きれいな記憶はきれいなままで
この記事の続き。
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生まれも育ちも広島だが、大阪で過ごした大学時代が楽しすぎて、卒業後も大阪の人として生きるつもりでいた。
ところが実際卒業すると広島勤務となって、しぶしぶ帰郷した。さらに新入社員研修で居眠りしたのが仇となり、わずか3ヵ月で今度は横浜へ飛ばされた。いよいよ大阪から遠く離れて最初は大いにどんよりしたが、横浜は行ってみると思っていたより随分良い街で大変気に入った。
半年で広島へ戻る約束だったのを、あんまり気に入ったものだからこのまま横浜に居させてほしいと願い出たらあっさり許可された。広島地区の上司に対する報復のつもりもあったが、先方には願ったり叶ったりだったのだろう。
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横浜では当初、休みの日には山下公園のベンチでファミマのカレーを食って過ごした。観光客から奇異な目で見られることで、後年大阪へ “帰って” から「横浜でガツンとやってやった」と自慢するつもりだったのだ。
ただ残念なことに自分の休みは平日ばかりだったから、さすがの山下公園も観光客はそれほどいない。何だか虚しくなって、じきにやめてしまった。
横浜には都合5年住んだ。仕事さえなければずっとここにいるのも悪くないと思ったが、実際に仕事を辞めたら居続ける理由もなかったから大阪へ “帰る” ことにした。
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大阪では、卒業校の近くにアパートを借りて住んだ。
学生時代から引き続きその辺りに住んでいる友人もまだおり、時折会って話したりした。何だか半分学生時代に戻ったような不思議な気分で、ある種の達成感もあった。
ただ、街は随分様変わりしていた。
行きつけの店——喫茶店3軒と古本屋1軒——の内、喫茶店2軒は既になくなっていた。残った1軒は代替わりしていた。入ってみたが、店主は知らない若者で先代もいなかったから黙ったままチャーハンを食って出た。以来一度も行っていない。
古本屋は店も店主も健在だったが、店主から完全に忘れられていた。ここは仲の良かった先輩のバイト先で、自分は先輩から店主に紹介されて出入りしていたのだけれど、先輩のことは覚えていても自分のことは一向に思い出さないようだった。ことによると認知症だったのかもしれない。
結局、自分が好きだったのは「友人らと過ごしたあの頃の大阪」で、そこへはどうやったってもう帰れないのだとわかった。だったら今も大阪を好きであり続ける理由はない。
戻ってからぴったり1年で、今度は名古屋へ移ることになった。
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横浜は今でも好きだが、きっと大阪と同じことになるから再び住もうとは思わない。
きれいな記憶はきれいなまま置いておくのがいい。
よかったらコーヒーを奢ってください。ブレンドでいいです。