自由に成る。
今日は誰と遊ぼうか
何して遊ぼうか
公園に行こうか、家でゲームをしようか、
それとも駄菓子屋に行こうか、
最後にそんな風に思えたのはいつだったか。
限りなく自由に、
自由を謳歌できたのはいつだっただろうか。
そこにあったのは何だったというのか。
愛だ、愛かもしれない 。
その時、自分は、
「全て」とは言わないけれど、
その時表明したいことをそのままに、
友達に、先生に、みんなに、表明していたように思える。
いま自分に存在が不十分を感じるものは、そういうものだ。
毎日のように合う人、話す人、それでいて刺激を与え合い、共に歩んでいく、そういう人たち。
どう出会おうか、どこで出会おうか、いつ出会おうか。
迷っている、うまく見つかっている感じはしない、手探りで動いていくしかないか。
今知る限りのつながりと情報を用いて、
最大の自由を最も生かすことができるような愛を持つ場所に行こう、人と関わろう。
自分に愛を溢れさせよう。
自分もいろんな人に愛してもらう。
そうして自由と愛のどこまでも大きくしてあげること、
それが今は大事そうなんだな。
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「今日は何をしたらいいだろう?」
と思案しつつ、今日を過ごしています。
今自分は、莫大な自由を手にしています。大金持ちならぬ大時間持ちです。
一応、詩的な文章と、こうしたその日考えた事の文章を1日ひとつの一つ書こうか、というのを一つの目安として頭の中においているわけなのですが、今日朝起きた時は
「あんまりする気が進まないな。」
と思う節がありました。
自由が機能するのは、そこに愛がある時なんだなと感じます。
今日の自分なら自己愛ということになりますが、
「何を書いてもいいよ」
「頭の中に出てくるものをそのまま出しな」
と声をかけてあげたこと、自分を愛してあげられたことにより自由が機能を始めました。
今ここまでもにしても、そうして自分を解放させてあげることによって、自らの言語機能を自由に働かせて文章を書くことができているのです。
何をしていいかわからない時は、 自分を選択肢から解放してあげること、
「何してもいいよ。」
と言ってあげて、そのまま思うままに心と頭に思い浮かんだことに従って手や体を動かしていく、そこにまるで意思を介在させないかのように。
そうして、今現在、自分が文章を書き進めているように思い浮かんだ事に没頭していく。
このように無意識の集中を産むことができることが才能というものの一つの要素なのかもしれません。
初めは書くつもりもなかったのに才能の話に終着しました。才能について話すこと、これもまた自分の才能なのかもしれないと思いつつ、今日は終わりにしたいと思います。
では。
現在準備中の家賃0円ハウスの費用に充てさせて頂きます。