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【エッセイ本試し読み】おとなのなつやすみ〜130日の休職〜


「はじめに」
 
 
―――病名 適応障害
 
診断書に書かれた文字に私はぽかんとした。
 
(なに、それ?)
「しばらくゆっくり休みましょう」
病院で医師からそう告げられる。2020年の秋のことだった。
適応障害とは、生活の中で生じる日常的なストレスにうまく対応することが出来ず、不安感や行動に変化が現れて社会生活に支障をきたす病気とされている。
病名について当時よくわかっていなかったが、一つだけわかっていることがあった。

(ああ、やっとこれで堂々と会社を休める。しばらく行かなくなくていいんだ)

なんとも不謹慎だが、率直にそう思った。 もちろん罪悪感もなかったわけではないがそれよりもただ安堵していた。
職場の名誉のために最初に言っておくが、私の職場はブラックなところではない。
基本定時上がり、休日出勤や時間外連絡もほぼない。業務量もそこまで多くはない。寧ろ物足りないくらいだ。仕事の出来る有能な人たちばかり。一見何の問題もないように思える。
 
だが、私は事実こうして病気になってしまった。思い返すと兆候はあった。
その年に入ってから体調を崩すことが多くなった。電車に乗ると理由もないのに途端に息苦しく発作のような症状が出始めた。
 
―――自律神経失調症。
 
学生の頃にそんな病にかかり、それだと思った。冬に数回似たような症状が出た。
そしてその年の春、新型コロナウイルスが流行した。感染はしなかったが、それにより無性に不安に苛まれ、数日会社も休んだ。
その後しばらく何もなく過ごせたが、夏くらいからは発作の頻度が増えた。
日に日に電車に乗るのが怖くなっていた。内科に診てもらうも全く異常なし。
もしかしたら混む電車がダメなのかもしれない。そう思い早めの時間帯に出勤し始めた。
上司にも出勤時間について何度か相談したが、まともに取り合ってはもらえなかった。
「電車が嫌なら近くに引っ越せばいいじゃないか」
そんな正論だけ突きつけられて。
いやいや、引っ越すって、そんな簡単に言わないで。そんな元気ないし、お金かかるじゃん。無理だよ。
後から知ったことだが、勤務時間の調整には、どうやら医師の診断書が必要だったらしい。
だが、そんなことを知らない私はどうにも出来ない現実に打ちひしがれていた。
 
そんな時、職場内で最も信頼していた上司の異動が決まった。
異動に関しては前から話は出ていて、覚悟はしていた。していたつもりだった。
(大丈夫、何とかなるさ。すぐに慣れるだろう)
と思っていた。
だが、予想以上に自分の中で堪えていた。
新しい上司の方もとても良い方で、時間をかければよい関係は築けたと思う。働く人数は変わらない。一見変化はないようにも思えた。
直属の上司は私が異動した直後から無関心だった。とりあえずそれなりに業務を知り、動ける人がいれば誰でも良かったのだ。それに気づいたのが異動してひと月経過してから。
 
ここは自分と合わないと肌で感じた。
 
直属の上司自身はとても優秀な方だ。いわゆる仕事は出来る上司。周りからの評判も良い。
だが、威圧的な態度も多く、私は恐怖に怯えていた。
私は常に機嫌を伺いながら仕事をしている有様だった。とにかくイエスマンになっていた。
今考えたらおかしいのだが、上司に対してほぼ自己主張をしたこともなかった。休みに関しても言えなかった。もちろん取得自体は出来たが、それでも急に言われる事が多かった。そこに私の意志は何もなかった。
余計なことを言って職場の空気を乱したくなかった、嫌われたくなかったのだろう。
これは賛否両論あるかもしれないが、雑談はコミュニケーションの一種であると思っている。もちろん仕事に影響のない程度にだ。

ある日、私が(もちろん声は落として)日常会話をしようとしたら「うるさい」と一喝された。その後も何度も。ちなみに他の社員には一切言わない。私にだけ。目の敵にされていたのだ。
もう、本当に嫌だった。どうして私ばかりこんな理不尽な扱いを受けないといけないのか。毎日泣きたい気分だった。
異動していった上司はそんな私の様子を知っていて、
「あなたはちゃんと仕事してるし、頑張ってくれてるから、気にすることないよ」
といつもさりげなくフォローして、頼ってくれた。どれほど励みになっていたか計り知れない。だから今まで頑張れた。
その支えを失くし、徐々に私の居場所がなくなっていった。そんな錯覚すら感じた。
(気のせいじゃない?)
そう思いたかった。だが、日に日に孤独感が増していった。
その理由の一つは後輩の存在。
前の上司の時は皆で協力して仕事を進めようとしていたが、異動した上司がいなくなってからは私に相談することなく独断で仕事をするようになった。どうして?と思うことが多くなったが、じっくり話す機会もなく、私の中でもやもやとしたものが溜まっていった。
その後輩も異動した上司を慕っていて、とても寂しがっていた。その穴を仕事で埋めるために一人で頑張っていたのかなと今になってみれば思える。だが、当時の私はそんなことを考えられる余裕もなかった。
私は私なりに必死だった。
 
―――新しい上司にも必要とされたい。
―――居場所が欲しい。

職場はカタカタとキーボードを叩く音と電話の鳴る音しかしない無機質な空間。
異様過ぎる空気感。耐えがたい時間だった。
これでまだ繁忙期なら 何も考えず集中出来るのだが、閑散としていたので余計なことを考えることが多くなった。
目の前には誰かは確かにそこにいる。
だが、手を伸ばしてもがいてももがいても何にも届かない、異様な世界に入り込んでいくような感覚。なんの希望もない闇に自分が侵蝕されていく。
苦しかった。職場に行くのも、いるのも辛かった。誰も私を必要としてないのに行く意味はあるの?
もう、行きたくない。どこか違う場所へ。私を必要としてくれる場所へ。
 
でもそんな場所、この世にあるの?
 
誰かに相談出来れば良かったのだが、そんなのわがまま、甘えだろうと誰にも言えなかった。頼れなかった。
(仕事なんだから我慢しなきゃ、無心で)
そう自分に言い聞かせ、心を殺して体にムチを打つように出勤していた。
そんな中、一年に一回の定期面談が直属の上司とあった。
事前に書いた転勤についてのことだった。通勤時間がやや長いこともあり、ずっと希望していた。
私は僅かな期待を膨らませていた。転勤さえ出来れば大丈夫、大丈夫だから。
 
「転勤は早くても一年半先だね」
いちねん……半。
その言葉に私の心はぽっきり折れた。もうそんなに、頑張れない。
もはや絶望しかなかった。
その日の帰り道、一番辛い発作に襲われ、症状も一気に悪化した。眠りも浅く、食欲もなく、常に胃が痛かった。
好きだった趣味に関してもやる気がなくなり意欲が薄れていた。
自分がこの世にいる意味はあるのだろうか。そんなことを度々考えるようになった。
数日後の朝、いまだかつてない異変が起きた。まともに起き上がることが出来ないのだ。
背中の骨でも折れてるのかと思うくらい痛くてたまらない。トイレにすら這って行かないといけない。かろうじて指を動かし、実家の母に電話をした。
「体痛くて動けない……助けて」
一人暮らしである私に母は何事かとすぐに来てくれた。
体を支えてもらいながらなんとか起き上がり、母お手製のおにぎりを口にした。
胃腸の調子も悪く、あまり食事を取れていなかったが、不思議と食べれた。あの時のおにぎりの味はずっと忘れることはなく、美味しかった。少しホッとしたのか、今まで抑えていた感情が一気に溢れ出し、私は涙が止まらず母に胸の内を打ち明けていた。
それまでは泣くことすら出来なかった。
 
―――悲しい、苦しい、辛い。さびしい。
 
何も考えないようにしていた。考えることを否定して、感情を凍らせていたのだった。
病院にかかったのはそれから二日後だった。予め内科の先生に紹介状を書いてもらっていたので、すんなり予約出来た。
よくわかっていなかったのだが、どうやら予約は結構大変らしい。それだけこころの病を抱えている人が多いのだ。心療内科は、最初はなんとなく怖いイメージもあったが、特別なことは何もなかった。他と何も変わらない。
最初に病名を聞いた時、よく分からずネットで調べた。
自分としては「自律神経失調症」か「パニック障害」かとばかり思っていたから意外だった。
冒頭にも少し書いたが、外出時、特に電車に乗ると具合が悪くなっていた。
乗った瞬間からなんの前触れもなく、心臓がギュッと締め付けられるような感覚、息苦しさと異様なまでの喉の乾きがあった。息がまともに吸えない。声を出すのも辛い。過呼吸に近いかもしれない。
そして気持ち悪さと手足のしびれ。時間にしては一〇分くらいだと思うが、これが永遠に続くのではないか、周りに迷惑をかけたらどうしようと常に不安と恐怖に苛まれ、必死で耐えていた。一駅がやたらと長く感じた。酷いときは我慢出来ず、一駅乗って降りては休んでを繰り返し職場に行ったこともある。
(このままじゃダメだ、なんとかしなきゃ)
自分なりに調子が悪い理由を分析し、満員電車が駄目なのかなと早めに家を出るようになった。その甲斐あって遅刻せずに済んだ。
だが常に発作への不安と緊張に苛まれ、職場の最寄り駅に着いた時には疲労困憊になっていた。
そんな状態では仕事も身に入らない。
最初は行きだけだったのが、徐々に帰りにまで発作を引き起こすようになっていた。
コロナ禍だったということもあり、マスクをしているのも余計苦しく、外したくて仕方なかった。そのことも発作を誘発する理由の一つだった。まさに生き地獄のような時間だった。
その症状はのちに「パニック発作」だとわかる。
パニック発作のイメージは、急にパニックなって暴れ出したりするとかあるのかもしれないが、全く逆だ。
静かに、ひたすら苦しい。まさにそれだった。
そうして診断を受けた日に、休職を言い渡される。上司にはひとまず診断書の写真を送り、休職を告げた。
  
130日の休職のはじまりだった。
 


続きは本にて。


11月11日(土)文学フリマ東京37で頒布します。

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