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売れようとすんのかいせんのかい【2018年8月の固定ノート】

このタイトルは、「ドリルすんのかいせんのかい」からパクった。これは、よしもと新喜劇内でのすっちーさんと吉田裕さんの掛け合いである。

「ドリルすんのかいせんのかい」↓↓↓↓

やり方を覚えたい人向け動画↓↓↓↓

わたしは長く、ネタ名も中身も間違って覚えていた。「宿題するのかしないのかはっきりせい」と。それは、学校の宿題(など、すべきこと何でも)をしなくちゃいけないのはわかっているのにする気になれずグズグズ過ごす時間の謂である。
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〈このページのまとめ〉

▼わたしには、書き物をしたら収入源の中心になる(それで食べられる)という勘違いはみじんもない。
▼わたしの書いたものが、誰かの何かの役に立つはずはない。読者に有益情報を提供できるという期待は毛頭ない。
▼書くという行為が生きる表現(自己実現の一種)であるといささか感じる。書き物が自分唯一の強みと信じている。
▼ただし、わたしの書いたものが人の作品に比して優れているとはゆめゆめ思わない。豊かな文章の書き手を志向して黙々と書きつける。
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さて、わたしはこのnote という好きなプラットフォームを見つけて、他のSNS と隔絶されたところの書き方を楽しんでいる。読まれるための努力・工夫もなしに。売れたいのか、売れたくないのか。わたしの心は揺れている。この答えは二元論ではなさそうで、売れない人間の言い訳にもしたくないので、だからこそしっかりさせておきたい。

今後、わたしの書いたものが広く目に留まり、読まれたら嬉しいに決まっている。でも、そうして有名になることやお金を手に入れる実利を目指す方向にない。なぜって、ハングリー魂がないし、売れるための体力も持っていないし、何より売れる価値がない(もっとも大きな問題)。それでも書きたい理由は、書くことの行為にあるはずである。

わたしには趣味と呼べるものがない。何をしても楽しくない。「好きなこと」がわからない。そんななか、文章を読んだり書いたりする時間は長い。「向いている」のだろう。これはわたしの特質であって、生活だ。しかし売れるか、売れたいかとなると話の質がまったく違う。

売れるものには売れるだけの価値が付随するとわたしは確信している。誰かが仕立てた流行りでも、ほんのひとときの一過性であっても、誰かの心を掴み、時間とお金を使わせた。その売れたものは、評価されたからこそ人が動き、お金が飛び交った。消費の本質だ。

時代(=大多数の人)は、わかりやすくてはっきりしたものを好む。特に昨今はポジティブなもの・見栄えのするもの・自慢できるもの。「わかりやすくてはっきりした」とは何かというと、手っ取り早いもの・自分の役に立つもの・参考になるものである。人々はこうした要求に合致するモノ・サービス・情報を求めて飛びつきたがる。

わたしの書いたものはそういう商業ベースに乗らないに違いない。社会が絶えず必要とする「消費」の層に組み入れられることなく、ハラハラ散りゆくにまかせ、それなのにあなた方から一定の距離以上には離れたくなくて、指をくわえながら流行と「消費」を眺める。

わたしの書きたいものは、2つの種類に分類できる。1つは身辺雑記の域を出ない自己表現や、抵抗という名の世の中への発言で、持病の苦しみの記録を含む。もう1つはライフワークとなる研究を残す学術的なもの。いま後者(研究)はどうでもよくて、前者の表現と発言を特記したい。わたしは人とはまるきり違う生活のなかで、特殊な考え方を持つことがある。わたしの文章は、書く意思なしにいつの間にか紡がれゆく。語句の数々は、罪もなく積み上がっている。そうして吐息のように錬成される文字の配列。誰のためにもならないのはわかっている。

わたしには有益情報を発信する力がないながら、人の退屈しのぎにはなるかもしれない。わたしの組み立てた言葉が誰かの目に触れるだけで構わない。その字面を憎からず思ってもらえたら小鼻が膨らむ。けれどおだてられたときに驕らないよう肝に命じる。わたしは本気のほめ言葉とおせじの区別がつかない。

ここnote は、実社会の人間関係に気遣う必要のある空間から離れている点で優れている。少なくともわたしはそのような立場の利用者である。感謝の念に堪えない。

【このページは、2018年8月の固定ノートでした】

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