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米粒論争の主張は、自分の流儀の信条に過ぎなかった

「ご飯のお茶碗にくっついた米粒を残すことをだらしないとか汚いとか言って育ちが悪いと表現するか、米粒かき集めて食べるなんてみみっちいと言って育ちが悪いと表現するかの論争」があったという。出典 ↓↓↓↓

まとめの例:
・MediaGroove「ごはん粒を残すのはアリかナシか? Twitter で炎上バトル勃発」
http://media-groove.com/gohan_nokosu/
2017/02/19

・ニコニコニュース「米粒を茶碗につけた状態で『完食』ってどうなの? ご飯の食べ方をめぐってネットで『米騒動』が勃発!」
http://news.nicovideo.jp/watch/nw2643190
2017/02/15

・「ご飯粒問題は些細なようで結婚相手に求める条件になるような重要な観点だと気づいた」
http://www.ikemenmusuko.net/entry/okome_tabero
2017/02/15

わたしは考えたこともなかった。人のお茶碗を見ないからだろう。

空前の糖質制限ブームにおいて、白米に手をつけないことや、いっぱい残すことが非難されている。そんななか、お茶碗に散らかった米粒が問題になるのは、白米を日本人の魂の象徴とみなすからか。

お茶碗の中にまんべんなくたくさんのつぶつぶを残す人や、そのつぶつぶをかき集める人には、米粒が散在しないように食べる要領と習慣がない。つまり彼[女]らに、お茶碗の中の前方から、白米を箸でくるめて食べ進める段取りはない。

その残ったつぶつぶの量で満腹度が変わるとは思えない。だからそのたくさんのつぶつぶを食べるかどうかは、各人の考え方ひとつに違いない。白米について、「完食」について、習慣に従うかについて。

さて、米粒を残すことも、残さないことも、両方が「育ちが悪い」と表現可能であるらしい。どちらを主張する人も、もう一方を笑うことができる。日本人の魂と飽食時代の精神が、食後のお茶碗に共存している。

争点になったのは、米粒が残ったお茶碗をして完食と呼ぶかであった。この二項対立のどちら側の人も、「育ちのいい人」と会食した経験があるのだろうか。米粒を残さない食べ方を「育ちがいい」とする主流派は、その食べ方を「自分が正しいと疑わない=正義心」から主張するではないのか。一方で、米粒を残さない食べ方を「育ちが悪い」とするのは、「自分がそれ(=残さない食べ方)を嫌い」だからなのではないのか。

わたしは真に育ちのいい人と食事をしたことがおそらくない。だから米粒を残す・残さないのどちらが育ちがいいと明言できない。でも、残さずたいらげる方が美徳とされる世論をビンビンに感じる。

もし、生活する相手に自分と同じ様式を求めれば、結婚やイエの文化の問題につながるとも考えられる。少なくとも大半の家庭においては、食べ物を残させないしつけが良しとされてきた。子供に米粒を把握させるのため、(白いつぶつぶが目立つ)パステルカラーに塗ってあるお茶碗を見かける。また、食べるのも洗うのも楽なように、米粒が残らない加工をされたお茶碗が存在する。

わたしがおもしろく思ったのは、論争が終着点に至らなかったことである。誰もが、「自分はこう」と書き、意見は二分されたままだった。ついに「育ちのいい」完食のあり方がマナー普及機構によって統制されることはなかった。もう一点は、この「完食」とは何かを巡る論争で、「完食がいいことなのか」が話し合われなかったことである。

ところで、残すにしても残さないにしても、きれいな食べ方というのはある。これを知らない・できないのは、注意してくれる人がいなかったか、注意されても直さない性格だから。加えて、それでも生きていくコミュニティ・階層から排除されずにきたから。

だから、「とっ散らかさずに残す」技術を身につけることは、多くの人にとって大事であるが、関係ない人がいてもいい。もちろん、食い散ら(か)すのがいけないことなのかどうかは、また別の話だ。時代と地方の価値観によるからだ。

結びを述べる。完食しようがしまいが、どんなお茶碗が「完食」とされようが、きれいな食べ方ができようができなかろうが、何をして人を「育ちが悪い」と笑おうが、これらがいっさい統一されないことは、現在の日本で素晴らしいこととされている(※)。それでも神聖なるお米に限っては、多くの人の血が騒いだのだろう。

しかし誰も、白米を残すこと、あるいは残さないことを誰かの評価や非難や攻撃に使うのを、白米への冒瀆[涜]とは思わないようだ。

※わたしは、「意見や行動様式の多様性」について、極端な思考を持っている。ここではそれを書かなかった。主旨を外れるから。

ありがたいことです。目に留めてくださった あなたの心にも喜びを。