信画,[出版者不明]『千早城に正成藁人形を作る圖』(関西大学アジア・オープン・リサーチセンター(KU-ORCAS)所蔵) 「関西大学デジタルアーカイブ」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/ukansai-R100000114_I000003065_00)


<概要>
大阪と奈良の県境にある金剛葛城山系の主峰。 標高は約1125m。
大阪府最高地点も山中にあります(標高1056m)。
山頂広場には葛木神社や転法輪寺があり、売店や食堂もあります。
老若男女、家族連れのハイカーも多く、山頂は賑わっています。
楠木正成が鎌倉幕府に反抗するために山の中腹(標高660mくらい)に千早城を築き、およそ100日間にわたる幕府軍からの攻城戦に耐え抜きました。

 

<登山コース>

「金剛登山口」バス停
千早城跡への登山口

河内長野駅からバスに乗り金剛山登山口バス停で下車し出発です。
もっともメジャーな千早本道の登山口はバス停から元来た道をちょっと戻ったところにありますが、千早城跡を経由するための登山道はバス停から終点に向けてすこし登った先にあります。
左手に石段が出てきます。「千早城跡」を示す看板も立っています。
石段をずっと登り詰めていきます。千早城跡までもそうですが、千早本道全体がおおむね石段などの階段状の道となります。 神奈川県丹沢の大倉尾根以上にひたすら続く階段地獄の様子です。
静かな森の中の階段をずっと登り続けます(しつこくてスミマセン)。 階段嫌いの方にはゲンナリでしょうね…。

地図上の「四の丸」
千早神社

15分ほど上がっていくとようやく平坦地にでます。千早城の曲輪のひとつだったのでしょうか。千早城は連郭式であったもようですので、複数の曲輪が数珠つなぎのように連なっています。
城跡を奥へと進んでいくと千早神社の本殿が出てきます。ここがかつての主郭の跡地であったようです。

千早神社の脇に入る
千早本道との合流地点
階段状の道が続く
意外に登山道脇の谷は急傾斜で深い

本殿の脇の道を進みますと休憩所があります。さらにその先へ進むと千早本道に合流します。
本道をふたたび登っていきます。基本的に一本調子の登り道です。

五合目。狼煙台?
トイレ

五合目(地図上では”狼煙台跡”?)はすこし平坦地となっており、ベンチ・テーブルそしてトイレが設置されています。
しつこいようですが、この先もずーっと登り坂の階段状の道…。
このときは新緑がとても鮮やかで、ウグイスも爽やかにさえずっておりました。すこし気が休まります。

山頂から一段下った広場

ようやく九合目です。「近道」と「楽な道」に分かれています。もちろん迷うことなく「楽な道」を選びます。
5分ほど上がると、山頂直下に出ました。その先に広場があり、山頂はこの広場のすこし上になります。こちらの広場にも多くの人が休憩しています。水道がありますが「飲用不可」です。

金剛山の山頂にたどりつきました。山頂広場は国見城跡ともなっています。その名の通り奈良方面の景色が広がっています。山頂にはたいへん多くの人で賑わっておりました。現在、金剛山はロープウェイが運行停止になっているのですが、動いていた当時はさらに多くの人で溢れかえっていたのではないでしょうか。

葛木神社
大和葛城山のツツジでしょうか
一ノ鳥居

山頂の転法輪寺、葛木神社を経て、府民の森ちはや園地へと向かいます。
途中の道、北方向に視界が開けた場所で、遠くにピンク色の一帯が目に飛び込んできました。ツツジの群落で有名な大和葛城山でしょうか。
一ノ鳥居を通り抜けます。このルートは部分的に「ダイヤモンドトレイル」と重なります。

大阪府最高地点
展望台からの眺め

鳥居の先に「大阪府最高地点」があります。標識がぽつんとあるだけでちょっと地味…。
そのすぐそばに展望台があり、登れば360度をぐるりと大阪、奈良、和歌山の方角を見渡せます。

登山道終点(「金剛山ロープウェイ前」バス停からの最寄の登山口)

さらに進んで「ちはや園地」を通り過ぎると、簡易舗装の下り坂に入ります。この先はおおむね、バス停までこの道を沢沿いにどんどん下っていきます。
登山道(伏見林道)が終わり、左手へすこし登るとバスの待ち合わせ用のロータリーがあります(トイレ併設)。
今回は「金剛山ロープウェイ前」バス停がゴールです。


<行程表>
※標準的タイムによる目安(休憩含まず)
「金剛山登山口」バス停→ 千早城跡(20分)→ 千早神社(10分)→ 千早本道・合流地点(10分)→ 五合目(20分)→ 九合目(25分)→ 山頂(10分)→ 葛木神社(15分)→ 一ノ鳥居(10分)→ 大阪府最高地点・展望台(15分)→ 府民の森ちはや園地(5分)→ 伏見峠(10分)→ バス停(50分)

<登山コースの補足>
千早本道のほとんどが階段状の道になります。平坦地や休憩適地はあまりありません。
整備されているので難所や危険箇所はほとんどありません。
金剛山ロープウェイは現在、休業中であり再開の見込みは立っていない模様です。
千早本道は山頂までの間は樹林帯であり眺望のよい場所はあまりありません。
伏見峠とバス停の間の道(念仏坂)は簡易舗装された林道です。
山頂広場に水道がありますが「飲用不可」です。
登山道上に水場はありません。山頂に売店があり飲料を購入できます。
トイレは、金剛山登山口バス停、千早本道五合目、山頂、ちはや園地、ロープウェイ前バス停にあります。


歌川国芳,Utagawa Kuniyoshi『英雄大倭十二士 楠河内判官正成』(東京富士美術館所蔵) 「東京富士美術館収蔵品データベース」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/tfam_art_db-9106)

<楠木正成と千早城そして鎌倉幕府滅亡>
千早城は、鎌倉時代末期に楠木正成が幕府に反抗して籠城した城です。百万ともいわれる幕府の包囲軍に対して、正成のゲリラ戦や数々の奇策による防戦術でついに陥落することのなかった堅城として、歴史好きの間では知られていると思われます。

千早城跡は登山道だけを登っていると、その遺構などがよく分からないのですが、金剛山一帯の険阻な地形や地勢を利用した要塞であったことは十分理解できます。登山道のすぐ脇の斜面も実際に急で深いです。記録にも四方を山や谷に囲まれた攻めにくい城とされていました。

たしかに急傾斜で大きな道を作れそうにないので、重い甲冑を身に纏った侍たちがここを登りながら攻城戦を展開するのは難しそうです。山中には平坦地もほとんどないため、幕府軍が陣地を構築するのも難しかったのではないでしょうか。そのため幕府軍としては大兵力による攻勢をを十分に発揮しがたかったかもしれません。

そうだとしても籠城するだけでは幕府軍を倒すことはできません。楠木正成はどんな見通しを持っていたのだろうかと疑問に思っておりました。
知略家でも知られる彼のことですから、籠城して幕府軍に抵抗し続けることで周囲にアピールし、各地の勢力に反幕・倒幕の蜂起を持ちかけていたのかもしれません。
実際、このあと後醍醐天皇は幽閉されていた隠岐の島からの脱出に成功し、さらに畿内等で幕府への離反行為が次々に起こります。幕府側であったはずの足利尊氏が京都にあった鎌倉幕府の拠点である六波羅探題を攻め落とし、そして東では新田義貞らが諸勢力を糾合し鎌倉の地を侵略してついに執権・北条高時を自害に追い込み幕府を滅ぼします。

楠木正成がある程度の武力・兵力を有していたとしても、大兵力の幕府軍に野戦で正面衝突して勝てる見込みはなかったでしょうから、籠城戦によるアピールと時間稼ぎが彼にとってのもっとも効果的で勝算のある戦略であったのかもしれません。
もともと正成は千早城のある金剛山の麓である千早赤阪村の出身とされ、この地を根拠地としていたようです。彼にとっては地理や実情に詳しいうえに天然の要害たりうる山城を築くことができる金剛山を勢力下にあったことが幸運だったのかもしれません。

楠木正成はいうまでもなく後醍醐天皇の討幕運動に呼応して鎌倉幕府滅亡そして建武の新政に貢献した人物として有名です。
わたしが中高校生くらいまでは、正成は素性のよく分からない在野の武装勢力のような説明が一般的であったかのように思われます。いわゆる「悪党」(現代の意味での「悪党」とは異なりますが)。

岳亭『「本町錬 本朝廿四孝」「楠帯刀正行 太平記」』(MET所蔵) 「ARC浮世絵ポータルデータベース」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/arc_nishikie-MET_DP114894)

そういうわけで、「彼が山城ひとつに立て籠もったところで、どうして幕府は大軍を派遣して討伐しようとしたのだろうか。放っておいてもよかったのでは?」などと思っていました。
いまは研究も進んで、楠木正成とその一族は相応の地位や身分を持っていた畿内の武士であったようです。また京都に近い地域である程度の影響力があったので、幕府も捨て置くことができなかった反幕府活動だったのでしょうか。

しかし、楠木正成といえども単体で鎌倉幕府と正面切って戦える勢力ではなかったと思われます。結局、直接的に幕府を滅ぼしたのは、本来は幕府側であった足利尊氏や新田義貞らの有力御家人たちです。そんな正成がなぜいち早く後醍醐天皇の倒幕活動に参加したのか少々疑問に思うところもありました。

中山鍮次(養福)模『後醍醐天皇影/養福摸』(東京国立博物館所蔵) 「ColBase」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/cobas-46628)

もちろん、楠木正成が尊皇思想家であり、畿内に勢力を持つことから朝廷や公家と近い関係を有していたこともあったとは思われます。ただそれだけでは、現実主義的な武士でもある彼が、到底勝てそうもない戦いに挑むには腑に落ちない気がしていました。
やはり遠因といいますか、現実的には、鎌倉時代後期の御家人の窮乏という社会的・経済的状況があったのではないでしょうか。 元寇に対する負担の増大(恩賞はほとんど得られなかった)、一族内の分割相続による領地・権益の細分化、そして何よりも北条一族の肥大化(各地における守護職の独占、領地の拡大)によるその他の御家人たちへの圧迫が、反北条・反幕府そして尊皇に基づく社会の再編という希望を見いだしたのかもしれません。
正成にしてみれば、自分たちの領地や権益が北条家に侵食されていくばかりで将来の繁栄を描くことができず「もう、幕府の元ではやってられん!」ということになったのかもしれません。

しかしながら後醍醐天皇とは結局は「同床異夢」。倒幕という一点では一致団結できても、その後の新しい秩序の構築では、武士と天皇・公家は方向性が違ったのではないでしょうか。
歴史の通り、後醍醐天皇が主導する建武の新政はうまく行かず、多くの有力武家たちが次第に背を向けるようになり、ついに足利尊氏も離反ていきます。楠木正成は足利尊氏との和解と共存を望んでいたようですが。

月岡芳年,出板人 東福田町二番地 船津忠次郎 船津 忠次郎 『「大日本名将鑑」「足利尊氏」「新田義貞」』(Nationaal Museum van Wereldculturen (Rijksmuseum Volkenkunde, Leiden)所蔵) 「ARC浮世絵ポータルデータベース」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/arc_nishikie-RV_2533_3_1)

楠木正成は尊皇家として天皇に忠義を尽くす考えの一方で、武士としてはおそらく足利尊氏を深く敬服していたのではないでしょうか。彼にとっては板挟み状態や身体を両方に引き剥がされそうな心境だったのかもしれません(頭では天皇、心では尊氏?)。
でもそこはやはり武士の武士たる本分でしょか。自分の身を立ててくれて地位を授けてくれた天皇への「忠義」のために我が身を捧げ戦いの末に果てました。
記録によれば、正成は尊氏との最終決戦となる”湊川の戦い”のまえに後醍醐天皇へはけっこう辛辣な諫言しつつ討ち死に覚悟で出陣しています。彼は後醍醐天皇のためにというよりも自分の「信念」を貫くことに殉じたのかもしれないと個人的には感じたりもします。

いまはファミリーもハイキングを楽しむ山であり、城跡の遺構もそれほど確かめることもできるようなものもあまりありません。
しかし、この地にかつての英雄や強者たちが激戦を繰り広げていたのでしょう。延々と続く階段地獄である金剛山の道を登りながら、一兵卒の侍たちの苦労・苦心の一端を感じることができたと思いました。

『騎馬武者像』(京都国立博物館所蔵) 「ColBase」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/cobas-5293)

<付近の山>
葛城山
ダイヤモンドトレール
生駒山
大和三山
吉野山
葛城古道

<お食事処>
金剛山登山口バス停付近にいくつかお店があります。
金剛山山頂売店で軽食の提供があります。

<周辺のスポット>
楠公誕生地
上赤阪城跡
下赤阪城跡
千早赤阪村立郷土資料館 (千早赤阪村)
道の駅「ちはやあかさか」 (※公式サイト)
府民の森 ちはや園地 (※公式サイト)

 

<私的な雑誌>
階段地獄で驚きました…(ほんとうにしつこいですね。それくらい個人的にはインパクトが強かったので)。ほぼ登りぱなしです。
とにかく階段続きなので階段嫌いの人は閉口するかもしれません。
高低差は600mほどです。東京近郊でいうと高尾山より体力的にすこし上のレベル、丹沢の大山と同じくらいの感じでしょうか。

ファミリー層も多く登っていらっしゃるので、大阪府民に親しまれている山なんだろうなーという印象です。
金剛山山頂や”ちはや園地”の展望台からは、大阪や奈良の風景の見通しがとてもよいのが心に残りました。

楠木正成の足跡や千早城の遺構がもうすこし残っているのかなと考えていたのですが、その辺があまり見当たらず、ちょっと残念な気がしました。頂上域には各種施設がありますので、楠木正成に関する資料館などもあるといいのになーと感じました。

東京の人間の、というかわたし個人の思い込みにしか過ぎませんが、大阪というとほとんど宅地開発された平野のようなイメージがありました。中心部を離れて、意外にも山深い場所があるんだなーというのが正直な感想です。
東京もすこし西側へ行けば森も多く山にもなりますので同じだなと思いました。

山頂のちはや園地はキャンプ場になっており宿泊も可能です。
山の中で光の影響の少ない立地と環境を活かして星空観望にはぴったりなスポットなのではないかなと思いました(天体観測に関する施設もあります)。
芝生の広場もあるので寝転んで星空を仰ぎ見るのも気持ち良さそうです。

 

<山のお友>

生八ッ橋

●生八ッ橋(皮のみ)
大阪ではなく京都のお菓子ですが…。あんこ入りの生八ッ橋もいいのですが、個人的には生八ッ橋の皮が好きです。
基本的にモチ菓子系が好みなので(大福よりも豆餅が好き)、モチの部分だけというものに興味を引かれてつい手が伸びてしまいます。
子供の頃はニッキの強い香りが苦手だったので生八ッ橋も好きではありませんでした(シナモンドーナツも駄目でした)。いつしか、大人になるとともに(?)気にならなくなり、そのうち、むしろお気に入りになりました。
そういうわけで、京都界隈を訪れるときは生八ッ橋の皮を、久しぶりの楽しみのおやつとして購入したりしています。
おモチ系なので炭水化物であり、行動食にも合う一品なのではないでしょうか。薄切りの短冊形にスライスされているので、そのときのお好みに合わせて食べる分量を調整できるのも便利だなーと思います。
参考リンク先:
井筒八ッ橋本舗

  

<備考>
千早城 (Wikipedia)
楠木正成 (Wikipedia)
元弘の乱 (Wikipedia)
千早城の戦い (Wikipedia)
「金剛山ハイキングきっぷ」 (南海電鉄)

<参考リンク>
千早神社 (※公式サイト)
千早城跡 (千早赤阪村)
金剛山 (千早赤阪村)※マップあり
金剛山 (otent/南海電鉄)※マップ、ガイドあり
千早赤阪村観光案内 (※公式サイト)
南海バス (※公式サイト)
近鉄バス (※公式サイト)
山と高原地図 「50.金剛・葛城 生駒山・紀泉高原」 (昭文社)
ダイヤモンドトレイル情報 (大阪府)
富田林警察署
書籍「太平記」 (河出書房新社)※現代語訳
書籍「太平記」 (岩波書店)
書籍「楠木正成・正行」 (戎光祥出版)


<関連記事>
金剛山周辺の登山に関する上町嵩広の関連記事です。一部、外部サイトの記事もあります。 


<バックナンバー>
バックナンバーはnote内マガジン「山と歴史の連なる道」にまとめております。

0001 顔振峠と義経伝説
0002 柳生街道
0003 京都・愛宕山と明智越え
0004 石垣山一夜城と小田原城総構

 

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(6) 不定期更新です。 隔月一回を目安に更新を予定しております。
(7) カバー写真と、今回ご紹介した山とは、関係はありません。
(8) 情報は掲載日時点の内容です。
(9) 登山道等の状況については、適宜、現地の観光協会、ビジターセンターや山小屋などの各関係機関にあらかじめご確認くださいますようお願いいたします。
(10) 今般の新型感染症の影響で各種施設等の利用については制限などが行われている可能性があります。ご利用の際には詳細について事前に各種施設等へご確認などをお願いいたします。

(2022/06/29 上町嵩広)


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